episode16《視界の隅の隔》
空港から一歩外に出ると、夏らしい気候に少しむっとした。マウイ島も常夏ということで暑かったが、日本ほどの圧迫感はなかった。むしろ風があって気持ちよかったくらいだ。
日本の夏に帰ってきた感があって、たった数日旅行だったにも関わらず、ここが懐かしく感じられた。
「羽田の出口って初めて」
私の後ろをスーツケースを引いて歩いてきた遼太が呑気に言った。その言葉に『海外に出たきり日本に帰ってきていない』という意味合いが含まれていることに気づくと、なんだか寂しくなった。その期間だけ、遼太と私は離れていたのだ。たった2年と考えるか、もう2年と捉えるか。
明るく返そうかと思っていたが、自分でも思いも寄らないことに気づいてしまったがゆえに、彼を小馬鹿にすることもできなくなった。
しかし、熱気を含んだ風が私の髪を揺らすと同時に、重い考えも吹き飛ばして行った。
「じゃあ……これから日本で初めてのこと増えていくんだね」
彼の顔も見ずに呟くように私は言った。このとき遼太がどんな表情をしたかは分からないが、言葉の詰まり具合から戸惑っているのが分かった。
「……そうだよ、俺はお前と、初めてが増えるのが、楽しみなんだよ」
初めてを体験する人に私が入っていることに驚いて、向けていなかった顔を彼に向けた。相変わらず戸惑った様子で、頬が少し赤かった。
そんなつもりで言ったんじゃないんだけどな……。
遼太の顔色を見て、私まで顔が赤くなってしまった。まだまだ2年前の私たちみたいに、お互いを突き合うようなことはできない。これが大人になった証拠なのだろうか。
そのあとに続く言葉が出ないままでいると、突然目の前に一台の車が停まった。いかにも高級そうな黒塗りだった。車に
なぜ眼前に停車したのか気になっていると、左側の窓が開いた。助手席だと思っていたが、そこは運転席だった。
そこに座る人をじっと見ると、黒縁眼鏡に堅苦しいスーツを身に纏った男性だった。いや、女性のようにも見える。もう、この際どっちでもいい気がした。その人はハンドルに片手を置いたまま遼太に声をかけた。
「リョウタ、ムカエ、キタ。ハヤク、ノル」
声からして女性だった。それよりも、日本語のカタコトさがすごかった。こうして耳にするだけだと、言葉は悪いが、中国人の詐欺師のようだった。実際、遼太の知り合いだから犯罪に手を染めるような人物ではないと思う。そう信じたい。
車で颯爽とやって来た人に私が驚いていると、遼太はフレンドリーそうに彼女に返答した。
「いやー助かった。これでタクシー代も浮くなあ」
そしてスーツケースをトランクに入れ始めた。
彼女に関しての説明がないまま遼太は行動していく。まったく、彼の人脈は計り知れない。
とりあえず彼に
「カタコトでびっくりしただろ」
まるで思考を読まれたかのような感覚だった。戸惑いながらも私は肯いた。それを見て遼太は笑った。
「ただの送迎だから日本語はあんまり必要ないと思って、あれだけの言葉しか教えてない。もしかしたら新しい単語も覚えてるかもな」
よし、と言ってトランクを閉めた。再度、彼についていくと、いつの間にか運転席から出ていた送迎係の彼女が扉を開けてくれた。感謝の意を伝えたかったが何語で言ったらいいのか分からず、とりあえず「ありがとうございます」と言った。伝わったのかは分からないが「うむ」とでも言いたげな顔をして頷いてくれた。
車に乗り込むと、シートのふかふか加減に驚いた。まるでソファだった。シートのそれに驚いていると、あとから遼太も乗り込んで来た。
最後に運転手の彼女が乗ると、車は空港の敷地を出て行った。
一つ目の信号で停まったとき、運転手がこちらを振り返った。何かを言いたそうだが、私には分からなかった。
ずっと車窓の景色を眺めていた遼太を呼ぶと、彼はしまったというような顔をした。
「お前、一人暮らし始めてから引っ越してないよな?」
少し焦り気味で私に問うてきた。なぜそんなことを今さら聞いてくるのか不思議だったが、すぐに合点がいった。
「うん、してないよ」
私がそう答えると、遼太は安心したのかふぅぅぅっと長い息をついた。そして運転席に座る彼女に私の家の住所を伝えた。
彼女が頷いて前を向いた瞬間、信号が青に変わった。どうやら、行き先が決定したようだった。気づけば、私まで心拍が速まっていた。
『ハヤク、ノル』みたいな必要な日本語しか教えていないと言った遼太だが、きっと彼女は私の家の住所を聞いてすぐに場所が分かったのだろう。一瞬の戸惑いも見せることなく、また、ナビに住所を入力することなく発進したのだから。日本語が分からなくても日本の地理は把握できるのか、ちょっと疑問に思った。
車で10分ほど走った頃、今まで黙っていた遼太が声をかけてきた。
「……来週、会える?」
突然静寂を破られたので私は驚いた。声のした方を向いたが、遼太は追い抜いていく車を眺めているばかりで、私の目は見てはくれなかった。
そう言った彼の声は、なんだか哀愁じみていて、寂しそうだった。何かつらい過去を隠しているかのような物言いだった。
何を思って来週の約束を結ぼうといるのかは理解できなかったが、私は頷いた。
「会えるよ」
そこで何をするのかは分からないが、きっと彼がしたいことがあるのだろうと信じた。
私の返事を受けたらこちらを向いてくれるのかと思ったが、遼太は顔を見せてはくれなかった。代わりに「ん」とぶっきらぼうな声が聞こえた。
わざとこちらから質問はしなかった。今はお互いに黙っていても、繋いでくれるものがあるように思えた。
そこからさらに数十分が経過し、日本語カタコトの彼女が運転する車は私のアパートの前に停車した。住所そのままの座標で驚いた。
手荷物をまとめてドアを開けようとすると、外側から開いた。運転手をしていた彼女が開けてくれたのだ。
「あ、ありがとうございます」
今度は気兼ねなく日本語で礼を言った。すると彼女も硬めではあるが微笑んでくれた。それが底なしに嬉しく感じた。
なんだろう、この気持ち。人見知りの子どもに懐いてもらったみたい。
日本語が乏しいとはいえ、彼女に正直な気持ちを伝えたら失礼だから、微笑み返すだけにとどめた。
先に降りていた遼太がトランクから私のスーツケースを取り出してくれた。それを受け取って車から少し離れた。
空港からここまでの間、遼太は全然口を開こうとしなかった。何が原因だったのかは不明だが、私のせいじゃないといいな、なんて思っていた。
車に戻る前、遼太が私に近づいてきた。何をされるのか不安になったが、とりあえず彼の行動を待った。彼は顔に陰りを見せながら。
「また連絡する」
と言って、私に背を向けてしまった。そして、遼太を乗せた車は遠のいて行った。
遼太の不自然な態度に疑問を抱きながらも、私は家に入った。てっきり、その日のうちに彼から連絡があるのかと思っていたが、実際に来たのは翌日の夕方だった。
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