episode14《イノセントワールド》
体を大袈裟に揺らされて目を覚ました。そこは空港だった。10分という短時間でも睡魔に勝てなかった自分がなんだか恥ずかしかった。
顔の紅潮を、起床後の体の火照りのせいにして、急いでタクシーから降りる。トランクからスーツケースを運転手に取り出してもらい、礼を言った。そしてホテルマン同様に「Have a good」と手を振ってくれた。マウイ島の人たちは本当に親切だった。
先に空港の入り口で待っていた遼太のところまで走って行くと、彼に笑われた。
「あの短時間で寝れるなんてすごいな」
笑われたことにも怒りを覚えたが、ここまで来ても飛行機に乗り遅れてしまうという焦りを感じていない彼自身に対して怒りを覚えていた。
「急がないと本当に遅れちゃうよ」
立ち止まってまだにやけている遼太を背に私は建物内に入った。搭乗手続きのカウンターはどこだろうと辺りを見渡していると、ぐいっと向いていた方とは逆に手を引かれた。私の手を引いて歩き出した遼太は保安検査へと向かっているようだった。
「ちょ、そっちじゃないじゃん!」
腕に力を込めて遼太を止めさせると、彼は振り返った。その顔には余裕が感じられた。安心して、とでも言われている気がした。
「俺、すごいんだ。でもまだ秘密」
そう言って遼太は人差し指を口の前に立て、ウインクをした。彼独特の雰囲気に気圧され、私は何も言うことができなかった。
私から反論の言葉が無いことを確認すると、遼太はまた保安検査へと歩き始めた。私の手首を握っている彼の手は原因不明の熱を帯びていた。
空港内には観光客と思われる外国人がたくさんいた。アジア系の人間は私と遼太だけなのでは、と不安になるほどに。空港自体はだいたい白で統一され、清潔感を感じるが、どこか病院を彷彿とさせた。
遼太に手を引かれるまま建物内を眺めながら歩いていると、急に彼が立ち止まった。彼の目線を追うと、私たちの眼前にパイロットらしき男性2人とキャビンアテンダントと思しき女性が5人立っていた。初めての出来事でどう対応すべきなのかを考えていると、隣で微笑む気配がした。ふと彼を見ると、本当に微笑んでいた。
「お待ちしておりました、小林様。どうぞ、こちらへ」
目の前に立つ7人は遼太に向けて頭を下げた。
(なになに、どうなってるの!?)
今いる場所が夢の中で現実にいる気がしなくて、私は焦って遼太の腕にしがみついた。そんな私の頭にポンと大きな手が乗った。
「あとでちゃんと話すから」
その言葉だけで私は一瞬の安堵感を味わってしまった。しがみつく力が緩くなった。遼太は疑心暗鬼になっている私を無理やりはがすことなく保安検査まで連れて行ってくれた。
マウイ島行きの飛行機に乗る前と同じ丁寧さで保安検査を通ると、そこからは異常な速さで進行した。
キャビンアテンダントの2人が私と遼太のスーツケースを持って走り去り、彼女たちを目で追っていると今度はキャビンアテンダント3人がチェック済みのチケットを持ってきた。それに驚いていると、パイロットが飛行機まで最短ルートで案内してくれた。
遼太に声をかけることも歩くことも許されていないようだった。何もかもが早くて、ただついていくのがやっとだった。自分の足で走るよりも体感速度が倍にも感じられた。
あっという間に飛行機に乗った。ふぅっと息をつくと1分後に離陸の合図がかかった。
機内はとても静かだった。もし私たちの到着がもう少し遅くて離陸直前の時間だったら、この状況は裏返っていたかもしれない。そう考えると肝が冷えた。
通路側に座る遼太を見ると、早速寝る支度を始めていた。ちょっと呆れたが、飛行機に遅れないよう手配してくれたのは彼だ。休ませてあげよう。そう思ったが、一つ気になっていたことを質問してからだと遼太の手を掴んだ。私の行動に驚いたのか、彼は不審者を見るかのような目で私を見た。
「なんだよ急に」
その驚いた様子が子どもみたいで、でも私の彼氏で、どうしようもなく嬉しかった。
彼の手に被せた自分の手に力を込めながら尋ねた。こんなことを聞いてもいいのかと言いながら思ったが、手遅れだった。
「さっき言ってた秘密ってなに?」
『あとでちゃんと話す』と彼は言っていた。こんなに早く聞き出すことではないのかもしれない。しかし気になって仕方がない。
「やっぱり大丈夫」と伝えようとしたところで、遼太が口を開いた。私と彼の手は、恋人つなぎに変わった。ぎゅっと握られた右手は、どんどん熱を帯びていき、湯たんぽのように熱くなった。
手の温度が上昇していってしまうことを焦りながらも、遼太の目を見つめた。その方が、今感じている手の熱さや心拍数の多さを悟られない気がしたからだ。
「本当は俺、写真家なんかじゃないんだ」
彼の口から告げられたことに、私は特に驚きもしなかった。彼が名前を遼平だと偽っていた頃から何度驚いてきたことか。むしろ、この程度で驚きはしない。
「写真家じゃなくて、経営者なんだ」
遼太は言いにくそうに、呟くように言った。さすがに驚いた。
写真家なんて大層な職業ではなくて本当はただの公務員なんだ、とか言い出すのかと思っていた。予想を遥かに超えて、まさか経営者とは驚きだ。
驚きのせいなのか、彼と繋いでいた手の熱がどんどん冷めていき、冷や汗をかくほどに変わった。違う意味で彼から目が離せなくなった。開いた口が、塞がらなかった。
停止しかける頭で改めて考えてみる。遼太の本当の職業は経営者。つまり、私は経営者と付き合いをしているということになる。それが現実であることを理解すると急に怖くなって、やっと彼から目線が外れた。
経営者。つまりは社長。会社のトップ。そんな凄い人の隣に私は今、いる。
遼太が何か言ってくれないかと願う。私から何かを言うなんて、なんだか許されないような気がした。
私にとってはとても長い5秒か10秒が経過し、遼太の優しくて安心できる声が聞こえた。
「経営者って言っても親父の後継ぎだから、形だけみたいなとこあるけどね」
軽く笑う遼太の顔を見て、安心できた。
よかった。遼太は何も変わってない。今まで通り、私が好きな遼太だった。
ふとやっと回転し始めた頭の中に疑問が浮かんだ。
「遼太のお父さんって、有名なファッションブランドの社長さんだったよね?」
まだ驚きと恐怖が残っているのか、私の声は震えていた。しかし、冷え始めていた手は再び熱を取り返しつつあった。
私の質問を受けて、遼太は少しとぼけたような顔をした。
「あぁ、そうだけど?」
何か問題でも? と言いたげだった。私にとっては問題が山積みだった。
このまま日本に帰ったら大企業のトップだった人と話をしなくてはいけないと考えると、長いフライトを終えたくない気持ちになる。しかも、話がうまくいったとして、遼太が会社の代表としてメディアに出る場合、私は彼の夫人ということになるだろう。私が彼の相手でいいのだろうか。
自分の考えが深すぎることは自覚していたが、どうにもそれを改めることはできなかった。
どうしようと考えているうちに、すぐ隣からスースーという吐息が聞こえた。吐息ではなく、寝息だった。
何の害も受けない、天使のような寝顔だと思った。今まで私が過度に心配していたことさえも吹き飛ばしてしまうくらい、優しかった。
子どもみたいだなと思いながら空からの景色を眺めた。まばらに広がった雲が、太陽の光を嬉しそうに跳ね返していた。
この世界は、案外優しいのかもしれない。
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