6
蓮が目覚めたのは、プライベートジェットのディーン用のベッドの上だった。
周囲を見回せば、ベッドの足側にあるソファー型の一人用シートに全身を委ね、目を閉じて眠る男の姿が飛び込んできた。
いつもの三つ揃いのスーツ姿ではなく、スラックスにブラックのオックスフォードシャツとラフな井出達で、いつもは緩く後方に流す髪も、セットせず眺めの前髪が目元まで落ちている。
それはディーンが、自宅でプライベートな時間を過ごす時の服装だ。
反射的に飛び起きれば、シートに座る男の瞼がうっすらと開き、紫の瞳と目が合った。
「ケガは? キングさんに、撃たれたんですよね!」
慌ててベッドの上を這って近づけば、不機嫌を隠そうともしないバリトンボイスが答えた。
「掠っただけだ。心配いらない」
だが、蓮の黒髪が、大きく横に振られた。
「でも、あんなに血が……」
そう言いかけた途端、いくつもの音や画像が、否応なしに蓮の脳内にフラッシュバックしてくる。
ディーンの血がベッタリと付いた掌と、苦痛が滲む呻き声。
白いシャツを染める赤い色。
銃声。
額から流れる鮮血に彩られた老人の顔。
血飛沫をまき散らし、頭を吹き飛ばされた金髪の女。
――そして、ソフトフォーカスがかかったような不鮮明な映像。
跪いて頭に銃口を付きつけられた女が、パンという乾いた音とともに、身体は人形のように躊躇なく後方に倒れこむ。
「しっかりしろ、蓮!」
突然、頬に感じた熱と痛みで、蓮は目を見開いた。
気付けば、ベッドの上でディーンが馬乗りになり、蓮の片腕を押さえつけている。
また、もう片腕はベッドサイドにいつの間にか立っていた、ジャクソンの大きな手に捕まえられていた。
二人とも、顔には深刻な色が浮かんでいる。
頬にはヒリヒリとした痛みを感じ、口の中には血の味が広がる。
呼吸は浅く、早い。
なぜか、やけに息苦しさを感じる。
「オレ……」と声を発しようとしたが、言葉にならない。
だが、この症状には心当たりがあった。
「ここが何処だか、分かるか?」
唐突な質問に、蓮は目を瞬かせる。
その僅かな動きで、湛えていた涙が頬を伝わった。
だが、見つめてくる真剣な光を湛えた紫の瞳に勇気をもらい、ぽつりと答えていた。
「ディーンの……飛行機の中」
その返事に、ようやくディーンとジャクソンは深いため息をついた。
そして、拘束していた腕を解放する。
「色々とあったから、混乱しているんだろう。だからこれから、お前が整理出来るよう、事の顛末をちゃんと話してやる」
ディーンが顎を僅かに突き出して合図すれば、ジャクソンは一礼して部屋を後にする。
ディーンは蓮の体の上から退くと、そのまま蓮の隣で片膝を立てて座り込んだ。
そして、あの後の出来事と、老紳士が画策したM&Aの真相について話し始めた。
・・・
ウィリアム キングは、レテセント・リージェント・グループの前オーナーの秘書だった男で、ディーンが就任した際、それまでの職を退き、故郷のイギリス支社を任された。
キングの妻は早くに亡くなり、一人娘は上海大学在学中に、地元の同級生と結婚した。
その同級生の男は、やがてシャンハイ・マフィアのボスとなった。
「京都での落とし前として、俺はシャンハイ・マフィアを潰した」
その事実もさることながら、初めてディーン自身の口から裏のビジネスについての話が明かされ、その事実に蓮は目を見開いて驚いた。
そんな蓮に向ける紫の瞳は、静かだ。
「無論、キングもその報復に文句は無かった。ボスの命がなくなるのは、俺に喧嘩を売った以上、十分予想できたことだし、実際に奴も覚悟はしていたと言っていた。――だが」
一旦、言葉を区切り、小さくため息をつく。
そのまま小さな窓から見える暗い空へと、視線を向けた。
「シャンハイ・マフィアのボスには、女房との間に息子がいた。キングは、俺に内緒でその娘と孫をノースコリアに匿った。だが娘は、夫を亡くしたショックもあり、体調を崩して移住後すぐに死に、そして孫も慣れない国での孤独感から、母の後を追って自殺した。それが、昨年の11月頃だったそうだ」
「オレがアメリカに来た頃……」
言葉を無くした蓮へと視線を戻し、立てた膝に置いた手で前髪を掻き上げる。
「キングは遺体を受け取りにノースコリアに渡った際、今回の計画を思いつき、相手方と接触したらしい。あちらも、アメリカをはじめとする世界主要各国からの経済制裁で、外貨獲得に必死だったから、交渉はすぐにまとまった。欧州金融界が認める金を生む金の卵が手に入れば、株や海外企業の買収など、公正な手段で莫大な金を生み出せる」
