episode9《不変なる優しさ》

 遼平の手が離れる頃には、私の涙はすっかり止まっていた。

 互いに手を離すと、何物にも代え難い温もりがそこに居座った。ずっとこれが残ればいいのにと願う反面、もう彼のことは忘れたいと思う自分がいた。

 涙を最後の一滴まで丁寧に拭き取ると、私は遼平の目を見つめた。彼は数秒見つめ返してきたが、すぐに口を開いた。


「本名を暴かれたら、黙ってるわけにもいかないよな」


 急に遼平の口調が砕けたものになり、私は驚きを通り越して首を傾げそうになった。

 もう私の目の前に小林遼平は存在していなくて、代わりに小宮遼太がいた。しかし、中身が変わったところで、私の心持ちに変化はなかった。

 永遠の別れだと思っていた昔の彼に会えたことよりも、なぜという疑問が頭の中を占拠していた。


「なんで今頃来たの……なんでもっと早く私と会ってくれなかったの……」


 無意識に遼太に問いかけていた。言いたいこととは別のことを言っていた。それすら訂正する気力も残っておらず、そのまま話を掘り下げることにした。どんな答えが来ても受け止めよう、そう思っていた。


「浮気したのは、悪いと思ってる。それから、生きてたこともちゃんと言わなくて、ごめん」


 遼太はただ謝った。

 私の問いに沿っていないことを重視すれば、それは怒りに繋がることだった。しかし怒る感情さえ湧かない。これ以上問う気にもならない。


「私、もう帰るね」


 私は立ち上がった。鞄を持ち上げ、足早に店を出ようとする。店員が清々しいほどの笑顔で送り出してくれた。

 後ろから遼太の声が聞こえた。


「は、帰るって」


 彼は私がホテルに戻ると勘違いしているようだった。確かにホテルに寄るが、その後は遼太に無関係だった。

 片付けをしながら言う彼の言葉を、半ば遮るように答えた。


「日本に」


 もう話すことはない。もっと話していたら、自分自身を見失ってしまうかもしれない。

 震えそうになる声で精一杯言うと、私は店のドアを押し開けた。

 外に出ると、太陽が私を励ますかのように照り付けて来た。今の私の心には雷注意報が出そうなほど雨雲が浮かんでいるのに。

 背後でバタンという扉が閉まる音がして、遼太が追ってきたと予測した。次いで彼の声が聞こえた。


「ホテルまででも送るから、乗って行けよ」


 親切心なのか、気遣いなのか、遼太は車のロックを解除しながらそう言った。命令に似た口調で、断るのもなんだか申し訳なかった。

 感謝の言葉も言わずに、私はロックが解除された車の助手席にどっかりと乗り込んだ。

 自分で情緒不安定だな、と思った。笑顔で話していたのに、急に泣きだして、今度はむすっと思っている。私は本当に、何がしたいのか。分からなくなっていた。

 車に遼太が乗り込み、エンジンをかけた。綺麗に舗装された道を、遼太の運転するレンタカーが走り出した。

 決して安定しているとは言えない車の振動だったが、それが疲れた体に少し心地よかった。

 顔を合わせるのが気まずく、私はほとんど車窓の景色を眺めて時間を潰そうと思っていた。


「俺さ、ここの海でお前に会ったとき、運命だなって思ったんだ」


 遼太が急に話し出した。驚いて、私は今まで心に溜めていた怒りもなにもかもを忘れて彼の顔を見た。

 そんな私を見て彼は小さく微笑んだ。それは見慣れた、懐かしいと思える笑顔だった。


「会いたい会いたいとは思ってたけど、本当に会えるとは思ってなかったから、お前があそこに座ってたときは、びっくりしたし夢なんじゃないかって思った」


 自嘲気味に遼太は笑った。しかし、その無邪気な笑みはすぐに消え、彼は自分のズボンの後ろポケットをごそごそと漁った。そこから出て来たのは、白い封筒だった。

 私の中から怒りはすっかり消えていて、何事もなかったかのように私は手渡された少し皺がついた封筒を見る。

 封筒には、私の日本の住所がローマ字で書かれていた。裏面に差出人の名前はなかった。更に言えば、切手も貼られていなかった。これを書いた人に送る気はあるのか。

 私が封筒の文字に目を通したのを確認すると、遼太は再び話し出した。


「それ、俺が書いたんだ。でも、いつ送ろうか、いつ本当のことを伝えようか迷ってて。悩んでる間にお前に会ったってわけ」


 少しずつ遼太が真実を話してくれるのが嬉しくて、でも私からは何も話せなくて。もどかしい気持ちが心に漂ただよった。

 隣から昔を懐かしむ空気が漂っていたが、それに正しい反応ができない私だった。


「よかったら読んで」


 なかなか封を開けない私にしびれを切らしたのか、遼太が許可をくれた。

 『うん』とも『わかった』とも言わずに私は手紙の封を開けた。


 突然の手紙をお許しください。俺は小宮遼太といいます。きっと死んだはずなのに、とか思ってるでしょう。でも俺は生きてます。君との約束を破ってもう一人の彼女と出かけたこと、本当に申し訳ないと思ってるし、取り返しのつかないことをしたと思っています。こんな文章で許されたいとは思っていません。ただ、俺が生きていることを許して欲しいのです。今、俺はペルーで小林遼平として生きています。もし俺のことを覚えててくれたなら、忘れてください。思い出させてしまったのならごめんなさい。折り返しの手紙は必要ないです。君と会うことも今後一切ないでしょう。短い手紙になりましたが、お体に気をつけてお過ごしください。


