episode7《探偵ごっこ》

 電話が切れてから驚きっぱなしだったのに、もっと驚かされた。

 きっと彼も焦っているだろうに、妙に落ち着いた声が私の耳についた。

 私の腕を掴んでいる手が熱かった。たとえいつも通りの声でも、緊張しているのが分かった。

 反応に困った私を見て、普段の落ち着きを取り戻したのか遼平が手を放した。


「すみませんっ……」


 彼の手は離れたはずなのに、まだ掴まれていたところが熱かった。それだけ私も彼のことを考えていたということなのだろう。

 恥ずかしさを隠せないながらも目線を上げて遼平の顔を見た。

 遼平の顔は、今すぐにでも火を出しそうなほど真っ赤だった。林檎なんて例えじゃ足りないくらいに。

 未だに心臓の速まった鼓動が鎮まらない。

 まさか昨日会ったばかりの人に告白をされるなんて、夢にも思わなかった。まず、私に想いを伝える人がこの世に存在するかどうかも疑わしかったのだから。


「ふっ」


 ほとんど無意識にそんな音が漏れた。もちろん私の口からだ。何かが私の中にこみ上げて来て、遂に私は今の状況に笑ってしまった。

 赤い顔をしたまま戸惑った遼平が、片手で顔を隠しながら私を見た。その瞳はまるで恋する少女のようだった。少し涙目で、自分の想いを伝えたいけれど伝えられない、そんな少女を見ている気分だった。

 そんな彼に私は言った。


「ご、ごめんなさい。でも、なんだか可笑しくて……」


 くすくすと笑いを堪えきれずにいると、遼平の表情が変わった。

 赤くなっていた頬は平然としていて、彼自身もぽかんと呆けていた。そして、つられるように遼平も笑いだした。

 きっとこんなときは真面目に答えるべきなのだろうが、こうして2人で笑いだしてしまったら終わりがない。

 どうにか笑いを治めて、遼平に宛てて言葉をゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「お気持ちは嬉しいんですけど……私、まだ応えることができないです……」


 しっかりとした理由も考えずにそう口走っている自分がいた。理由を聞かれたらまずいなとは思ったものの、遼平が納得するようなものは思いつかなかった。

 しかし私のちょっとした焦りとは裏腹に、彼は陰気な声を陽気な声に変えて言った。


「そうですよね。困らせてしまって、本当に申し訳ないです」


 遼平は理由を聞かなかった。気になっているはずなのに尋ねないなんて、きっと彼なりの気遣いなのだろう。それとも、ただ自分の今の気持ちを悟られたくないからだろうか。

 彼の顔には少し赤みが戻ってきていて、私といる時間を幸せと感じてくれていることが伝わってきた。

 こんなにも私を想ってくれているのに返事ができないなんて、自分が情けなかった。

 何か私ができることはないかと考えていると、遼平が再び私に触れた。

 今度は腕ではなく、手だった。


「お昼にしましょう。僕、お腹すいちゃって」


 そう微笑むと、証拠を見せるとでも言うかのように遼平のお腹が鳴った。

 今の私にできることは、彼の隣にいることだ。努力なんて1mmも必要ないのだ。

 遼平の温かい手が難しいことを考えすぎていた私の思考を溶かしていった。


 手を繋いで歩き出した私たちは車に戻り、遼平が薦めるハンバーガーショップに向かった。

 店内に入ると、パティがこんがりと焼ける匂いとフライドポテトの揚がる匂いが空腹を刺激した。まだお腹は鳴っていないが、今すぐにでも鳴りそうな雰囲気だった。

 彼が注文を終える姿を確認して私もレジカウンターへ一歩寄る。


「ここはチーズバーガーが美味しいですよ」


 遼平がすれ違い狭間にそう囁いた。しかし振り返っても彼は私に背を向けたままテーブルへ向かってしまった。

 ここは彼が薦めてくれた通り、チーズバーガーを食べてみようと思った。

 日本語なんて一つもないメニューを形だけ眺めて、習いたての英語でオーダーした。

 チーズバーガー1つとアイスコーヒーMサイズ分の代金を支払い、遼平がいるテーブルへ向かった。

 椅子に腰かけてバッグを横に置くと、遼平がくすっと笑った。


「ずいぶん緊張してましたね」


 無邪気なその笑みに一瞬心を奪われそうになって、自分が緊張したと思われることについて考えを一巡りさせた。

 あ、注文のこと?