ディーンの声は、淡々としていた。
「一方のキングにしてみれば、娘と孫を失う羽目になった抗争をしかけた俺と、シャンハイ・マフィアが俺に歯向かうチャンスを作った、そもそもの発端のお前に制裁を加えられる。それ以後は、ほとんどの準備は、キングの指示に従ってノースコリアが行ったらしいが、香港だけはキング自身でペーパーカンパニーを設立している。無論、偽名を使ってな」
ディーンの大きな手が、黒髪に乗る。そして、くしゃりとかき混ぜた。
「とにかくお前は、年寄りの勝手な逆恨みに巻き込まれただけだ。――だからもう、気にするな」
珍しく励ますような男の声に、蓮は小さく息を吐き出した。
「ひとつ教えて下さい。スチュワートさんは、今、どこに居ますか?」
蓮の唐突な話題の転換に、ディーンは一瞬目を見開くと、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「あいつは今、後始末で大わらわだ。あの様子では、当分はアメリカには戻れないな。まあ、俺の了承も得ず、勝手にキングについて嗅ぎまわり、勝手にイギリスまで来たんだ。スチュワートのおかげでキングの目論見を暴くことが出来たが、スタンドプレーには、それ相応の報いを受けてもらわないとな」
そしてディーンは「要は、お仕置きだ」と、面白がるように笑った。
・・・・
――今朝。
ベッドの上で、スピーカーフォンでキングと会話を始めた蓮は、ありえない者を見た。
それは、ゴーストでも、襲撃者でもない。
ニューヨークで留守番をしているはずの、スチュワートだった。
しかも、口元にピンと真っ直ぐに一本、人差し指を立てている。
つまりは、自分の事は黙っていろ、ということらしい。
だから、そのままキングとの会話を続けた。
「ボスはすでにお出かけになられましたが、坊ちゃんは朝食を如何致しますか?」と問いかけられ、寝ころんだまま「オレは部屋で……」と言いかけた時、スチュワートは短いメッセージが書かれた愛用のタブレットを、無言で蓮の目の前にかざした。
――盗聴器あり。キングが黒幕。手を貸している組織を探りたい。
だが、それだけで蓮の抱いていたモヤモヤは、急速にクリアになる。
――もしも、香港関連でトラブルがあるのでしたら、ボスに相談なさったらいかがですか?
――香港は以前、イギリス領でした。その流れで、ボスのビジネスにおいては、香港はこのイギリスの様に、直接関与できる中国で唯一の場所で御座います。ご心配なさらずとも、香港で困った事があれば、ボスが大抵の事は解決して下さいますよ。
――お前の本社で、香港絡みで何かトラブルがあったとキングからの報告にあったが、それと関係があるのか?
ディーンの裏切りへの疑念の方は、絶対に違うと言い切る確証が欲しかっただけであり、逆にキングがしきりに香港とディーンのつながりを強調することには、ずっと不信感が募っていた。
黒幕はキング。
そこからの蓮の決断は早かった。
キングの思惑に乗った振りをして、問答の末、ノースコリアの存在が暴かれた。
だが、なぜスチュワートがイギリスにいるのか。それだけが未だに分からなかった。
「実は、キングのことをスチュワートはずっと疑っていた。理由は、ここ数か月のキングの動きに不審な点があったことと、シャンハイ・マフィアとキングとのつながりを、もともと知っていたからだ。今回の訪英に、お前を連れていく事に反対したのも、キングが何か手出しをするのではないかと疑っていた為だ」
眉をひそめて、「シャンハイとキングさんのつながりを知っていた?」と黙り込んだ青年に、ディーンはため息交じりに答えた。
「スチュワートの祖母は、キングの姉だ。親類なのだから、当然娘の嫁ぎ先や、孫息子がいる事も知っている」
そして、真摯なバイオレットの瞳を向けた。
「お前が部屋に戻った後、俺はジャクソンの部屋に行った。ジャクソンは部屋に入れば、必ず盗聴器の確認をする癖は、組織の多くの者が知っている。だから、仕掛けられたソレを回収して破棄しても、キングには疑われない。そこで待機していたスチュワートから、船舶事項登録書を偽造してドーバー港に入港している、国籍不明の小型貨物船がいることと、香港のペーパーカンパニーを立ち上げたのが、キングだということが判明した事を聞いた。俺は、絶対に奴が何か事を起こすと思って、その場でミラーの部隊を招集した」
