episode15《恋に関するアイロニー》
日本に到着する1時間前になって、やっと遼太が目を覚ました。私も退屈になって少しは眠ったが、遼太ほど長くは寝ていられなかった。
目を覚ましてもまだ寝足りない様子の彼に挨拶をすると、寝起き特有の掠れ声で彼も挨拶を返してくれた。その声が面白くて大笑いはしなかったものの、くすりと失笑してしまった。
周囲からはまだ寝息を立てている音が聞こえていた。遼太よりも長く眠れる人がいると考えると驚きだ。私は3時間ほどで目が覚めてしまったというのに。
ここからうっすらと見える日本に目を凝らした。現在時刻は午後7時。やっとビルの明かりがつき始めた頃で、少しずつ煌めきを帯び始めていた。
綺麗だなと思ってると、突然隣にいる遼太が何かを話し始めた。
「俺、実は円と海で会ったとき、写真を1枚しか撮ってないんだ」
急なことで私は何の話なのか一瞬分からなかったが、3日ほど前のことだと分かって彼に話を合わせた。
「なんで、1枚だけ?」
私がそう尋ねると、なぜか彼は少し顔を赤らめた。その理由は分からなかったが、赤くなった彼が可愛くて深堀りしてしまった。
「ねぇ、教えて。なんで1枚しか撮らなかったの?」
遼太の顔をわざとらしく覗き込んで聞いた。すると彼は顔を通路側へそらして、私からは見えないようにしてしまった。しかし、1枚しか写真を撮らなかった理由は教えてくれた。
「ただでさえ綺麗なお前が好きなのに、ファインダー越しに見たら俺はどうなるんだろって考えたら……い、1枚しか撮れなかったんだよっ!」
照れながら答えてくれた彼が本当に可愛かった。まさかこんな人が有名ファッションブランドのオーナーだとは思わないだろう。実際、私は思えなかった。
顔は見えなかったが、絶対赤くなってることが分かった。このまま質問を続けたら本格的に拗ね兼ねないので、このへんで止めておこうと思った。
遼太は顔を背けているので気づかないが、実際のところ赤面しているのは私も同じだった。照れているとはいえ、すんなり私のことを綺麗と表現してくれたことが嬉しくて恥ずかしかった。このままバレないといいなと思いながら窓から地上の景色を眺めようと、彼から目を離した。
「ん、お前も顔赤くなってる?」
「へっ?!」
素っ頓狂な声をあげて彼に目線を戻した。するとすぐ目の前に彼の顔があった。少し喋るだけでも息がかかってしまいそう。
ほんの数秒前まであんなに赤面していた彼は、意地悪な天使に変身していた。まだ赤みは残っているが、照れているという様子はあまり感じられなかった。
自分でも顔が真っ赤になっているのがわかる。今更隠したところでもう遅い。遼太の顔が、唇が、数ミリのところにあったからだ。
「ちょ、遼太……こんな所で……?」
どうにか自分から彼を引き剥がそうと彼の腕を抑えたが、遼太は止まろうとしてくれなかった。むしろ私の行動が彼を楽しませてしまっているように思えた。
「寝てるから誰も見てないよ。見えちゃっても、見て見ぬフリしてくれるって」
内心そういう問題じゃないと思ったが、息のかかる距離で話しかけられているのに言えるはずがなかった。
先ほどより少し強めに彼の腕を握ると、一瞬だけ彼の動きが止まった。けれど私たちの顔の距離は全く変わっていなかった。
「言っておくけど。先に誘ったの、お前だから」
そう囁いた後、遼太はにやりと笑った。どういう意味なのか分からず
(誘ったのが私ってどういうことなの……?)
互いの唇が離れたりくっついたりする間、ずっと考えた。もちろん遼太との口づけにどきどきした。
私たち以外にも人がいるために声を抑えなくてはいけなかった。けれど今の遼太は意地悪だから、生易しいキスはしなかった。どうにか声を我慢していると、それに気づいたのか彼が唇を離してくれた。
私が一回だけ大きな息を吐くと、彼はまるで少女のように笑った。そしてすぐ意地悪な天使の顔になった。
「俺を子どもみたいだって笑うお返し」
なにそれと思ったが、彼を子どものようだと呆れて笑ってしまうのは否定できない。
何も言い返せずにいると、また彼の顔が近づいてきた。とっさに目を閉じる準備をしてしまった。しかしキスではなかった。
「俺はもう大人なんだよ。円をどきどきさせられるくらいには、ね」
耳元で囁かれたその言葉は、私の体の中を電撃のように走った。そんなことを言われて、言い返すなんてできるわけない。それを分かっていて遼太は耳元で囁いたのだろうか。どこまでも意地が悪い。
彼の弱みとなりそうな言葉を一応考えていたが、やはり何も思いつかなかった。私ばかり無駄にどきどきさせられている気がして、ちょっと悔しかった。
遼太はもう飛行機から降りる準備をしていた。人をこんなにもどきどきさせておいて自分だけ降りる準備とは、呆れたものだった。でも、許せてしまった。日本人特有の心の広さというわけではないが。
機内に着陸するというアナウンスが流れ、数分で機体が安定した。
遼太ほど荷物を散らからせていなかった私は、すぐに降りる準備ができた。それを確認したにも関わらず、遼太は座席から立ち上がらなかった。通路側にいる彼が動いてくれないと私も降りられない。
確かに、通路には人がたくさん並んでいて無理やり入ることもできないが、それでも立つくらいはしてもいいと思う。
私の不満さに気づいていながらも、遼太はにこにこしていた。何がそんなに楽しいのかわからなかった。これが経営者の余裕ってやつなの?
後ろの方から来ていた人の波が
私も立ち上がろうとしたそのとき。
「お手をどうぞ、お姫様」
眼前に手が現れた。驚いて視線を上げると、無邪気に笑った遼太の顔があった。彼の顔と手を目線で行ったり来たりしていると、遼太がまた優しく言った。
「こうして私がお仕えするのは円様ただ一人でございます」
どうして執事のように振る舞い始めたのか、きっかけが全くの不明であった。しかし、私がそこに手を乗せないと、この茶番は終わりを迎えない雰囲気だった。
「意味わかんない」
笑いながら彼の手を握った。すると、私自身は何も力を入れていないのに、ひょいと腰が席から離れた。一瞬の出来事でどんな魔法が起きたのかと混乱したが、彼に呟くように「ありがと」と礼を言った。それを受けて遼太は、少し口角を上げて頷いた。
遼太は私に背を向けて歩き出した。私もそれに続いた。
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