 まるで私の考えていることが筒抜けのように更に遼平が続けた。


「僕に助けを求めるかと思っていました。でも、余計なお世話だったみたいですね」


 キパフル地区での出来事が夢だったかのように、遼平は普通に私に接している。それがなんだか申し訳なく思えてしまった。

 そんな気持ちを紛らわす為に、私は話を変えた。


「そういえば、私、自分のこと何にも話してないですよね」


 話題を変えたことが自分で不自然としか思えなかった。遼平は気にならなかったのだろうか。

 彼は変わらない微笑みのまま頬杖をついた。


「へぇ、教えてくれるんですか?」


 遼平のその仕草に私は心臓を跳ねらせずにはいられなかった。

 全てを見透かすかのような眼光が、私には妖艶なオーラを纏ったようにしか感じられなかった。

 どうにか通常の表情を保とうと頑張っていると、遼平のハンバーガーと私のハンバーガーを両手に持った店員がやって来た。注文したものが完成したようだ。

 店員はハンバーガーをテーブルに置くと、すぐにキッチンへ戻って行った。

 遼平の妖しげな目線を忘れられないままにハンバーガーに手を伸ばすと、彼がまた意味ありげなことを言った。


「教えてくれるんじゃないんですか? 僕、小野崎さんのこと知りたいです」


 はっとして再び遼平に目線をやると、まだ妖艶なオーラは健在していた。いや、健在というよりかは、衰えを知らないかのように私を捕らえていた。

 これは話すほかないようだった。


「分かりました、食べながら話しましょう」


 彼の笑顔に負けたと言っても過言ではないくらいに、私は苦笑した。それほど彼が私に興味を持ってくれるとは正直、思っていなかった。

 ただの話題提供がこんなことになるなんて、想像もしていなかった。

 私はチーズバーガーを一口頬張った。とろりとしたチーズがビーフパティに絡まり、見事な調和を生みだした。比喩ではあるが、頬が落ちそうだった。

 遼平はというと。彼はハンバーガーには手をつけず、フライドポテトをちまちまと食べていた。いつもサラダから食べていますというかのように、主食には手を伸ばさないのだった。

 口の中のものを大体飲み込んでから私は話し始めた。


「じゃあ、話しますね。――私は日本でウエディングプランナーをしています。マウイ島に来たのは観光が目的です」


 簡潔に自分の職業とここに来た理由を話した。その二つを話すことは、自分の身分を明かすことのように思えた。

 ウエディングプランナーという言葉を聞いて遼平は眉をぴくりと動かした。そして、どこか物憂げな目をした。私が意識を留める間もなく、すぐに彼の目は微笑みへと変わってしまった。


「ウエディングプランナーですか、いいお仕事ですね」


 そう言った遼平は、注文したフィッシュバーガーを手に取った。既に彼のフライドポテトは半分もなくなっていた。

 私は彼からの質問があるだろうと思って、その先は話さないようにした。しかし、遼平は何も尋ねてこなかった。なぜだろうと思ったが、私から気になったことを聞いてみることにした。


「あの、ウエディングプランナーに思い入れとかあるんですか?」


 急に自分のことではないことを話し始めた私に驚いたのか、遼平はバーガーに口をつけたまま目を見開いた。私はただ、物憂げな目をしたのが気になって仕方なかっただけなのだが。

 遼平は何かを諦めたかのように数回咀嚼をしてから口を開いた。


「昔付き合っていた彼女が、ウエディングプランナーになるって言って勉強していたんです」


 遼平の伏せた睫毛が長くて綺麗だった。

 私もウエディングプランナーになるための勉強をした。ウエディングプランナーにはただ結婚式の知識だけではなく、コミュニケーション能力や接客業の知識も必要となる。図書館に行ってはその類の本をかき集めてペンを走らせたものだ。


「週末は図書館に行って、彼女は接客とかの本を読みながら勉強して、僕はその隣で好きな本を読んでいました」


 私と彼が付き合っていた彼女は、話を聞く限り似ていた。本屋に行って本を買うのではなく、図書館で本を借りて勉強をする。決して金欠だった訳ではないだろう。

 遼平は今現在彼女と付き合っているかのように幸せそうな顔をしていた。しかし、次の言葉を話し始めたら、急に顔色が変化した。


「でも、2年前に別れました。いえ、別れたというよりかは自然消滅って感じですかね。彼女と会う約束をしていたのに、僕が行けなくなったんです。それから、連絡が途絶えてしまって……」


 なんだか彼につらい話をさせてしまった自分を悔やんだ。気安く思い入れなど聞くからいけなかったんだ。

 続く言葉がないと思っていた私は、まだ手にあったバーガーを強めに握った。しかし、遼平は言葉を続けた。


「なんか、しんみりしちゃいましたね。小野崎さんの話、まだ聞かせてくれますよね」


 ぱっと上げた遼平の笑顔に私は誰かを重ねていた。

 あれ、私、この笑顔をどこかで見たことがある。先月? いや、もっと前だ。

 記憶を遡っているうちに難しい顔をしていたのか、遼平が心配そうに顔を覗き込んできた。その顔にも見覚えがあった。

 少しだけ垂れた目、すっと通った鼻筋、薄い唇、シャープな顎。

 遼平の顔が別の人物と完全に一致した。私の中ですべてが繋がった。私は目の前の男を知っている。先月には会っていない。最後に会ったのは、2年前の秋……。

 意識を過去から現実へと引き戻し、私は少し俯きながら遼平に尋ねた。


「小林さん、訊いてもいいですか」


 抑揚のない声で私が言うと、遼平は戸惑った話し方で答えた。


「なんですか?」


 もう、2年前の冬の出来事が喉のすぐそばまで出て来ている。

 そうか。海辺で彼と初めて会った時に感じたのは、決して間違いじゃなかったんだ。見覚えがある程度では済まされない。私は、誰よりも彼を知っているはずだから。

 荒くなりつつある呼吸を落ち着けるために深呼吸をしてから、口を開いた。


「あなたは写真家なんかじゃないですよね。もちろん、小林遼平という名前も私を欺くための罠ですよね」


 怖かった。こんなところで、今まで遼平と過ごした時間が無駄になるなんて、嫌だった。

 お願い、本当のことを聞かせて。

 そう願っている自分がいた。彼の返答次第ですべてが変わってしまうのだから。

 恐怖のあまり、冷え切った手をぎゅっと握りしめていた。だんだん震えも大きくなっている。

 今から、私の探偵ごっこの始まり。

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