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イタリア南部。
ブーツの先端の先に位置する、シチリア島の東海岸沿いにあるタオルミーナ。
シーズン中の夏は、グランブルーの色味を濃くした青い空と、眩い太陽。
真っ青なイオニア海と、シチリアレモンの実をつけた樹木が自生する、美しい自然に囲まれたリゾート地。
遠くには活火山のエトナ山を望み、多くの観光客を惹きつけて止まない、真夏のイタリアのイメージそのもののロケーション。
中でも崖の街タオルミーナは、シーズン中はセレブ達が競うように集まる、一流のホテルが点在するシチリア島屈指の高級リゾートの街だ。
シチリア島の東の玄関口、カターニャ国際空港から車で約50分ほどで着き、治安が最悪というイタリア国内にあって、清潔で安全面がすこぶる良いのも人気の理由のひとつだ。
また、大都市ローマやナポリとは違い、2、3時間もあれば街全体を散策することも出来る、海沿いの小さな街。
11月も月末ということもあり、北部よりはマシとは思うが、それでも暑いイメージの南イタリアにも冬は来る。
依って、シチリア島屈指の高級リゾートと呼ばれるタオルミーナであっても、冬は寒い。
特に12月に入ろういう時期にもなれば、ダウンジャケットなどの防寒具は必須だ。
青い海と太陽を間近に感じたいバカンスシーズンには大賑わいの街の様相は一変し、冬は観光客も激減し、街自体がしんみりと沈んでいる。
それでもクリスマスが近づけば、キリスト教の総本山を有する国の為、多少は現地民により街中も賑わいをみせるらしいが、イベント終了後はほとんどのホテルが休業となるほど、とにかく観光客の足は途絶え、高級リゾート地はゴーストタウンへと様変わりする。
「そういえば、冬のシチリア島に来るのは初めてだな」
タオルミーナに点在する高級リゾートホテルの中でも、最も格式が高いとされる、東海岸の岩山にそびえ立つ “ホテル パラッツォ”。
イタリア語で宮殿を示す名を掲げた老舗ホテルのスィートルームは、キングサイズのベッドを設えるプライベートルームが2つと、シャワーブース付きの大理石製の大きなバスルームを備え、豪華な応接セットやミニバーが設えられた広々としたリビングの外には、200㎡のテラスが続く。
テラスの片隅には、パーゴラやデッキチェアー、それに小さめのプライベートジャグジーが設置されているが、冬という時期もあり水は抜かれ、より寒々しさを演出している。
そのテラスから、終末予言を描いた絵画のような、今にも雨粒が落ちて来そうな濃い灰色の雲が覆った空と、眼下に広がるうねりながら波立つナクソス湾を見下ろしながら、カシミアの黒いロングコートを纏ったままの金髪のホテルグループオーナーは、面白そうにつぶやいた。
海から吹き付ける冷たい風が、緩く後方に撫でつけてセットしていた金糸の髪を巻き上げる。
防寒のためにダウンジャケットのファー付きのフードを被った蓮もまた、狙いが当たった喜びから声を弾ませた。
「だから言ったでしょう? 絶対にお買い得だって」
「ああ。正直、こんなに陰惨たる状況だとは思わなかったな。――だが、気に入った」
顧客からのアドバイザー冥利に尽きる発言に、満面の笑みをその端正な横顔に向ける。
すると、蓮の視線に気づいたのか、紫のアメジストのふたつの宝玉を有する美丈夫の顔もこちらを向いた。
「確かにこの惨状ならば、俺達の提案にオーナー連中は嫌とは言えまい。しかも、過去ない事例だ。お抱えの経営コンサルタントとて、どんなに有能な者でも、我々の思惑には気付かないだろうな。それと、この買収計画で、お前が唯一懸念する部分については、俺に任せてくれていい」
その最大限の評価に、蓮は照れくさそうに頬を染めた。
一方ディーンは、傍らの男の素直な反応を、鼻で小さく笑う。
そして、紫色の光彩の色が一際深味を増した。
「どうせなら、この機に交渉まで持ち込むぞ。いけるか?」
「もちろんです。それと、できたら明日はオレの調査に付き合ってください」
専属アドバイザーからの珍しい求めに、「ん?」と意外そうにバイオレットの瞳を見開き、そして表情は穏やかな笑みへと変わる。
だが、紫色の瞳の色味に赤みが強まった事を認識した途端、何やら居心地の悪さを感じた蓮は、顔を背けて尤もらしい理由を並べ始めた。
「街中の観光客向けの店が、オフシーズンにどれだけ閉まっているかを一応確認したいんです。あと、イゾラ・ベッラやギリシャ劇場など、シーズン中に観光客が訪れる場所の冬の現状とかも、色々と自分の目でリサーチしたいんです」
その時、フードが強風に煽られて外れ、青みがかかった艶やかな黒髪が、海風に巻き上げられて露わとなった横顔に、ディーンは口角を僅かに上げた。
冬の寒空の中、蓮の頬は僅かに赤みを帯びている。
「いいだろう。お前プロデュースの市街観光に、丸一日付き合ってやる。ビジネス抜きの観光客ってやつも、たまには悪くない」
