5
中世では、大陸からの玄関口のひとつとして栄えたドーバー港は、現在は大型クルーザーも乗り入れることが出来るくらい、設備と整備が行き届いた港だ。
その港を使用するのも、もっぱらフランスのカリー港との間を、日に何回か行き来する水上バスや、観光用のクルーザーなど、観光や日常の足としての役割の方が大きく、漁業関連の目的で使用することは殆どない。
その観光業に特化した港に面する、倉庫群の一画。
車一台がようやく停車できる倉庫の狭間に、一台の高級リムジンが止まった。
その後部座席から、辺りを窺うように慎重な動作で出てきたのは、ピュアな朝日に照らされた黒髪が美しい青年だ。一度、眩しそうに暁へと視線を向け、目を細めた。
続いて運転席から降りたのは、英国紳士が纏う上品な雰囲気が漂う老紳士だ。その撫で付けられた白髪は、朝日の色に染められている。
「――こちらでございます」
老紳士の短い呼びかけに促され、歩き出したばかりの蓮の足が徐に止まった。
その特徴的なグリーンの瞳が、光彩の色味を深める。
倉庫が四方を固めた、トラックが通れるくらいの広さの通路に出る直前。
「貴方が黒幕なんでしょう? キングさん」
その、唐突な蓮の呼びかけに振り返った老紳士の手元には、銃が握られている。
そして、その照準はピタリと蓮の心臓に向けられていた。
「キングさん。……何の冗談ですか? 全然笑えません。大体、オレを殺すことが、ここに来た目的ではないんでしょう? 殺すだけならいくらでもチャンスはあったし、海に面した崖から死体を捨てるのも簡単です。ここは、そういう崖を観光スポットにするくらいですから」
辛うじて発した軽口は、文言の割には余裕がないトーンとなった。
だが蓮は、逃げ出したくなるような状況下において、敢えて強気の姿勢に打って出る。
それは、伸るか反るかのディールの時と、同じ空気感だ。
顔つきも、その時のように変わっている。
きりりと引き締められた表情は強い意志の存在を示し、そのエメラルドを思わせる瞳には知的な光が佇む。
「貴方が、オレとディーンを引き離そうとして、あんな手間をかけた買収劇を仕掛けた事は分かっています」
道に立ちふさがるように停車したリムジンにより退路を狭められ、逃げ場のない蓮は、さらに強気で畳みかける。
「貴方が油断からたった一言、ディーンに対して口に出してしまった言葉が、鍵でした」
そして、蓮のエメラルドの双玉が、息を飲んだ老紳士を睨みつけた。
――お前の本社で、香港絡みで何かトラブルがあったとキングからの報告にあったが、それと関係があるのか?
「ディーンは、オレにそう問いかけました。けれど、オレの口からディーンには、香港が関与していることは一切話していません。だからピンと来ました」
蓮は、憤りの感情を無理やり抑えて、問いただした。
「どうしてオレを、中国に売り渡そうとしたんです? アメリカ側に属するイギリス代表の貴方が!」
その瞬間、老紳士の手にあるリボルバーが火を噴いた。
だがその銃弾は、蓮の足元の僅か数センチの地面に着弾した。
温和な老紳士の顔は、この世から消えた。
老人の顔は、能面のようだった。無表情で数メートル先の青年を見つめる。
「最近ボスは、毛色が違う者をやけに重用している。――そんなバカげた噂を耳にして調べてみれば、それが坊ちゃん、貴方でした。」
老人の声には感情の色もない。ただ、淡々と言葉を紡いでいる。
「正直、信じられませんでした。だが、坊ちゃんがアメリカに渡り、ボスのアドバイザーになったことは事実だった。だから、排除しようと思ったのですよ。――黒羽蓮、貴方を」
一瞬、無表情の老人の瞳に、憤怒の炎が見えた気がした。
「でも、オレは貴方のことを知らない、ミスターキング。だから教えて下さい。ディーンの傍にオレが居ることが、そんなに気に入らなかったんですか?」
老人は、僅かに口角を上げた。だがそれは、嘲笑めいた悪意ある笑みだ。
「そんな事は当然です。ボスの罪は、坊ちゃんの罪でもあります。破滅させたいほど憎い貴方が、のうのうと生を謳歌するだけでも腹立たしいのに、ましてやボスに取り入ったくせに、何も知ろうともせずに清廉潔癖のまま、平然とその隣に居座る。――全くもって、許しがたかったのです」
高ぶりかけた感情もろとも、老人は息を吐き出した。
そんな老人を、蓮は臆することなく見据えた。
「ですがオレには、そこまで貴方に恨まれるような事をした覚えはありません。務める会社まで巻き込んで、こんな回りくどい策を弄してまで、オレにディーンを疑わせて引き離したかったんですか? そんな手間をかけるより、こうして直接話せばいいじゃないですか! ――貴方は卑怯だ」