 読み終えて、私は涙が止まらなかった。

 ――生きていることを許す――

 そんなのに、許可なんて要るのだろうか。

 虚偽を明かすことを1度は決意し、この手紙を書いた遼太は今、どんな気持ちなのだろう。

 視界が歪んだまま彼を見た。遼太は真っ直ぐ先の道を見ていて、私の様子に気づいてはいるが何をするでもなかった。

 頬を伝う大粒の滴を大雑把に拭い、震える声で尋ねた。


「忘れて欲しいって書いてあるけど、今はどう思ってるの……?」


 ところどころ声が裏返り、ちゃんと伝わったか心配だったが、私の問いを聞いて遼太は微笑んだ。

 水っぽい視界でも彼の笑顔ははっきりと見えて、私に安心感を与えた。


「さっきも言っただろ。俺はお前が好きなんだ」


 目は合わないが、気持ちは真っ直ぐに伝わった。まるで今進んでいる道のように。

 キパフル地区でのことを思い出し、顔が熱くなっていくのを感じた。そこであった出来事は驚き以外の何物でもないが、好きと言ってもらえたことが嬉しくない訳ではない。

 今思えば、あの台詞も遼太の気持ちだったのだ。

 遼平のものであり、遼太のもの。そう思うと、なんだか二人に告白されたかのような錯覚に陥りそうになる。実際は、同一人物なのに。

 今日あったことを振り返っていると、自然と涙も治まってきた。彼と一日を過ごせたことが幸せだと感じ始めていた。


「さっきは返事けど、もうしてくれてもいいんじゃね?」


 照れているのか、少し口を尖らせた遼太が言った。

 『俺はお前が好き。お前の気持ちは?』といった意味を込めた言葉が私に届いた頃には、体温が上がり風邪でも引いているのではないかと軽い勘違いをし始めそうになっていた。

 私は、遼太のことをどう思っているのだろうか。もちろん付き合っていたときは好きだった。事故が起きたことを知って、自分も後追いしそうなほどに好きだった。だんだんと記憶が薄れて完全に彼のことを忘れると、もう遼太について考える時間もなかったので、好きなんて感情は特になかった。

 さて。問題は今だ。今現在、直接告白されてどう思っているのか。人としては好きだ。気遣いができて優しくて。でも、それは遼太なのだろうか。私が今優しいと思っているのは、遼平のことではないのか。

 遼太について考えれば考えるほど、答えは出なくなるのだった。


「……悪い、そこまで考えさせるつもりじゃなかったんだけど。ほら、荷物取って来いよ」


 遼太の声で難しい考えから意識が外れ、目の前にホテルがあることに気づいた。随分と長い間考えてしまったようだ。

 ぼんやりしながら車を降りると、背後から声がかかった。


「お前、本当に帰るのか……?」


 遼太の声だった。しかし、それは明るいものではない、哀愁を帯びたものだった。

 それが気にかかり、振り返った。彼は心配そうな表情をしていた。

 何を言いたいのか分からず、首を傾げた。


「どういうこと?」


 きっと彼には、私がとぼけているようにしか見えなかったのだろう。少し呆れて、頭を掻いた。


「そんな難しい顔してたら飛行機乗るにも危なっかしいだろ。自分の気持ち確かめてから帰国したら? ってこと」


 遼太が意図していることが伝わり、私は納得した。そして相槌を頷きに変えた。

 彼が『だろ?』という顔をしていた。


「今日はゆっくり休め。俺にできることがあったら、電話でもメールでもすればいい。じゃあな」


 急に頼もしい男になったような気がして、自分自身の見る世界が少し変わった。

 遼太は変わらない優しくて明るい笑顔を見せてくれていた。

 彼から与えられた一時的な別れの言葉をどこか上の空で聞いて、なんとなく返事をした。

 私が車のドアを閉めると、遼太は見事な運転でさっさとホテルのロータリーを抜け出して行った。

 車が見えなくなっても、私はそこを動けずにいた。

 私、遼太のこと、どう思ってるんだろう。

 遼平のことを思うと鼓動が早くなる。しかし、遼太の場合は、鼓動が早まるというよりかは安心するのだ。友達感覚で気軽に話せる、そんな人だと思っていた。

 遼太はもう、私の恋人じゃない。

 そう思い直すことによって、私の中で一つ結末を迎えた。

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