キングとの通話を切った後、眼鏡の秘書はジェスチャーで着替えるように指示し、その後、廊下に出るように促す。
ドアを開ければ、そこには金髪のオーナーと、黒人ボディーガードが待ち構えていた。
そこで、眼鏡の秘書から電話の概要がディーンに伝えられ、直ちに裏切り者への制裁の決行が指示される。
ただ、依然としてキングが取引した相手は、分からないままだった。
そこで、蓮は自分がそれを探ることを申し出た。
この後、キングに接触できるのは、蓮ただひとり。
そして、今回のディールから、ジェントリー・ハーツを救えるのも、自分ただ一人という自覚があったからだ。
最後まで蓮が囮になることを渋ったディーンも、リムジンがホテル前に横付けされたことで、時間切れを悟り、深いため息をついた。
そして、蓮の肩を引き寄せ、硬い声で耳打ちする。
「スマホの通話を、俺とつないだままにしておけ。絶対に切るな。それと、危ないと思ったらすぐに逃げろ。奴を追い詰めるような真似はするなよ。それは、俺の仕事だ」
ディーンは、見たこともないくらい真剣な眼差しで、蓮に命令した。
「では、あの狙撃は、ミラーさん達?」
蓮の脳裏に、厳つい黒服軍団と、気の強い赤毛の女の顔が浮かぶ。
「まあな」と一言で肯定し、ディーンは後を続ける。
「キング自身の言葉を以って、背後に居たノースコリアの存在と、奴の裏切りも明白になった。ただ、お前を囮に使って、危険に晒したのは事実だ……」
どこか悔いが滲む声に、蓮は敢えてにっこりと笑って見せた。
「キングさんを……追い詰めるなという、貴方の言いつけを守らなかったのは、……オレです。おかげで、貴方に……痛い思いをさせてしまいました」
そして「ごめんなさい」と小さく呟けば、ディーンは頭に乗せたままだった手で、再び黒髪をかき混ぜる。
「ところで、キングさんの計画が……失敗したということは、……ヘルローズ・ブラザーの買収は……なし、ということに、なった……んですよね」
急速に眠気が襲ってきた。
無意識に閉じようとする瞼をこすれば、両頬には次々に涙が伝い続け、耳や髪もぐっしょりと濡れていて、蓮は初めて、自分がずっと泣き続けていたことに、ようやく気付いた。
「鎮静剤が効いてきたようだ。ニューヨークまではまだ4時間はかかるし、どうせ同じ場所に帰るんだ。ベッドまで運んでやるから、お前はゆっくり寝ていろ」
そんな、いつもより5割増しで優しい感じのディーンの声が遠のいていった。
・・・・・
倉庫街からカンタベリーのケント国際空港へと向かうリムジンの後部座席で、ディーンは一枚の紙きれを折りたたみ封筒に戻すと、ディーンの膝に頭を乗せた、黒髪の青年の寝顔へと視線を落とした。
倉庫街で突然パニックに陥ったアドバイザーが鎮静剤でようやく眠りにつき、彼の私物を取りにホテルに戻っていたスチュワートから、一枚の封筒を手渡された。
封はされておらず、中には1枚だけの手紙が入っている。
取り出して見れば、それは手書きの辞職願だ。
宛名は、ジェントリー・ハーツ・ファンド北米支社、支店長殿。
おそらく昨夜、自室に戻った後で書き上げたのだろう。
そこには、当たり障りのない辞職理由と、会社への感謝の言葉が綴られていた。
「あの辞表。帰った後、どうするつもりなんだ、蓮?」
ぽつりとディーンが問いかけた時には、すでにエメラルドの宝玉は瞼で完全に覆われている。
ディーンは、紫色の穏やかな光を湛える瞳で、プライベートジェットのベッドの上で寝息を立てる、安らかなその寝顔を見つめる。
「――良い夢を」
穏やかなトーンの言葉とともに、親が幼い子どもにするように、そっと黒髪の前髪から覗く白く丸い額にキスを落とした。
そして、顔を上げて深く息を吸い込み、静かに一度瞼を閉じる。
次にその目が開かれた時には、彼が纏う雰囲気は豹変していた。
青みの強い濃い紫の瞳には、冷酷で獰猛な炎が燃えさかる。
「――俺を怒らせた以上、容赦はしない」
そろそろシャンハイにある、ノースコリアのアジトの制圧が終わる頃だ。
また、世界地図を5つに分けたエリアを統括する者達に協力を要請し、世界各地にあるノースコリアの拠点への同時急襲も、佳境に入っていることだろう。
勅命として命じたその報告を受けるべく、ひと言呟いたディーンは、振り返ることなくベッドルームを後にした。
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