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キングと向かった調査対象のホテルへは、ロンドンから78マイル、約2時間のドライブで到着した。


南東イングランドの街ドーバーは、海岸線沿いに石灰岩の白い岸壁が100キロメートルも続く美しい景観や、イギリス最古のドーバー城を有し、34キロ海を隔てた対岸にはフランスのカレーを肉眼で見ることもできる、歴史的にも古くから栄えた港町だ。

今では、ビーチ周辺にはスタイリッシュな大型ホテルが立ち並ぶが、蓮が案内されたのは、歴史地区にあるドーバー博物館も近い落ち着いたエリアにある、古くからあるホテルだ。

煉瓦造りの4階建て。

ゴシックリバイバルの風潮からのビクトリアン様式の建物は、勾配の急な屋根に、窓上のペディメントなど、過剰とも言えるくらい装飾材が多用され、人目を引く重厚で華やかな外観だ。



時刻は、午後4時。


「すでに11月末をもって閉業しておりますが、電気や水道は操業時と変わらずに使えます。ですが、本当に、今夜はここにお泊りになるのですか?」と、眉をひそめて伺うキングに、最上階のスィートルームで大理石で出来た暖炉の中を覗き込んでいた蓮は、振り返るとにっこり微笑んだ。

「当然、調査ですから。こういうのは、実際に泊ってみて分かることも多いんですよ」


「ですが……」と、尚も口籠るのも無理はない。

アメリカでの事前調査で、この建物はイギリス国内でも有名な、幽霊が出ると言われていたホテルだ。

しかも、ある1室とか、廊下などと限定されたものではなく、宿泊した者は、ほぼ100パーセントの確率で神秘的な体験が出来る、との噂もある。

つまりは、正真正銘、本物の心霊スポットだ。


「噂のことは、承知しています。ところで、ホテル全体の中でも、特にそうした現象が多くみられる場所はあるんですか?」

その問いに戸惑いつつも、キングはひとつ頷いた。

「2階の208号室には白いドレス姿の女性、この3階のスィートルームは、貴族装束の男性が多く目撃されています。それと、ここから3部屋先の304号室では、ポルターガイスト現象が度々起こると言われています」


それは、蓮がアメリカで調べた内容とほぼ一致している。

加えて、1階の庭では男の子が走りまわるとか、食堂のあるテーブルには、いつの間にか老婦人が座っている、などという噂もある。

「では、208号室にはジャクソンさん。スィートはディーン。そして304号室にはオレが泊ります。今夜、宿泊出来るように、準備をお願いしていいですか?」

全く物怖じしない蓮の明るい笑顔に、キングは深いため息混じりにひとつ頷いた。


その時、ジーンズの尻ポケットに入れてあるスマホが、振動を始める。

慌ててセーターの裾をめくって取り出せば、画面には本社の海外事業統括部長の名が記されている。

キングに軽く会釈して通話ボタンを押せば、「おい坊主! お前は今、本当にイギリスにいるのか? だったらすぐ本社に来い!」と、相変わらずのダミ声が鼓膜に鳴り響いた。


だが、泣く子も黙る元敏腕ファンドマネージャー、ジョージ パウレル部長のその声には、過去聞いたことがないくらいの切迫した雰囲気が漂っている。

「オレ、休暇中なんですけど」と眉をひそめて答えれば、「そんな事は、とっくに北米支社のお前の上司から聞いとるわ!」と、珍しく苛立った言い方で返された。

その余裕のなさが気になるが、蓮が問いかける前に、勝手にパウレル部長は捲し立てはじめた。


「ヘルローズ・ブラザー・グループにM&Aが仕掛けられた! しかも、敵対的買収だ。だが、そのM&Aを取り止める条件として、ウチの北米支社を切り売りしろと言ってきた」


