episode13《停滞の中で加速》

 ネックレスを穴があくほど見ていると、スマートフォンの着信が私の思考を遮った。やっとケースを手から離して着信の相手を確認した。すると遼太からだった。もうそんな時間なのかとそのまま視線を画面の右上へ移動させると、13時を回ったところだった。今回の遼太からの着信はメールだった。そろそろチャットの方も教えた方がいいかなと考えながらもメールを開く。


『ホテルの駐車場で待ってる』


 彼からのメールにはそう書かれていた。ただそれだけの文章なのに、遼太の優しさが滲み出ている気がして、先ほどまであんなに考え込んでいたネックレスのことも、頭から離れていった。

 私はスマートフォンとネックレスが入ったままのケースを手持ちの鞄に入れると、世話になった部屋をぐるりと見回した。

 ベージュ色のカーテンからは暖かい日が差し込み、部屋全体を包み込んでいた。旅へのわくわく、恋人のできたドキドキ、全部を吸い込んでくれたベッド。私を輝かせようとしてくれたドレッサー。

 たった数日の滞在なのに、なぜか愛着が湧いていた。

 日本人らしく部屋の入り口で深々と頭を下げた。すると嬉しそうな寂しそうな、部屋の声が聞こえた気がした。オカルトみたいな話だけど。

 ルームキーを持ち、扉を閉めた。ここから別れが続く。

 下へ降りると、がらりとしたロビーがあった。フロントには男性のホテルマンがいた。近づいてみると、私の部屋までプレゼントを届けてくれた彼だとわかった。


「チェックアウトします」


 そう言いながらルームキーを差し出すと、彼はにっこり笑って手続きをしてくれた。宿泊料を告げられ、財布からちょうどを出した。レジを打ちながら彼はちょっと嬉しそうに尋ねて来た。


「プレゼントはいかがでしたか?」


 突然の質問に驚いたが、彼が親切心で聞いてくれているのだと推測すると、私は正直に答えた。


「とても嬉しかったです。でも、なんで送られてきたのかわからないんです」


 私の気持ちを汲み取ったのか、ホテルマンは少しの間驚いた顔をしてその後すぐに笑った。


「送られた方は理由など特に考えてないと思いますよ。ただ、あなたにプレゼントがしたいという気持ちがあっただけでしょう」


 そう言って私にレシートを差し出した。受け取りながら、そういうものなのかなと考えた。もちろん、彼の言葉は一言一句正しくは通じていないが。

 レシートを財布に入れ、更に財布を鞄に入れると、私は3つの意味を込めて礼を言った。するとホテルマンもこれ以上ないかと思われる満面の笑みで「Have a good」と送り出してくれた。

 手持ちの鞄を肩に掛け直し、スーツケースを引いた。なんだか彼の言葉で、ネックレスが送られてきた謎はどうでもよく思えて来た。親切な彼に感謝の気持ちしかなかった。

 軽快に歩き出し、エントランスを抜けると、そこはここに到着した日と同じ夏空が広がっていた。マウイ島の空ともお別れか。そんなことを考えて寂しくなっていると。


「円っ!」


 ロータリーにタクシーを止めて待っている遼太の声が聞こえた。ぱっと視線を向けると、ものすごく嬉しそうな顔をしていた。とっくに二十歳をすぎているというのに、子どもらしい笑顔を私に向けてきた。それを私は母親のような感情で見守った。今の私と彼を見て、恋人同士だと気づく人はそう多くないだろう。それくらい、平和だった。

 私が遼太に近づくと、彼は少し大人びた笑顔になった。彼は色々な表情ができるんだった、そう思い出した。昔のことを振り返っていると、ポンっと頭に遼太の手が乗った。私が戸惑うと、彼はまたニカっと子どものように笑った。


「お前と日本に帰れるなんて夢みたいだ!」


 遼太の目は輝いていて、まるで初めて日本に行くかのようだった。そんな彼に私は呆れた顔を向けた。その顔を見て、遼太は口を尖らせた。


「なんだよ、人を子どもみたいに見やがって。言っとくけどな、歳なら俺の方が上だからな」


 私の呆れた顔を不満に思ったらしい。しかし、それに対する言い訳さえも子どもにしか思えなかった。

 遼太の言葉を「はいはい」という適当な返事で済ませると、私はタクシーのトランクにスーツケースを彼のと並べて入れた。そして、車内に乗り込んだ。それを「待てよ」と慌てた声音で遼太が追いかけてきた。

 彼が乗り込んだのを確認してからドライバーが車を出した。遂に街との別れだ。

 名残惜しく車窓の風景を眺めていると、遼太が私の顔を覗き込んできた。何かと思い、目を丸くすると、彼もまた首を傾げた。どうしたのだろうと思っていると、彼が口を開いた。


「なんでネックレスしてねぇの?」


 顔の近さに顔が紅潮していった。鈍感な彼はきっと、私がなぜ顔を赤くしているのか分かっていないのだろう。

 それにしても、どきりとした。ネックレスと言われて思い当たるのは、ホテルマンに渡されたペリドットのあれしかない。やはりあれは、遼太からのプレゼントだったのだ。別の人を思い浮かべていなくてよかった。と思うと同時になぜ遼太が誕生日でもなく誕生石でもないペリドットのネックレスを贈ってきたのか疑問に思った。

 ネックレスをつけていないことをどう言い訳しようか考えていると、がさごそと何かを漁るような音が聞こえた。何だろうと探って見ると、遼太が私のバッグに手を突っ込んでいた。


