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手元のスマホに届いたメッセージをひと目見て、取引相手に断った上でディーンは、いくつかの指示をジャクソンに耳打ちする。

そして、再び余裕の色を前面に出した顔を向け、相手を青みが強まった濃い紫の瞳で見据えた。

――Time is Money.

メールの短い文章からは、急かす蓮の声が聞こえた気がした。



「それで、話したい事とは何だ?」

ディーンがようやくホテルに着いたのは、まもなく23時を迎えようという時刻だった。

最上階の部屋に入って一人になると、ネクタイを緩めながらジャケットの内ポケットからスマホを取り出し、蓮をコールする。

直接会って、二人きりで話したいという先方の意向の為、屈強なボディーガードにも、蓮と会うことは伝えていない。

数回のコールで、通話が始まった。

ほぼ半日ぶりに聞く高めのテノールボイスが、深夜に近い時間帯にも関わらず、案外はっきりした口調で話し始めた。

――30分後に、伺います。

その言葉に従い、シャワーを浴びたディーンがバスローブに身を包み、スコッチウイスキーをロックで注いだグラスを手に取れば、予告通りの30分の間を開けて、訪問者の登場を告げる呼び出しのベルが短く室内に響いた。


「5分前行動は、今夜は無しか?」と、揶揄しながら開けたドアに続く廊下には、硬い表情の専属ファイナンシャルアドバイザーの顔がある。

パジャマ姿で、肩には防寒のために上質なブランケットを掛けている。

僅かな隙間から「早速、何かトラブルがあったのか?」と問えば、黒髪の青年は深刻そうな顔を隠そうともせず、美しいオーシャングリーンの瞳を真っ向からぶつけてきた。

「――いくつか貴方に、伺いたい事があります」

これまで聞いたことのないくらい、遠慮がちだが覚悟が滲むアドバイザーの言葉に、ディーンの紫の瞳もまた、真摯な光を湛える。

そして、要求への応えは、行動を以って示す。

ディーンはドアチェーンを外し、アドバイザーを招き入れると、すぐさまドアチェーンをかけ直す。

調査の為にスィートルームの構造を知っているのか、黒髪の青年は案内もなしに真っ直ぐにリビングへと向かう。

そして、アンティークのデスクの前まで行くと、決意じみた大仰な動作で振り返った。

「京都の一件での、上海の落とし前はどうなっています?」


その一言に、ディーンの顔つきが変わる。

あの後も、蓮は表のビジネスに関わること以外は、あまり詮索したり聞いてくる事はなかった。

だから、今の質問は、ひとつディーンの内側に踏み込むものだ。

「無論、相応の報復をさせてもらった。だが、今更、なぜそんな事を聞く?」

蓮を三人掛けのソファーへと促し、自身も斜向かいの一人掛けのソファーに腰を下ろすと、慣れた手つきで蓮の為にウイスキーを用意する。

「お前の本社で、ホンコン絡みで何かトラブルがあったとキングからの報告にあったが、それと関係があるのか? それとも、キョウトやシャンハイの間違いか?」

察しの良い質問に、蓮の顔が一瞬強張る。イコール、それが正解だ。

「上海の小さなファンドに、本社の抱える投資家のグループ企業が、敵対的買収を仕掛けられました。本社が代理人となって交渉することになったんですけど、相手が買収を止める条件が、ウチの北米支社を切り売りするというもので……」

「それは、お前がいる支社か?」

「はい。ですが、北米では別段大きなディールがある訳でもなく、相手にどんな狙いがあるのかさっぱり分かりません」

蓮は、お手上げとでも言いたげに、肩をすくめてみせた。

「同じ支社を欲しがるなら、EU発足後に買収活動が盛んになった欧州、それもドイツ辺りの方が投資家も多いし、取り扱うディール自体も多いので、ずっと金になります。自社ファンドの事業拡大にもつながるので、手に入れたがるのが、そっちならまだ意味は分かるんですけど」


蓮が部長から最初に話を聞いた時と同様に、ディーンは不審そうな顔を蓮へと向けるが、続いた説明に小さく唸って腕を組んだ。

「一応聞くが、企業に買収を仕掛ける場合、どんな企業がターゲットになりやすいんだ?」

ごく初歩的な質問に、蓮はディーンの意図を図りかねて眉をひそめるが、それでも律儀に答えを返す。

「まずは、株主構成が不安定な企業ですね。簡単に浮動株を買い漁られて、乗っ取られてしまいますから。後は、現金や換金性のある資産を多く所有しているキャッシュリッチな企業や、株価が1株当たりの純資産額の何倍になるかを示した数値、PBRが低い企業とか」

