Case:5-16
「名取美和が依頼人と一悶着あったときにむしりとったボタンです。もちろん依頼人の指紋が付着しています。これを照合すれば」
「あり得ない」
「何故?」
「名取美和が依頼人ともめたなどとデタラメだ」
「それを否定できるのは依頼人だけです」
このボタンが意味するところを、きっと支倉玄蔵は正確に知っている。だから何度も確かめる。俺の顔を真正面から見据えて。
「住良木くんがこれを?」
「いえ。俺が持ってきました」
「彼は知っているのか?」
「スメラギの推理はでも、当たっているでしょう」
支倉玄蔵からの質問が止む。最後にひとつ、氷のように冷ややかな声が降ってくる。
「――本気か?」
その問いに俺は……失笑せざるを得なかった。言うに事欠いて「本気」かどうか? それならば俺はこう返すしかない。支倉玄蔵が忘れていることを。
「まさか。だってこれは『ゲーム』なんでしょう?」
刹那。氷のように鋭く冷たかった顔はたちまちのうちに融解し――支倉玄蔵はけたけたと笑い始めた。閑古鳥の鳴く食堂に、中年男性の低くも心底愉快そうなテノールが響く。食堂のおばちゃんの食器を洗う手が一瞬止まったが、そこは大目に見てほしい。
ひとしきり笑い終わると、目尻に浮かんだ涙を拭いつつ支倉さんが呟く。
「……そう、これはゲームだった。いやはや、自分で提案しておきながら自分が忘れてしまうとはね。歳をとるのはいやなもんだ」
「何故……どうして、こんなことを」
自白とも取れる晴れやかな言葉の後、俺に残ったのは陳腐な疑問だった。どうしてこんな愚かなことをしたのか。犯罪を使った――違う、人命を悪用したゲームだなんて、現実に起こっていいはずがない。
「なぜ……?」
決まってるじゃないか、と涼やかな微笑を浮かべて支倉さんは告げる。普段と変わらぬ平静な顔から放たれる衝撃的な言葉に、俺は戦慄した。
「気にくわないからだよ。それでは不満かい」
「……それ、だけ……?」
「それだけとは失礼だね。私にとっては立派な動機たりえるのに」
あまりに子供っぽい理屈。理屈とも言えない、これは感情論だ。それが県警の重鎮である、大の大人の口から発せられたギャップに、俺は目眩を覚える。
「無論、『大衆向け』の動機はある。彼は高校生の時に、組織の有力なブローカーを摘発した。なかなか成績優秀な男だったからね、こちらにとっては大きな損失だったわけだよ。組織の稼ぎ頭を奪った、その仕返しをしたい――とまあ。これなら多少納得はしてもらえるだろう。テレビ向きの、良い回答だね」
しかしそんなもの、あくまでも大義名分に過ぎないんだよと、目の前の男は告げる。事件翌日会ったあの食堂で、あのときと同じように、目を鷹のように光らせて。
「目障りなんだよ、彼。高校生が探偵ごっこなんかをして警察のメンツを潰しまくる。そんなお遊び、私が看過できると思うかい? 刑事部長としてじゃない。大人として、子供がしゃしゃり出てくるのがムカついたんだ。だから私の手で、完膚なきまでに叩きのめさないと気が済まない。それが動機、それが真実さ。テレビで流すにはお粗末な動機だろうがね」
「――そんな、理由で」
「そんな? 感情は立派な動機だよ。人間は理性的な生き物だ、同時に感情的な生き物だ。理性のみを肯定して感情を否定するとは、君もなかなかに現代社会に染まっているじゃないか。人が罪を犯すのは大抵感情論なんだよ」
違う。俺はそんなことを言いたい訳じゃない。咎めたい訳じゃない。この人の口車に乗るわけでも、逃げるわけでもない。俺はただ、その主張に耳を傾ける。
「そう、感情論。だから私は彼とゲームをした。ギャンブルをした。ただ社会的に抹殺するのではなく、ゲームというかたちで勝ち負けを明確にして。それで私は私の心を晴らしたかったのだろうね。そうでなければこんな分の悪い犯罪、天地がひっくり返っても起こらないだろう」
違和感の多い事件だった。スメラギの監禁。駒としての俺の動き。都合の良すぎる容疑者リスト。身元不明のメイド。まるでフィクションのような展開は確かに、娯楽でなければ生み出せない状況だった。
「負けるつもりはなかった。当然さ、勝負をしているのだからね。でも、そうだな――強いて敗因を挙げるのなら、ヒントを与えすぎてしまったのかな。私が君を侮っていたのは否めないね」
「そんなことをしなくても、スメラギはあなたにたどり着いていたと思いますよ。俺は確かに平凡だけど……あいつは、探偵ですから」
支倉刑事部長の顔が歪む。鷹の目が細められ、眉根を寄せ、口元にはひきつった笑みが浮かぶ。ゲームに負けた子供みたいに悔しそうな顔だった。
「君を選ぶんじゃなかった。接木輔くん――天才は孤高であるべきだ。君のような凡人が相棒になってしまったから私は、住良木くんに負けたんだ」
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