「ちょ、何やってんの!」


 焦って彼の手を掴んで引き抜くと、また彼が私に顔を近づけた。また心臓が跳ねた。今度は何を言われるのか、心臓の鼓動がどんどん速くなっていく。


「この中に入ってるんでしょ、出して」


 息がかかるほどの距離でそう言われ、私は抵抗することもなく、バッグからネックレスの入ったケースを取り出した。すると、待ち兼ねていたかのように遼太がそのケースを取り上げた。私は声をあげる暇もなく手中からネックレスを失った。

 私の手から彼の手に渡ったネックレスは、遼太の行動のおかげで太陽の光を帯び、きらりと輝いた。そこでやっと分かった気がした。

 ペリドットってこんなにも綺麗だったんだ……。

 石に見惚れていると、ぱっと遼太がこちらを向いた。またもや心臓が跳ねた。どうやら私の心臓は遼太の表情というよりかは、遼太という存在に弱いみたいだ。


「せっかくだからお前がつけてるとこ、見たい」


 気のせいかな。遼太の顔も少し赤い気がする。

 彼が好き、彼女が好き、そんな気持ちはお互い同じなのだ。こんなところで変なことに気づいたなと思って、私は彼にばれないように小さく頷いた。


「せっかくだから、遼太につけてほしい」


 ここまできて、私は遼太を弄んでるなと思った。先ほどまで弄ばれていることを不満に思っていたのに、自分でも気づかないうちに寝返っていたのだ。

 私の言葉が彼に届いて、お互いの視線が交差している時間がとても長く感じられた。実際は3秒ほどだっただろう。遼太の瞳孔が大きくなったり小さくなったりしている。緊張が伝わってくる。

 じわり、と背中に汗が浮かんだところで、遼太がネックレスの留め具を外した。そこからの流れは速かった。

 すっと首の後ろに彼の手が回り、数回手が動くと、すぐさま首にちょっとした重みを感じた。心臓が遼太との距離に気づかない間に、彼はネックレスをつけてしまったのだ。

 彼との距離に覚悟するために俯かせた視線を上げると、そこには美しいばかりの遼太がいた。どう見ても遼太ではない気がした。ふと、遼平の顔が脳裏に浮かんだ。焦って心の中で首を振る。決して遼平ではない。でも、遼太でもない。誰だ?

 遼太の顔に見惚れて考えていると、彼がペリドットにそっと触れた。同時に、指が私の肌を掠った。くすぐったいような感覚に陥り、とっさに遼太の顔から目線を外した。


「すごく似合ってるよ、円」


 幾度となく繰り返してきた言葉のように、遼太はすらっとその言葉を述べた。実際に言われたのは、初めてだった。だから、心拍数が追いつかない。

 どんどん遼太の顔が宝石に近づいていく。まさか、と思った瞬間、タクシーが停車した。驚いて前方を見ると、見事な渋滞だった。周りの車に目をやると、ハザードランプを点滅させていた。車窓から隣の車を覗くと、そこには呆れた表情をした運転手がいた。


「ごめんなさい。渋滞、長引きそうですね」


 タクシードライバーが謝ることはないのに、と思った。口から「大丈夫です」と出そうになるのを必死に抑えた。実際は全然大丈夫ではないのだから。あと1時間もすれば、予約していた飛行機は出発してしまう。かといって、ここから空港まで歩いて行くわけにもいかない。

 どうしたものかと少し考えていると、横から流暢な英語が聞こえてきた。


「僕ら、心広いので大丈夫ですよ」


 私のわざとわかるように言ったのか、流暢だと思われたその英語は、とても聞き取りやすかった。遼太の言葉を聞いたドライバーは苦笑いをして、渋滞と向き合う決意を固めたようだった。

 聞き取って自分で訳してみて、焦った。


「大丈夫じゃないよ、あと1時間で出発だよ!?」


 私が焦っても何も変わらないことは十二分にわかっていた。しかし、焦らずにはいられなかった。

 遼太のワイシャツの裾を軽く引っ張りながら反論したが、彼は微笑んだままだった。それからまた数回服を引っ張ったが、彼は私を子ども扱いするかのように頭を撫でてきた。


「大丈夫だって。日本人は心が広いんだから。これくらい許せるでしょ」


 遼太の優しくて頼れる笑顔に対して反論はできなかった。諦めて服の裾から手を離した。

 今タクシーの中で何を企んでいるのかは不明だが、いずれにせよ彼は行動を起こすはずだと思った。その証拠に、少し笑顔がぎこちない。笑顔に余裕さがなく、代わりに眼光が鋭く煌いていた。彼なりの考えがあるんだと理解しても、予約した飛行機に遅れるなんて怖いことは体験したくなかった。

 やっとタクシーが動き出したときに、遼太は誰かに電話をし始めた。盗み聞きのようなことはしたくなかったが、どうしても気になって彼の口調に耳を澄ませた。


「えぇ、あと10分くらいで着くと思うのですが、できますか? −−はい、お願いします」


 短な質問と応答で終わらせたその会話は、とても淡白に感じられた。まるで、仕事をする時の口調だった。

 業務的な電話を不思議に思ったが、それを彼に尋ねることはできなかった。電話の内容を尋ねるのはプライバシーを侵害するような気がしたからだ。きっと私が質問したところで、彼は誤魔化してしまうのだろう。

 指にネックレスを絡ませながら、遼太が何を考えているのかを想像してみたが、なにも分からなかった。実際、なぜ小林遼平という偽名を使ってまで砂浜で声をかけてきたのかだって、詳細には理解していないのだから。その謎が完全に解けていない今の私に、現在の彼は何を企んでいるのかなんて、憶測したところで当たるはずはない。

 自分で考え込みすぎだと自覚して車窓の景色に目を逸らせると、視界がぼやけて、ついにそれは真っ暗になった。

 なんだか、いい夢を見た気がする。

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