――意味不明。


ヘルローズ・ブラザー・グループは、ジェントリー・ハーツ・ファンドにとっては、顧客の中でも一番の投資額を委託していることは承知している。

だが、そこへの敵対的買収と、蓮が現在赴任している北米支社が身代わりになるという、交換条件が結びつかない。

部長の説明は、全く以って話が見えない。

ただ、パウレル部長の慌てぶりが、それほどの異常事態を予感させた。


蓮は「ちょっと待って下さい。すぐに準備して、かけ直します」と断り、電話を切った。

そして、キングに向き直る。

「すみません。本社の方でトラブルがあった様で、少し時間を下さい。それと、外に食事には出られないので、夕食のフード デリバリーをお願い出来ますか?」

笑顔の消えた深刻な表情に、キングは柔和な笑みを向けた。

「もちろんで御座います。ボス達のナイトキャップの用意も御座いますし、お安いご用ですよ。ては、時間は遅くなってしまいましたが、アフタヌーンティーをご用意致します」

そして、恭しく一礼して部屋を出ていく。


その背を見送る時間も惜しみ、蓮は直ちにアンティークの猫足デスクの上にノートパソコンを開き、ネットを立ち上げる。

そして、スマホでは海外事業統括部長をダイレクトで呼び出し、スピーカーに切り替えた。


・・・・・・

M&Aを仕掛けられたヘルローズ・ブラザー・グループは、本業をロンドンの中心地に第一号店を置く老舗高級デパートで、海外の主要都市にも支店を展開している。

また、自社ブランドも食品からインテリアまで幅広く展開し、そのうちのいくつかはロイヤルワラント――王室御用達に指定されるなど、デザインや機能性、そして品質などもクオリティが高く、ヘルローズブランドと固有名詞で認識され、知名度も世界的に高い。


経営は、グループの会長と本業のデパート事業は、兄であるジョナサン・ヘルローズが受け継いだ。

そして、サイドビジネスである、自社ブランド商品の開発・ネット通販・海外サテライトショップに展開する事業と、航空関連の子会社で構成されるヘルローズ・インフィニティの社長業を、弟のチャールズ・ヘルローズが受け継ぎ、グループの経営を分担して取り仕切っている。


つまり、経営陣はツートップ体制だ。


ただし、この二人。


父親の跡を継いだ直後から犬猿の仲となり、弟チャールズは事あるごとに兄に反発し、インフィニティのグループ離脱を画策していた。

ただ、兄のジョナサンは長男として、父から男爵の称号も相続しており、政財界にも影響力が大きく、敵に回すことはしないという保身的判断から、なかなか弟の野望に加担する企業はなく、現在に至る。


だが、今回のM&Aは、一触即発の兄弟の仲の悪さに付け込まれた。


グループの会長であるジョナサンが、最悪のクリスマスプレゼントを突きつけられたのは、彼がクリスマス休暇に入る直前だったらしい。

突然の意向表明書を手にしたジョナサンは、買収防衛のアドバイザーとして、長年、投資家として付き合いの深いジェントリー・ハーツに泣きついた。

そして、新年早々、代理人となったジェントリー・ハーツ本社に、紙一枚の条件提示書が送りつけられた。



ヘルローズ・ブラザー・グループにM&Aを仕掛け、ジェントリー・ハーツ本社に条件提示書を送りつけてきたのは、中国上海に本社を構える、ピィンアン (平安)・ファンド。


部長からその名が出た途端、キーボードの上を蓮の10本の指が素早く舞い始める。

「2年前に起業した無名ファンドだが、実体はよく分からん。M&Aの実績も特になく、目立った動きも無い。取締役達も、実働部隊のファンドマネージャーも聞いた事のない名前ばかりだ」

「メインの取引銀行は上海笑笑銀行ですが、昨年11月のまでは、取引が全くありませんね。――これは、シェル・カンパニーの臭いがしますし、背後に別の黒幕がいる感じです」

蓮の言葉に、部長が小さく唸り声を上げる。

どんな手を使っているのか知らないが、相変わらずの情報収集の速さは、圧巻だ。


尚も、蓮の指はキーボードの上を忙しなく舞う。

そして、緑色の瞳を大きく見開いた。

「軽くですが、ピィンアン・ファンドの金の動きを追ってみました。それと、ヘルローズ・ブラザーの株主名簿とクロス検索すると、約4割近くの株主がピィンアンからの振り込みを受けています。でも、株の買い取りの値段とは思えないくらい、金額的には少額で、しかも皆一律に同じ額ですね。買い漁りでないとすると……」

