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「おい、起きろ。もうすぐ、ロンドンに着くぞ」


バリトンボイスの落ち着いた声に、蓮が「んんっ」と身じろぎして瞼を開ければ、目の前には綺麗なアメジストの宝石が輝いている。

それが、専属ファイナンシャルアドバイザー契約を結ぶ顧客のものだと脳が認知するまで、ただぼんやりとその希少な宝石を観賞する。

「いい加減に起きろ、蓮。いつまで、オレのベッドで寝ているつもりだ? 大体、座席についた途端に寝るなんて、お前はガキか」

そんな顧客の言葉に、蓮はハッと両目を見開き、寝癖がうねる黒髪を強引に上げて跳び起きた。

素早い身のこなしで相手に避けられたことで未遂で終わったが、会社にとってはそれなりの投資額を預ける上客の額に、不意打ちで頭突きを喰らわせそうになる。


そんな蓮を、呆れたように紫の瞳が見下ろした。

「ヒースロー空港が見えてきたぞ。――迎えも、すでに来ているそうだ」


ようやくクリーンになった蓮の脳が、その今が現実であることを知覚させる。

そこは、ディーン個人が保有するプライベートジェット機の、ディーン専用の個室にあるベッドの上だ。

これが飛行機の中だとは思えない位の、落ち着いた白と焦げ茶をベースとした洗練されたインテリアは、スペースの狭ささえなければ、まるで高級ホテルの一室だ。

どうやら、機体前方にある客席で寝落ちした蓮を、運んでくれたのだろう。

「おはよう、ディーン」と、この一週間で身に付いた挨拶をにこやかにすれば、「いつものように、優雅に紅茶を飲んでいる暇はないぞ」と、ぶっきらぼうな返事が返ってくる。


およそ8時間前。

マンハッタンに一番近い、ラ・ガーディア空港を出発したのがついさっきの事のように思えるほど、全身を包み込むようなフカフカの座席に腰を落ち着けた直後から、記憶はない。

だが、直前までの記憶は鮮明だ。

そして、ようやく思い出した。

寝落ちする前までの蓮は、ディーンに対してひどく怒っていたのだった。



結局、住んでいたブルックリンのアパートメントは、3階の部屋の漏電により全焼した。

後の現場検証の結果、電気ケーブルをネズミがかじったらしい。


そして、クリスマスイブの夜。

着の身着のままで帰る家を失った蓮に、まずは眼鏡の秘書が、タブレットを操作しながら無慈悲にも死刑の宣告を下した。

「残念ながら、ウチのマンハッタンにある二つのホテルは、すでに全室がチェックイン済だそうだ。――時期が悪すぎたな、坊や」


その言葉に、慌ててブリーフケースからパソコンを取り出そうとした蓮に、今度はバイオレットの瞳を輝かせた魔王が、ニヤリと嘲笑を向けた。

「クリスマスシーズンのニューヨークのホテルに、まさか空部屋があるとは思ってないよな、お前?」

その現実に、抵抗を試みることすら出来ずにガックリと項垂れた蓮に、さらに追い打ちをかけるように、金髪の魔王が楽しそうに絶望を突きつける。

「証券取引所が開いているお前ら金融関係や、かき入れ時の観光業の奴らと違って、不動産関係は真っ当に長期のクリスマス休暇を取ってクローズしているぞ。おそらく、年が明けてもしばらくの間、お前は野宿が確定だな」


だが、顔面蒼白な顔を向ける哀れな子羊に対し、魔王はさっそく誘惑をはじめる。

それは、禁断の果実の如く、甘美なまでに蓮の心を揺さぶるものだった。

「俺のアパートメントに泊めてやる。仕事でスチュワートやジャクソンが泊る部屋が、ひとつ空いているぞ。それに、お前の職場には徒歩でも10分で辿りつく、ミッドタウンのシビックセンター近くだ。ジェントリー・ハーツへの通勤には、これ以上ないベストな立地条件だな。しかも何より、真冬のニューヨークでの野宿が避けられると思うが?」


