episode6《偶然は必然の内》
遼平が足を急に止めて私の手を離した。今度はもう、どうしたんだろうという感情は浮かばなかった。
私の眼下にはマウイ島のほとんどを見わたせる景色があった。
私たちがいたであろう街はミニチュアのように小さくなり、その周りを延々と続く海が取り囲んでいた。
美しさのあまり、私は口を阿呆のように開けて景色を眺めた。その景色を表現する言葉さえも出てこなかった。
どうにか呼吸をして、眼下の街並みを目に焼き付けていった。
ある程度見わたし終えると、遼平が私の肩を軽く叩いた。
振り向くと、彼は笑顔で優しく言った。
「とても綺麗でしょう。僕、この景色を見るためだけに何度も登ってるんです」
言って彼は遠くの景色を見つめた。
遼平の目には小さくなった街が映った。
私には、美しい景色を綺麗だと表現した彼の方が、美しく感じられた。これだけは綺麗という言葉では言い表すことができなかった。眼下に広がる景色よりも光輝いて見えた。
街を見る遼平に見惚れていると、急に彼がこちらを向いた。
「えっ、あっ……」
どうやら戸惑ったのは私だけのようだった。
困惑した私を見ても彼は異常な反応はしなかった。
「僕は上に登って写真を撮りますが、小野崎さんはどうしますか?」
先ほどの切なさが返って来たようだった。
平然とした遼平の態度が妙に私の心を突く。
私も同じような態度をとらなければ。そう思えば思うほど、ぎこちなくなるのだった。
彼から少し目線を外して、眼下の景色を眺めながら考えた。
朝食をとっているとき遼平が、上に登るのは大変だと言っていた。彼はそれを承知で綺麗な景色を写真に収めようと上に登るのだ。私が付いて行って、また足手まといになるのは御免だった。
「私は下に行きます。キパフル地区、でしたっけ?」
目線を遼平に合わせながら答えた。
それに彼は快く頷いてくれた。
「分かりました。何かあったらすぐに電話してくださいね」
そう言って、遼平は手を振り、山を登って行った。
彼が本格的に山を登り始めるのを確認すると、私もキパフル地区へと出発した。
山を下りながら私は考えていた。
小林遼平という男は私が出会った人の中で、誰かに似ていた。しかし、学校の同級生でも今まで付き合ったことのある彼氏でもない。確かに会話をしたことのある人なのだろうが、名前も顔も思い出せなかった。
誰だろう誰だろうと考えているうちに、あっという間にキパフル地区まで来てしまった。
あっと気づいて周囲に意識を集中させてみると、そこには文字通りの大自然があった。大きな森を切り開いたところに一本川が流れていて、そこでは珍しい魚が泳いでいた。浅瀬のところでは子どもたちがばしゃばしゃと水遊びをしていた。
その光景にふと口角が上がった。
遼平の正体についての思考までなくなったほどだ。
子どもたちの眩しい笑顔を見ていたくて、私は近くのしっかりとした岩に腰を下ろした。
あんな風に私たちも遊んでいたのかな。
そこまで考えて、不思議に思った。
私たちって誰のことだろう。
どれだけ記憶を遡っても遊んでいた相手の顔がはっきりしなかった。
子どもを見て上がっていた口角も次第に下がっていき、ついに私の顔には表情がなくなった。
誰なんだろう。小林遼平って、誰。
狂いそうなほどに張り巡らせた思考を、着信音が遮った。画面を見ると小林遼平と書かれていた。
あぁ、また小林遼平。ほんとに誰にのこと。私、そんな人知らない。
知らないと思いながらも私の指は応答のボタンに触れて、スマートフォンを耳に当てていた。
「もしもし」
全く抑揚のない声で出ると、相手は名乗った後に言った。
「小林です。そろそろお昼にしませんか? 今から小野崎さんの方に行きますね」
遼平の陽気な声が私の頭に流れて来て、難しくなっていた思考を溶かしていった。
再び陰気な声で返事をすると、今度は心配をするかのような声が聞こえた。
「どうしたんですか? 元気がないようですけど」
彼は歩き始めたようで、声と共にざくざくと砂利道を歩く音が聞こえた。
遼平の質問にどう答えようか迷った。なんでもないと答えるべきか、正直に話してみるべきか。
そんなことは私にとって簡単な自問自答だった。
「私、急に小林さんのことが分からなくなってしまって」
今にもスマートフォンを握っている手の力が抜けてしまいそうだった。
心配だったからではない、不安だったのだ。
ここで彼について知ることが私の為になったり彼の為になったりするのか。
少し間を空けた後に、遼平がくすっと笑って言った。
「本当にどうしたんですか。パンを食べていたときの小野崎さんと同じじゃないみたいです。……僕は僕です。昨日マウイ島の海岸で初めて会って、今は一緒にハレアカラ国立公園に来ている、写真がただ好きな小林遼平です」
落ち着いた声に乗せられる言葉は、すんなりと私の中に吸いこまれていった。
ちゃんと遼平の姿が見えた気がした。
「そうですよね」
私は苦笑しながら言った。
「ほんと、私どうしちゃったんでしょう。もう平気です、ありがとうございます」
無理やりと思しき陽気な声で言って遼平の返事を待った。しかし、彼の声は聞こえなかった。
「あの、小林さん?」
電話越しの音に耳を澄ませていると、ブツッと聞こえ、その後には切断音が鳴った。
遼平らしくなかった。挨拶もなしに電話を切るなんて彼の性格からして想像できなかった。
不思議に思いながらスマートフォンを耳から離すと、突然後ろから殴られたかのような衝撃がきた。
一瞬、事態の収拾がつかなくなって、本当に意識を失いそうになった。しかし私は朦朧としかける意識の中で起きたことを確認しようと試みた。
私の首には腕が巻かれていた。誰の腕かは分からない。けれど、男性のものであることは確かだった。
私が後ろを振り返る前に、私の首に腕を巻いた者が声を発した。
「手荒なことをしてすみません。なんだか、僕もあなたのことが分からなくなりました」
その声は、遼平のものだった。
故に私は起きたことが更に分からなくなった。
彼の声は自信を喪失したかのように震えていた。
電話の切り方といい、この状況といい、遼平はどうしてしまったのだろうか。
動揺を隠せずにいると、私に抱きついたままの彼が深呼吸をした。その吐いた息が耳にかかり、今度は私が息を吸うことになった。
深呼吸のおかげで落ち着いたのか、遼平が私から腕を離した。と同時に私も体勢を立て直した。
ふり返って遼平の顔を見ると、彼は顔を赤らめ、汗をかいていた。そんなに急いでここまで来たのかと思えるほど、大粒の汗が滴っていた。
こんな彼を見ていては心配でならない。
どうにか遼平のふらつく体を支えなくてはと思い、私は腕を伸ばした。するとその腕を彼はぎゅっと掴み、力を込めた。
「僕、小野崎さんが好きです」
遼平の言葉を理解すると、私は反射的に目をいっぱいに見開いた。
目線も体も動かせない。
返事をする余裕なんてない。
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