部長が、天才と呼ばれる若者の分析に、思わずゴクリと唾を飲み込む。


「もしかして、ピィンアン・ファンドは、プロシキーファイトに持ちこむ気なんじゃないですか?」


――プロキシーファイト。

日本語では、委任状獲得合戦と呼ばれる。

買収者が取締役選任権を得るために、出席株主の過半数議決権を取得していない場合、他の株主から委任状を集める必要があり、株主総会での議決権行使の委任状をめぐり株主の権利を金で買う。

つまりは、株主総会における、買収者と会社の支配権の争奪戦を言う。


だが、部長は蓮の読みを一蹴する。

「おい、株主総会はまだ5ヶ月近く先だぞ? 今から総会の委任状をかき集めるなんざ、そんなあからさまな準備を始めるとは、ヘルローズ・ブラザーに対策してくれと言っているようなものだ。……ありえないぞ」

それでも蓮は譲らない。

「今、クロス検索で被った株主の名簿を、メールで部長に送りました。誰でもいいので、委任状、もしくはピィンアン・ファンドからの接触内容について、そちらで調べてみて下さい」

その仕事の速さに、齢50を超えた元敏腕ファンドマネージャーは舌を巻く。


だが、蓮の指の動きが止まる気配はない。

「それと、ピィンアンが条件に出した、ウチの北米支社獲得について、本社では何か心当たりがあるんですか? オレの立場では、北米でこれから特に大きなディールがあるとかは、聞かされていませんので」

だが、それには部長は即答で答えた。

「そんな大型ディールを執り行う報告もないし、北米支社の動き自体は、通常運転だ。本社では全く心当たりがない。だから、ウチの名を落しめる為の嫌がらせなのかとの憶測もあるが、ピィンアン側に別の魂胆があるのか、さっぱり分からん」

不機嫌な声は続く。

「だが、幸いな事に、相手は資本金も少ない弱小ファンドだ。こうなりゃ、パックマン・ディフェンスを仕掛けるというプランも出ていて、今、それでジョージ エドモンドが動きはじめた」


パックマン・ディフェンスとは、敵対的買収を仕掛けられた企業が、相手企業の株式を買い集めて逆に買収をする、買収防衛策のひとつだ。

その報告を、蓮はすかさず怒鳴りつけた。

「待って下さい。本社のエースなら少し考えれば分かるはずです! 今すぐエドモンドさんを止めて下さい。逆に、こっちが骨の髄まで食われてしまいますよ!」


そして、声のトーンはさらに跳ね上がり、畳みかける。

「さっきも言ったように、ピィンアンは隠れ蓑のペーパーカンパニーです。ですが、もしもその正体がソブリン・ウエルス・ファンドだったとしたら、事態は最悪です。そして、その可能性は高いんです」

蓮の言葉に、部長は息を飲む。


――ソブリン・ウエルス・ファンドとは、政府が出資する投資ファンドのことだ。

中国では、中国国家外国為替管理局(SAFE)や中国投資有限責任公司(CIC)が大手だが、その原資は推定でも、5,679億ドルと4,396億ドル。

他国の政府出資のファンドを、遥かに凌駕する資金規模を誇る。

加えて、中国系と同じくらい、保有する原資額が多いアラブ各国の政府系ファンドでは、外貨獲得における原資は石油事業関連が主流の中、中国系ファンドはその原資の出所は一切不明である。

つまりは、国の金が流れている可能性が高いのだ。

「チャイナマネーを相手にケンカをしたって、勝てる訳はないでしょう! 今すぐストップをかけて下さい」


そして、蓮は深く息を吐く。

いつの間にか、ラグの上に落ちていたスマホを拾い上げながら、呼びかけた。

「一晩、時間を下さい。色々、整理したい事かあります」

そして、挨拶も無く電話を切ると、「……香港か」と一言呟き、小さくため息をついた。



実は、部長と話しながら、メインバンクの上海笑笑銀行にハッキングをしかけ、ピィンアン・ファンドの口座に振り込まれた金の出所を探っていた。

そして、振り込んだ相手としてヒットしたのは、バウヒニア・カンパニー。


表の情報で、その会社を探るものの、どうやらここもペーパーカンパニーらしい。

そう判断したのは、バウヒニア・カンパニーの事業は貿易関係らしいが、取締役や事業実績など、ホームページに書かれている内容は、取引会社にアクセスしても、噂や口コミといったネット上の書き込みでも、全てにおいて裏が取れない。

