Case:4-4

 ただ、十八歳の男というのは非常にめんどくさい年齢であり、小学生みたいに「ごめんなさい」が言えない。素直になれないのだ。このままおずおずと現場に行って「さっきは俺が悪かったです」なんて、いかにそれが正しいとわかっていてもすぐ行動に移せない。だから俺は路地裏で一人頭を抱えた。どうしたものかと。

 ペットボトルはすっかり冷たさを失っていた。表面の水滴が指先にじっとりと伝う。冷静に回り出す頭と、未だ感情的になる心が格闘している。どうしたいのかと。


「……ん?」


 ふと視線を下に落とすと、白い紙が落ちていた。四つ折りにされ、罫線けいせんが見える。ノートやメモ帳を千切ったのだろうか、見れば一辺だけ破られたような粗さが見られる。どうしたものかと思ったが、やけに小綺麗なメモを俺は手に取った。

 それがまず違和感だった。多くの人が通るわけでもない、ポリバケツだって薄汚れているこの裏路地だ。人一人がまあ通れるくらいの幅のここに、大した皺もない、綺麗な状態のメモが落ちていたこと。

 つまりこれは最近、ここに落ちたということだ。勘ぐりすぎかもしれないが、万が一ということもある。俺は「すまない」とメモに向かって謝罪し(落とした人間に伝わるわけでもないのに)、メモを開いた。


「?」


 結果から言うと、拍子抜けしたというか。理解ができなかった、の方が正しい。四つ折りのメモに書かれていたのはアルファベットひとつ、「S」だけだったのだから。


「なんだこれ」


 そういうほかない。だって推理するには情報がこれしかない。それはさすがに無茶というか、千里眼でもない限り事件性の有無さえ判断しかねる。S――何かのイニシャルか? 水商売の客のメモ……にしては四つ折り一枚にこれだけは違和感がありすぎる。

 秘密の恋文か事件の一端か、今の俺にはわからない。だがメモの状態に違和感を覚えていたので、俺はひとまずこの裏路地を調べてみることにした。事件じゃないならそれでいい。この謎のイニシャルは何を意味するか、それを解明するだけでもストレスは発散されるというものだ。


 この裏路地自体は、メインストリートのコンビニと紹介所の間にある。赤い看板が目印のコンビニだ。そこから裏路地の様子が丸見えという訳ではなく、ビルの突き当たったT字路を右折し、さらにL字の道を道なりに行った果てにある。メインストリートはおろか、どの道からも見えない場所だ。

 目撃の可能性があるとすれば、俺を取り囲む黒っぽいグレーのビルの窓が開いたとき、だろう。裏表のある街に、こんなおあつらえ向きの場所があっていいのかと思う。この先はない。別の道に抜ける可能性があるとすればT字路を左折した先、だろうか。

    

 というわけで状況だけなら事件性は十分だ。何が起こってもおかしくはない。でも一介の大学生が事件に遭遇する可能性なんて(本来なら)限りなく低いはずだ。だから事件でないことを願いつつ、しかし結果は期待して俺は路地裏を調査する。妙な傷跡、新しい足跡、そんなものを探して。


「ゴミ箱漁りなんてヘボ探偵みたいなことをする日が来ようとは……」


 裏路地に大した痕跡はなかった。ビルの壁にはひっかき傷も、血痕も、コンクリートの足下では足跡さえ期待できない。最後の望みと言うことでポリバケツの蓋を開いたが――鼻をつく生ゴミ特有の醜悪な臭いに顔をしかめるのがオチだった。

 まあ、すべての事件に痕跡が残っているとは限らないか。周到な犯人も世の中にはいるし、今回のはそもそも事件ともわからない。俺の目的はこのメモのイニシャルは何か、それだけだ。きわめて平和な謎だ。


 もしかしてこのメモ、落とし主に返却すべきか? とも一瞬思ったが、誰のものか名前が書いてあるわけでもないし貴重品でもない。交番に渡したところで逆に迷惑がられそうだ。まだ持っていてもいいだろう。俺は勝手にそう判断した。

 この突き当たりから得られるものはこれ以上ないと考え、散策も兼ねて道を戻る。どうせだからT字路の左折した先も確かめておこう、と直進した先で、俺は足を止めた。


「……ッ」


 ぞくぞくする。震えが止まらない。まさか本当にこんなことが?


 T字路反対側、つまり左折した先。俺からすればL字の先を直進した果てになるが――その道中、排水溝にはまった豪奢ごうしゃなイヤリングを見たとき、俺はいよいよ青ざめた。


『なんだその耳飾りは! ピアスは禁止だと言っているだろう!』

『ピアスじゃありません、イヤリングですー。別にいいじゃん、誰かの邪魔になるわけでもないし』


 アップにした髪は耳をよく見せるため。鬱血の残る首を辿ったその先に揺れる大粒のイヤリング。派手な彼女らしい真っ赤な宝玉に、金縁で蝶の飾りがあしらわれていた。夜の蝶――そのオマージュとでも言いたかったのか。

 見間違えるはずもない。排水溝の隙間で物寂しげに吊されていたのは、俺があの日に見たイヤリングと同じデザインだった。


「…………」


 どういうことだ? 俺は自問自答する。大量生産されている品物だろう。シンプルなデザインとは言い難いが、ヴィンテージとも言い切れない。誰かの貢ぎ物でそういった店にはたくさん並んでいるだろう。だからあの日の彼女がここにいて、何かに巻き込まれた可能性は絶対じゃない。そうだろう? 俺は言い聞かせる。


 けれど俺は駆けだしていた。排水溝からそいつを救い出して、壊れるほど強く握った。T字路を引き返していた。メインストリートに戻り、あの場所へ走る。右手にはペットボトル、左手にはメモとイヤリング。このふたつが繋がってしまったことが、俺は怖かった。

 教師は彼女を「シノザキ」と呼んでいたのだ。

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