一旦言葉を止め、舐めるようにウイスキーを口に含む。

「他には、赤字事業を抱えながら、財政再建が進んでいない企業も、買収後に再建計画を加速させて利益をあげやすいので、ターゲットになりやすいです。逆のパターンでは、起業や新規参入に制限がある業種とか、特別優れた能力やノウハウがある企業ですかね」


その模範解答に、ディーンはさらに問いかけた。

「今回、その顧客の会社はあくまでもダシに使われて、真の狙いがお前の支社だと仮定して、なぜお前の支社がターゲットになったと思う?」

その問いに、蓮は俯いた。

「北米支社の場合、マイナス因子ではなく、プラスのシナジー効果を狙っての選定だと思います。でも、ファンドの場合、特別に参入や起業に制限がある訳ではないので、財産としての価値を見出すとすれば、M&Aのノウハウと、顧客である投資家達とのパイプくらいですかね」


だが、その答えにディーンは紫の瞳を輝かせた。

「もうひとつ、重要な価値が欠けているな。そこで働く社員も、会社にとっての大事な財産だろう?」

その言葉に、蓮は「うーん」と唸る。

そして、再び手にしたスコッチウイスキーを舐めた。

「でも、本社や欧州の支社は、エースクラスのファンドマネージャーを投入していますが、北米支社にはエースクラスは一人もいませんよ。こんな面倒で大仰な手段を使ってまで、オレなら取りには行きません」

その言葉に、ディーンはニヤリと意味深な笑みを向けた。

「だが、エースはいないが、ルーキーはいるだろう? それも、天才なんて欧州金融界で騒がれるほどの逸材が」


金髪美丈夫の言葉に、きょとんと緑色の瞳が丸くなる。

鳩が豆鉄砲を喰らう、という表現がまさに相応しい表情の蓮に、思わずディーンが小さく噴き出した。

「俺なら、それくらいの手間をかけても、金の卵を手に入れたいと思うぞ?」

いつにない持ち上げ方に、途端に蓮の頬が朱に染まる。それは、決して酒のせいではない。

「あのですね。いくら何でも、オレを過大評価しすぎです。それに、たったひとりの社員欲しさに、そんな面倒をする必要はありません。その社員が欲しければ、ヘッドハンティングすればいいんですよ」


「だが、お前はそれを、今まで一切受け付けなかったんだろう?」

ディーンは、黒羽蓮の金融界での評判は承知している。

その評判から、どんなに好条件を提示して複数のファンドがヘッドハンティングを試みても、首を横に振るばかりだという話は、突然、蓮がレテセント・リージェント・グループのオーナー専属ファイナンシャルアドバイザーとなったことを知った取引先からも、羨望の言葉と共に聞かされていた。


「つまりは、強硬手段に出ざるを得なかったんだろう。そいつらの狙いはお前だ、蓮。では、どうしたら、奴らは北米支社を諦めると思う?」

断定した言い方に口を開きかけるが、ディーンの問いかけに表情を強張らせた。

形のいい唇が、微かに震えている。

その間、ディーンはゆっくりとロックアイスで冷えたウイスキーを、喉へと流し込む。


答えは分かっていた。

ただそれは、蓮にとっては死刑判決を言い渡されるに近い判断となる。

しばらくの間を置いて、呟くような掠れたテノールが答えを出した。


「オレが、ジェントリー・ハーツを辞めればいい、と思います。……もっと言えば、オレがこの業界を去ることしか、手段はないでしょう」


俯いてすっかり沈んでしまった横顔に、ディーンはひとつため息をつき、真摯なバイオレットの瞳を向けた。

「俺にひとつ、考えがある」

そして、そろりと顔を向けた虚ろなグリーンの瞳を見据える。

「確か、クラウン・ジュエルとか言ったな。買収者が興味を失うように、魅力となっている事業を切り離して第三者に売る。……ならば、俺がお前を買いとってやる。ジェントリー・ハーツという王冠に輝くエメラルドの宝石は、誰にも渡さない。――俺が手に入れる」


その言葉に、蓮は気色ばみ、思わず立ち上がった。

そして、ディーンへと厳しい顔を向ける。

だが、そのエメラルドの瞳には、どこか哀しみの光が滲んでいた。

「オレが居れば、今度はレテセント・リージェントが狙われるかもしれません! 相手は底なしのチャイナマネーかもしれないんですよ。いくら貴方でも、国家の金に対抗しようなんて、絶対に無理です。それとも、まさか本当は貴方が……」



その時、ディーンの視界の隅に、何かが写った。

瞬間、身を乗り出した蓮の手首を掴んで強引に引き寄せ、そのまま懐に抱えて押し倒す。

同時に、傍らのクッションの下に隠していた銃を握ると、床へと倒れこみながら、スィートルームに設えられている、装飾が施された木製のミニバーに向けて、迷わず引き金を引いた。

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