そして、肝心の取引の条件を付きつけた。

「――ただし、お前が年明けのイギリス旅行に同行すれば、の話だ。条件的には、実にイージーだな」


クリスマスイブの夜に泊めてくれ、などと頼る友人もいない、赴任間もない12月のニューヨーク。

蓮には拒否権すら発動することも出来ず、一度悔しそうに傍若無人の魔王を睨みつけたものの、結局、諦めたようにため息を吐きながら俯き、小さくひとつ頷くことしか出来なかった。



あれから一週間。

魔王宅での居候生活は、同僚とルームシェアするのとは勝手が違い、互いに生活サイクルが違う家主に気を使いながらも、なんとかやり過ごして来た。

何より、クリスマス休み以後、2日間は家主が出張という状況も幸いした。

また、会社まで徒歩10分という地の利は、想像以上に便利である。

おかげで、これまで通勤に費やしていた分の空いた時間を使って、とりあえずの衣服や生活必需品などを買い揃える事も出来た。


だが、暮れも押し迫った大みそか。

今年も残す所、あと数時間という時間帯。

テレビではあるが、タイムズスクエアでの年替わりのカウントダウンのイベントでも楽しもうと、リビングでのんびりとミルクティを啜っていた蓮に、バスロープ姿のディーンが1つのスーツケースを突きつけた。

ブランド物の金持ちが好きそうな大きめの物で、キョトンと目を瞬かせて首を傾げた蓮に、家主は意味深に唇の端を上げた。


「さっさと支度しろ。1時間後にはイギリス行きの迎えが来るぞ」

相変わらずの家主の傍若無人ぶりに、蓮はジロリと金髪の男を睨みつける。

これは、確信犯の顔だ。

「貴方、今夜出発するのを、わざと黙っていたでしょう?」

「さあな。言い忘れていたかもしれんが、お前も聞かなかったからな」

しれっと言いのけ、その後、肩を震わせる男に対してぐうの音も出ない蓮は、怒り心頭の顔つきで唇を噛み締める。

そして徐に、宣戦布告の意を込めて、傍らにあったクッションを、家主に向かって投げつけた。



乗客僅か3名のプライベートジェット機からは、ヒースロー空港の一番隅にある滑走路に横づけされたタラップから、直接滑走路へと降りる。

どこかの首相のように、にこやかに手を振りながら降りることもない。

蓮は、口をへの字に曲げながらの不貞腐れた表情で、金髪美丈夫の顧客の背を睨みつけながら後に続く。

だがその顔つきが、タラップ下に横付けされた二台の長い黒塗りリムジンと、その脇に佇む男に気付いた途端、目を丸くした驚きの顔に変化した。


開け放たれた後部座席のドアの横には、胸に手を置いた状態で、白髪の頭を垂れる英国紳士が佇んでいた。

「出迎え、ご苦労だったな。――キング」

ディーンの発した一言に、「長旅、お疲れ様でございました」と、これまた姿勢と同じく恭しい返答を返す様子に、途端に蓮が緑の瞳を泳がせたのは、そのジェントルマンが顔を上げて自分へと目を止めたからだ。

ディーンに同行するのが決まったのは、僅か一週間ほど前の事だ。当然、不審がられると覚悟した途端、白髪のジェントルマンが、にっこりと好々爺の笑みを向けた。

堅物系が多い英国紳士には、珍しい反応だ。


「お会いできることを心待ちにしておりました、ミスタークロバネ」

そして、紳士に相応しい、上品な笑みを向けた。

「想像以上に、可愛らしいお方だ。ミスタークロバネの事は、秘書殿から事前に伺っております。どうぞ、緊張などなさらず、私のことはキング、もしくはファーストネームのウィルソンとお呼びください」

だが、その完璧な紳士の挨拶に、すかさず物言いがつく。

それは蓮へと投げられた言葉だ。

「キングでいいぞ、蓮。年寄りに気を使って、ファ―ストネームなどで呼んでやる必要はない」

そして厳しいトーンの物言いの続きは、白髪の英国紳士へと向けられる。

「お前にそれを許した覚えはないぞ、キング?」

紫の瞳が青味を増し、あからさまな不機嫌を露わにした不遜な態度に、動じることなく白髪の紳士は再び恭しく頭を垂れた。

「申し訳ございません、マイ・マスター。あまりにお可愛らしいお方だったもので、つい口を滑らせてしまいました」


だが、そんな主従のやり取りに、蓮は直ちに抗議する。

もっともそれは、会話していた主に対してだ。

一般的な社会では、例え部下と言えど、年長者にはそれなりに敬意を払うことも必要なのだ。

「そんな言い方、キングさんに対して失礼です。ディーンはもっと、社会的儀礼という概念を学んで下さい。つまりは、一般常識のことですけどね。――ほんと、非常識なんだから」


