episode11《Re》

 すぐ横を波が寄せるところを私たちは歩いた。時折、大きな波が私の足をめがけて寄ってくるが、濡れるのは彼が防いでくれた。私を波から守るときに肩に置かれる彼の手が、大きくて温かくて切なかった。

 二人で座れそうな流木を見つけ、そこに腰かけた。ごつごつしていたが、別段座り心地が悪いわけではなかった。海からくる暖かい風が頬を撫でると、私はそれに身を委ねた。

 この穏やかな気持ちなら言える。

 ゆっくりと瞬きをしてから口を開いた。


「遼太、あのね」


 私が彼に向こうとすると、突然手を握られた。遼太の表情を確認すると、彼は顔が引きつっていた。なぜ、と思う暇もなく、今度は遼太が口を開いた。


「俺、まどかのこと諦めきれない。どこにいても円のこと考えてるんだ。俺には……円しかありえないから」


 急に名前を呼ばれ、胸が跳ねたことは自分でも分かった。同時に、その跳ねた胸の中に心地よい気持ちが溢れた。彼が紡いだ言葉の全てに決意に似たものが感じられ、気圧された。

 私の言葉を遮ってでも言いたかったのだろうか。少し落ち込みそうにもなる。しかし私が言いたかったのは、彼と同じ内容なのだ。

 彼に気づかれないように小さく頷き、私は遼太の手に自分の手を重ねた。


「私もね、やっと答えが出たの。――私も遼太のことずっと考えてた。小林遼平が好きなんじゃなくて、小宮遼太が好きなの」


 緊張している割には、すんなりと言えた。自分で驚いたが、それはもうどうでもいいことだ。今は、遼太と過ごす時間を余すことなく感じたい。

 私の言葉を聞いた遼太は驚いていた。このような答えが来るとは思っていなかったのだろうか。

 その驚いたままで固まっている遼太の頬に手を移動させ、私は意味ありげに微笑んだ。もうその時は無意識だった。特に彼と何がしたいとかあった訳ではない。ただその時間を大切にしたいだけだった。

 しかし彼は勘違いなのか意図的なのか、私の首に手を回した。そして自分側に引き寄せた。

 引き寄せられた私は抵抗することなく、海風同様、彼に身を委ねた。

 どんどんと顔が近づいていき、唇があと数ミリで届いてしまう距離まで動いた。

 浅くなった呼吸を整えようと息を吸うと、遼太が数ミリの距離を詰めた。


「んっ……」


 彼の行動の早さに驚き、吸った息をすぐさま吐いてしまった。仕方なく目を閉じて、彼が私とのキスに満足するまで待つことにした。

 唇が離れかけたとき、薄く目を開けると、そこには艶っぽい顔をした遼太がいた。不覚にも綺麗だと思った。その一面は遼太ではなくて、遼平のものだったのかもしれない。

 自分で遼平のことを思い出したのに、なぜか照れ臭くなって急いで唇を離した。遼太が艶っぽい表情を改めて、どうした? と聞きたそうに私を見つめていた。彼の顔をなるべく視界に入れないよう俯いて首を振った。

 本当は『なんでもない』と言おうとしたのに、喉が詰まってしまった。自分でもなぜ照れているのか分からなかった。


「ありがとう、返事くれて嬉しかった。しかも、両想いだなんてな」


 遼太は恥ずかしそうに鼻をかいた。そんな彼を見て私の照れ臭さはどこかへ行ってしまった。照れ臭さの代わりに嬉しさがこみ上げて来た。

 今、私は小宮遼太の隣にいる。そう思うとこの時間が現実ではないように思えた。しかし先ほどのキスが現実であることを証明していた。

 遼太の唇の感触は忘れられないほどに、私の唇に残っていた。

 時折強くなる風に誘われるかのように海を向くと、出発したばかりと思しき客船が沖へ出ようとしていた。

 私も遼太と別れて日本に帰るのかな。離れるなんて、嫌だな。

 無意識に感情が表に出ていたのか、それに気づいた遼太が声をかけてきた。


「やっぱり日本に帰る?」


 急な問いかけがあり、私はすぐに彼の言葉の真意を確かめるべく、振り返った。

 私の感情が移ったのか、彼も寂しそうな顔をしていた。

 気を遣わせてしまったことを悪く思い、彼を安心させるために笑った。


「まだ帰るつもりはないけど、いつかはね。ここに来たのはただの旅行だし」


 それでも寂しいという気持ちは、ひと欠けらも消えてはいなかった。むしろ、音にしたことによって倍増してしまった。

 例え私と一緒に日本へ行ったとしても、彼はすぐ他国へ移ってしまうだろう。世界中を飛び回る写真家なのだから。

 初めから私と遼太は、共にはいられないのだ。限られた時間のみ過ごせるのだ。

 自己解釈で、そう考えることによって自分は納得していた。

 長くなった沈黙を破ったのは、また遼太だった。


「俺も日本戻ろっかな」


 彼の言った言葉に驚きを隠せなかった。彼から日本に戻ると言うなんて、想像していなかったからだ。提案するとすれば私からだと思っていた。

 そして、私は遼太の次の言葉に更に驚くこととなった。


「日本に戻るんだったら、写真家も辞めようと思う」


 遼太は伸びをしながら気楽そうに言った。私は開いた口が塞がらなかった。今すぐ彼の肩を揺さぶってやりたくなった。

 私のためだけに日本に戻り写真家を辞めるなんて、して欲しくなかった。

 先ほどまでの嬉しさや寂しさは既に彼方へ飛び去り、今は驚きと悲しみが私の心の大半を占めていた。

 『やめて』と心の中で叫んだ。実際は音にすらならなかった。せめてもの思いで、彼の手を精一杯握った。

 私の想いに気づいたのか、遼太は微笑んだ。


「もちろん、自分のためにって考えてる。円が心配することない。それに――」


 遼太の言葉の続きを、私は泣きそうになる顔で待った。

 彼は私の手を強く握り返してくれた。



「円とあの日をやり直したいから」



 一瞬、彼の声しか聞こえなくなった。

 あの日とはもちろん、遼太と約束をして浮気をされた、会えなかった冬の日のことである。

 遼太が、私とのやり直しを望んでいることを知って、とても嬉しくなった。もう泣きそうな顔じゃなかった。

 泣いていた。

 遼太を困らせるとは思ったものの、涙を自分で止めることなんて不可能だった。

 そんな私を、遼太は焦ることなく抱いてくれた。

 彼の胸の中で、嗚咽を上げることしか出来なくなった私に、遼太は言った。


「俺らなりのあの日から今日までを残そう」


 そう言った彼に私は何度も何度も肯いた。

 現在いまの私たちなら、あの日から今日までを大きな間違いを犯すことなくやり直せる。

 遼太が私に与える安心感が、そう語っていた。

 彼となら、過ちを犯してしまった過去の自分さえも壊していける。

 すべて、遼太がいれば――。

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