Case:5-7
事件現場に着くのに一時間かかった。蛇霧から出るバスのタイミングが悪かったせいだ。
「腰巾着が独り立ちか?」
茂庭警部は相変わらずあたりがきついが、事情は伝えられているはずである。俺ももうこの人の嫌味にはつきあわないことにしたので、スメラギに与えられたことを全うするための言葉だけを返す。
「あいにく幽閉されているようでして。スメラギの指示で来ました。捜査の許可は出ていると聞いていますが」
「俺が許可を出したのは住良木密だ。腰巾着はお呼びじゃねえんだよ」
仁王立ちするかのように脚の幅を広くとり、まるで俺を先へ行かせないと言わんばかりに立ちふさがる。この人にもプライドやらがあるのかもしれないが、俺にはこの人にかまっている暇はないのだ。一日授業を自主休講して来ているんだ、やることやらないとここへ来た意味がない。
「俺が捜査をする許可は支倉玄蔵刑事部長から頂いています。住良木密の代理として、特殊な事情ですからと。その上であなたの許可が必要だとおっしゃいますか?」
警察はわかりやすいほどに縦社会だ。そこにありとあらゆる陰謀、欲望が渦巻いているとは言え、長いものには巻かれるし、権力は権力に屈する。現場の警部は刑事部長に逆らうことはできない。ここにいるのが小憎たらしい大学生のクソガキだとしても、だ。
あからさまな舌打ちの音を聞く。
「名探偵でも気取るつもりか?」
俺は立ちふさがる警部の横をすり抜ける。
「そんな大仰な肩書きも才能も俺にはありませんよ」
現場はアパートのようだった。アパート、というか、厳密には寮である。もっと言うと警察寮。
二階建ての建物はやや古ぼけていて、お世辞にもキレイとは言えない年季を感じる。トタン屋根で台風には耐えられない、といった外観ではないが、一昔前のアパート、とでも言えばいいのだろうか。
ベージュを中心とした景色にとけ込む地味な色合い。コンクリートでできた階段はしっかりした作りで、それがまた無骨でもある。
二〇六号室、表札は「
「――ッ」
死体は昨日発見され、当然ながら収容されている。もうここには名残しかない。それでも七月の暑い中、扉を開くと同時に流れ込む「空気」に嫌悪感と吐き気を覚える。
茂庭警部は非協力的だが、話が通されている以上、他の刑事は俺に協力的だった。というよりも「支倉さんに言われているから」俺に協力的、と言うべきか。昨日、大方の捜査が完了しているワンルームの空間は、血痕ひとつない状態でそこに存在している。
刑事にもらった資料を見ながら状況を確認していく。沢木和宏二十九歳、独身。昨日……つまり七月十日、午前九時十七分、定時になっても顔を出さないことに疑問を覚えた上司の指示で寮長がマスターキーで開錠、死体を発見したそうだ。
扉は施錠されており、争った痕跡はなし。死因はとある薬物の摂取による毒殺。正規のルートでは手に入らないものらしい。沢木和宏の死体発見時の写真も何枚かある。死体を見るのは、やはり写真でも愉快なものではない。せりあがってくる嫌悪感を無理矢理飲み込んで、俺は死体の写真に目を通す。
口の周りに泡が付着している。その他に死因に直結しそうな傷跡はなし。首の周りが赤いのは、爪で喉元をかきむしったせいだろうか。毒にあえぎ、苦しんだのだろうと推察される。
「服毒しての自殺、か……?」
部屋を見渡す。ワンルームの空間に配置されている家具は決して多くない。身の回りは最低限整頓するタイプの人間だったようで、洋服がぐちゃぐちゃになってはみだしているということはない。男性の一人暮らしではあるが、自炊もしっかりしていたらしい。冷蔵庫には出来合いの食品の他にキャベツや挽き肉といった材料も入っている。
鍵からは沢木以外の指紋は発見されなかった。入り口はベランダ側の窓を除けば玄関の扉ひとつ。窓は施錠され、こじあけた痕跡もなし。近隣住民が不審者を目撃したという証言もない。
あるのは――ベッド脇の机に置かれたグラス。
「すみません。このグラスは、被害者が使っていたものですか?」
近くにいた刑事に声をかける。相変わらず俺の監視役を兼ねているとは言え、今回の刑事は好意的だ。俺の見てくれに動揺することもなく(もっと物騒な人間を相手にしているせいかもしれない)、捜査資料と照らし合わせながら応じてくれる。
「ええ。死体発見前日、寝る前に使っていたものと思われます。被害者の沢木には就寝前に薬を飲む習慣があったそうで」
「薬? どこか悪かったんですか?」
「寝付きが悪いとかで、睡眠薬を。今回検出された毒物とは違いますが……同僚からは心配されていたようです」
睡眠薬を大量に摂取すると死ぬことができる、と聞いたことがある。死因の薬物は毒だ。睡眠薬の成分は発見されていない。ならば、前日に沢木は睡眠薬を飲んでいなかったのだろうか。少し死因が見えてきた。
「睡眠薬と間違えて毒物を飲んで死亡した。そういうことでしょうか」
「本部はそう睨んでいます」
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