だが、嫌な顔をされることを承知で刺々しく諫めた言葉に反応したのは、紫の瞳の傍若無人な男ではなく、意外にも白髪の英国紳士の方だった。

目を見開いて一瞬全身を強張らせたものの、次に取った行動は、胸ポケットに手を素早く入れる動作だった。

ジャケットの中に入ったその手を、それより早くディーンの手が止める。


「いかに従順をモットーとするお前でも弁えろ、キング。どんな理由があっても、蓮への手出しは、俺に敵対する意志とイコールだ」

威嚇するような殺気だった言葉に、老紳士は諦めたよう小さく息を漏らし、そして先ほどまで浮かべていた柔らかな表情へと、潔く戻る。

「無論、承知しております、マイ・マスター。大変申し訳ございませんでした。今後、重々、心に止め置きますので」

そして、改まったように背筋を伸ばした紳士は、再び蓮にその穏やかな笑みを向けた。

「ミスタークロバネ。大変、失礼を致しました」


そんな大人な対応を取る老紳士に、ようやく蓮も表情を和らげ、照れくさそうに頭を掻いてみせる。

「オレを呼ぶのに、ミスターを付けるのはやめて下さい。世間知らずな若造には、黒羽と呼び捨てで呼んでくれていいんですよ」

そして、少し気まずくなった場の雰囲気を察し、敢えて道化師を演じる。

「でも、スチュワートさんやジャクソンさんは、オレのことは坊やって呼ぶばっかりで、名前ではなかなか呼んでくれないんですけどね」


肩をすくめて見せれば、キングは「ほう」と声を漏らし、得心したようにひとつ頷いた。

「ならば、私は、坊ちゃんとお呼び致しましょう」

「えっ?」と眉をひそめた蓮が、「いやいや、そうではなくて……」と訂正しかけたものの、続く言葉は運転手から報告を受けた、ジャクソンの野太い声にかき消される。

「荷物の積み込みと、入国手続きも完了しました、ボス」

その報告を合図に、ディーンはバイオレットの光彩を蓮へと向けた。

また、キングは運転手が立つリムジンへと行ってしまった。


「ここからは別行動だ。俺とジャクソンは、仕事でロンドンに残る。お前が調査するホテルへはキングが案内するから、しっかり精査して今夜報告しろ」

だが、蓮はその意外な指示に、緑の瞳を瞬かせた。

「別行動って、いつもは実地調査をしたがる貴方が、一緒に行かないんですか?」

失礼とも取れる蓮の言葉に、ディーンは面倒くさそうに肩をすくめてみせる。

「今回の訪英の目的は別件だ。お前ほど暇じゃないし、その為にスチュワートの反対を押し切って、お前を連れてきたんだろう?」

そして、バイオレットの光彩の色を深めた。

「お前の調査した結果で、買うか買わないかを決める。そのつもりで、しっかり見てこい」

顎を上げてジャクソンに合図すると、「時間的に夕食が一緒に取れるか怪しいから、何でも好きなものを食っていろ。それと、何かあればメールで知らせろ。電話はするな」と一方的に言い残し、さっさと一台目のリムジンに乗り込んでしまった。

ジャクソンはと言えば、チラリと蓮へと視線を向けるも、ディーンが乗り込んだ後部座席のドアが閉まるのを見届け、自身の巨体を助手席へと滑り込ませる。


唖然としたまま走り去っていくリムジンのテールランプを見送っていた蓮に、キングは恭しく声をかける。

「では、僭越ながらボスと合流されるまでの間は、この年寄りめがエスコート致しますよ。――坊ちゃん」


何かが引っかかる感覚を覚えつつも、蓮は幼小の頃に身に付けた躾から、「よろしくお願いします」と反射的に小さくお辞儀を返していた。

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