また、会社自体のコンピューターにハッキングをしかけても、情報自体がないのだ。

ちなみに、取引会社の経理や銀行口座などの裏の情報も探ってみたが、きれいさっぱり、何一つ出てこない。


つまりは、行き止まりだ。

中国というお国柄により、情報収集。特に政府関連のハッキングには、細心の注意を払わなければならない。

それには、何重にもサーバーを経由して身を隠さねばならないのだが、ノートパソコン一台という今の状況では、時間も設備も足りなかった。

イギリスの片田舎に居る状況では、これ以上の事は出来ない。

再びひとつ、ため息を漏らす。



そしてようやく、いつの間にかアフタヌーンティーのワゴンを押して部屋に入って来ていたキングへと、余所行きの作った笑みを張り付けた顔で振り返った。

「せっかく運んで下さって申し訳ないんですけど、すみませんが、それは自分の部屋で頂きます。ここは、一応ディーンの部屋ですし、これからベッドメイキングとか、色々と準備をなさりたいでしょうから――」

何事も無かったかのように肩をすくめてみせ、デスクの上のパソコンを片付けはじめる。


そんな蓮に、キングは慎重なもの言いで問いかけた。

「あの、……今、坊ちゃんのスマホが、ひとりでに、スクから床に落ちたように見えたのですが」

そんな怯えの色が混じった声に、蓮は面白そうに答えを返す。

無論、老紳士に対して、内心を偽るためのジェスチャーだ。

「どうやら俺達も、早くも神秘体験をしたようですね。でも、この部屋もポルターガイスト現象が起きるって、ディーンに話しておいた方がいいですね。彼、気が短いし、苛立って八つ当たりされても困りますし」


付き合いから心当たりがあるのか、顔を青ざめさせた老紳士に、蓮はにっこりと笑いかける。

「それと、オレはイギリス育ちなんで、別にゴーストとかには抵抗感はないんです。オレが居た寄宿制の学校にも、自殺した生徒や騎士の霊が出るって噂もありましたし、友人も見たと騒いでいましたから。――だから、些細なことでディーンの不興を買って、せっかくの優良物件を手に入れ損ねたくないんですよ」

だが、そんな蓮に、白髪の老紳士はさらに心配そうな茶色い瞳を向けた。

「ところで話は変わりますが、坊ちゃんには、何か香港関連で心配なことがあるのですか?」


意外にも、話題転換の後の彼の心配は、蓮個人に対してのものだった。

出会いの印象が悪いと心得ていた蓮は、少し驚いたように目を見開き、そして心からの笑みを向けた。

「いえ、ちょっと本社で色々あって……」と、はっきりしない言葉を濁すが、キングは「差し出がましいとは思いますが」と前置きし、ホッとしたように胸を撫で下ろして息を吐いた。

「もしも、香港関連でトラブルがあるのでしたら、ボスに相談なさったらいかがですか?」


だが、ディーンと香港のつながりがいまひとつピンとこない蓮は、ちょこんと小首を傾げる。

きっと、頭の上には?マークが浮かんでいるのが見えたのだろう。

キングは、これまでより、少し張りのある声で続けた。

「香港は以前、イギリス領でした。その流れで、ボスのビジネスにおいては、香港はこのイギリスと同様に直接関与できる、中国で唯一の場所で御座います。ご心配なさらずとも、香港で困った事があれば、ボスが大抵の事は解決して下さいますよ」


「――そうなんですか。でも、別に大した事ではないので」

あやふやな返事とともに微笑むが、その緑の瞳は笑ってはいない。

蓮はそのままキングから目を反らし、スマホでメールを打ちはじめる。

宛先は、希少なバイオレットの光彩を持つ男。

短いながらも、端的な文章で用件を伝え、すぐさま送信する。


――今夜、ホテルに着いて落ち着いたら、連絡を下さい。遅くなってもいいので、直接会って二人きりで話したいことがあります。


その時、何故か閉まったままの窓にかかるカーテンが、風もないのにふわりと揺れた。

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