老人はようやく、穏やかな笑みを浮かべた。
「ボスから引き離したい? それだけではありませんよ、坊ちゃん。私は、貴方に絶望して欲しいんです」
そして、凍える微笑に邪悪さが混じる。
「周囲にも評価され、貴方が没頭する大切な仕事を、苦渋の決断をして自身の意思で捨てる。加えて、信頼していたボスへは疑念を抱きつつ、かといって職を奪った張本人として責めることもできずに、その傍から離され、生きていくしかない。身寄りも、仕事も、信頼する人間もいない。――まさに孤独。生きることに絶望するしかないでしょう? それを味合わせたかったんですよ、貴方に」
蓮は、悔しさから唇をギリリと噛んだ。
老人の主張は、あまりに理不尽過ぎた。そして何より歪んでいる。
唇にひりりとした小さな痛みを覚え、口の中には僅かな血の味が広がる。
「だからといって、チャイナマネーを利用すれば、貴方のボスであるディーンだって危機に陥ることになる。それでも、貴方は良かったんですか!」
蓮の問いに、一瞬老人は皺に囲まれた目を細め、そして頷いた。
それは笑っているようにも見える。
「さっきも言ったように、こうなった原因はボスにも責任があります。だから、坊ちゃんを殺さず、理不尽な形で引き離すことにしたんです。――何も言わずにお気に入りの貴方が姿を消し、方々手を尽くしても見つからないことに、さぞかしボスは落胆なさるでしょう。けれど、その時こそ、私が祝杯を掲げる時なのです」
いつの間にか、四つ角を背にしたキングの背後には、紺色の服を着た男達が銃を構えて立っている。
見たところ、東洋人ばかりだ。
だが、その衣服はあまりに特徴的なものだった。
立折り襟で二つの胸ポケット。
ポケットフラップにはボタンはなく、スラックスは上着と同色のものだ。
いわゆる、人民服と呼ばれる、アジアのいくつかの国で着られている衣服。
「それと、坊ちゃん。貴方は1つだけ思い違いをしていますよ。私が貴方を売ったのは、中国ではありません」
勝ち誇ったような老人は、饒舌に語る。
「中国ならば、多少は手こずるでしょうが、ボスは貴方を取り戻しに動き、そして奪還してしまうでしょう。だから、地球上でボスの影響力が極力及ばない国。そして、買われた貴方に、生き地獄を味あわせる事が出来る唯一の国に、貴方を売り渡すことにしました。――どの国かは、もうお分かりですよね」
一連のヒントに、蓮の緑の瞳が大きく見開かれた。
「――ノースコリア!」
呟くようなその答えに、正解とばかりに満足そうに頷き、キングは銃の照準を蓮の頭へと変えた。
「さあ、無駄話はここまでです。大人しく、この者達と大陸の最果ての国に消えて下さい、黒羽蓮」
そして、悪魔の笑みを浮かべた。
「もう二度と、お会いすることはないでしょう。――坊ちゃん」
その時、キングの背後にいた男が、次々と短い叫び声と鮮血を噴き出して倒れていく。
その、唐突な状況の変化に、一瞬背後を振り返りかけたキングの視界の端に、リムジンの脇にチラリと眩い金色が写った。
慌てて照準を定め直した時には、全身で庇うように左腕で青年を抱え込み、右腕をまっすぐに自分へと向ける男が、青みが濃くなったバイオレットの瞳で睨みつけている。
2つの銃声が、倉庫街に鳴り響いたのは、ほぼ同時。
ぐらりと体を傾けたのは、ディーンだ。
倒れこむその体を蓮が慌てて支えるが、細身に見えて筋肉質の重い体を支えきれずに、とうとう雑草が所々から顔を出す、ひび割れたコンクリートの上に片膝を付く。
「ディーン! しっかりして! どこか撃たれた?」
拘束する力が失せた左腕の中から抜け出し、蓮は叫ぶように呼びかける。
そして、キングの銃口から盾になるようにディーンの右側へと回り込み、とっさに背後を振り返れば、老人は恨みの表情ひとつ変えず、仁王立ちしたまま微動だにしない。
だが、眉間には小さな穴が開き、そこからドクドクと流れ出す血が、老紳士の皺だらけの顔を彩っている。
また、グレーの上品なスーツには数か所の穴が開き、そこにも赤い色が滲んでいる。
一瞬、息を飲み恐怖に身を竦めるが、今はそれどころではない。
我に返ってディーンの体を支えようと銃を握る右肩を掴めば、その衣服が濡れていることに愕然とする。
触れた瞬間、「クッ」と思わず苦悶の声を漏らした男の顔から下方へと視線を移せば、赤く染まった自分の掌と、彼のベストとシャツの境界辺りに出来た赤い染みが、みるみる広がっていくのが見えた。
その時、蓮の中で、何かがふつりと途切れた。
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