だが、柄にもない軽口を吐いた自覚から、ディーンは再び、濃紺の水面をうねらせた不穏な海、そして暗闇に溶け込むくらいに灯りが少ない街へと視線を戻す。
とうとう曇天の空からは、ひとつ、またひとつと雨粒が落ちてきた。
風も強まり、時折、足に力を入れないと体を押すほどに、その勢いを増してきている。
「そろそろ、中に入りましょうか」
蓮の呼びかけにディーンはひとつ頷くと、エスコートするように専属アドバイザーの背に手を添えて、スイートルームのリビングへと促す。
そして、海風でかき消される事を知りながら、蓮に向けてひと言漏らした。
――お前のプラン通り、この冬のリゾートを、俺が丸ごと買い占めてやる。
・・・・・
翌朝。
いつものように、緩く髪を後方に流しての整髪後、バスルームを出たディーンは、リビングから続く階段の先のロフトにある、2つ目のベッドルームへと向かう。
当初、ディーンとの同室という事実に、「それは、絶対にダメなやつですって!」「オレも、眼鏡秘書や銀髪マッチョと同じフロアがいいです。ダメなら、ちょっと怖いけどミラーさん達と一緒でもいいですから」などと必死の形相で、頑なに抵抗した。
眼鏡秘書と呼ばれた白人は、この視察旅行に際し、シーズンオフでクローズしていた老舗ホテルを開けさせるために、強引な手段をとっていた。
ディーンと蓮のスィートルームは、別館最上階にある。
そして、その階下のセミスィート2室を、自分と警護の側近二人に割り当てた。
無論、4階建ての別館は、使う者がいないにも関わらず、全ての部屋を借り上げて貸し切り状態にしている。
それでも渋ったホテルオーナーに、今度は本館の1フロア全てを借り上げて、貸し切ることを提案した。
そこには、当初は連れていく予定になかったジャクソン配下のミラー率いる、もれなく全員が狂暴オーラを放ち、黒スーツに身を包んだ30人ほどの実働部隊を割り当てることになる。
ちなみにミラーは、眼鏡秘書と銀髪マッチョより年上の白人女性だ。
赤毛の長い巻き毛を無造作に一つに結い、化粧っ気はないにもかかわらず、もともとの造りが良いせいか、美人というのが第一印象だ。
黙って着飾って立っていれば、さぞかしモテるだろうな、などと呆けていた蓮に向かい、「ずいぶん可愛い坊やだね」と、ディーンの執務室でいきなりハグした、初顔合わせの時の衝撃的な出来事を蓮は忘れられないらしい。今でも、ミラーが近づく度に、ビクビクと警戒している。
だが、口と態度は相当悪いが、その分、裏表のないストレートに心情を明かせる強さを持ち、なかなかに男前な彼女のことを、蓮は悪くは思っていないようだ。
ミラーが出張した時などは、「ミラーさん達、大丈夫ですかね?」などと、何度も同じことを口にするほど、安否を気遣っている。
もっとも、“狂犬”とか“ケトル”などと、黒スーツの部下たちから影であだ名をつけられるほど喧嘩っ早く、喧嘩相手に対しては一切容赦がない女だ。
敵に回せば恐ろしい女ではある。
「とにかく、出張先で顧客と同室なんて、ビジネスマンとして絶対認められません!」
そんな蓮の必死な主張にも関わらず、意外にもその抵抗をねじ伏せたのは、蓮から不名誉なあだ名で名指しされた二人だ。
「何を心配しているか知らないが、今回は内々での細かな打ち合わせが必要になる。そのために、ボスには失礼を承知で、坊やと敢えて同室にしたんだ」
そしてスチュワートは、銀縁の眼鏡をくいっと上げた。
「それに安心しろ。ボスがやすらかにお休み頂けるよう、坊やとボスの寝室は別だ。そんなのは当然織り込み済みで、二つのベッドルームがある部屋を予約してある。それでもまだ、小生意気にも私の采配に文句を言うつもりか?」
一方、筋肉隆々の腕を組み、銀髪マッチョの警護担当は、憮然とした口調で問いただす。
「あくまでも警護対象が一緒に居たほうが、我々の都合がいいという判断だ。それとも何か? 坊やのくせに、この俺にさらに手間をかけさせようって算段か?」
普段と変わらない口調ながら、それぞれ色の違う瞳は全然穏やかではない。
結局、「顧客と同室なんて、絶対に会社にはバラさないで下さい。その条件が飲めない場合は……」と、ディールさながらの勢いで捲し立てたアドバイザーは、「わざわざ吹聴する意味がわからんな」「それはいらない心配だろうが、坊や?」「何を言ってるんだ、蓮? 一体、それが何の得になる?」と、アメリカ人3人の失笑交じりの言葉により、あえなく撃沈した。
金髪のアメリカ人実業家は、キングサイズのベッドの縁にギシッとスプリングが軋む音を立て、無遠慮に腰を降ろして長い足を組む。
見下ろすベッドの上には、頬をうっすらと紅潮させた黒髪の日本人が、すやすやと気持ち良さそうに寝息をたてていた。
広々としたベッドの片側で、丸まった上掛けに抱きつくように眠っていて、身体には薄いシーツしか掛かっていない。
およそ、成人男性の寝相とは思えない寝姿と、夢の中を彷徨うあどけない寝顔は、蓮を普段よりもさらに幼く見せた。
ハーフかクォータとはいえ、東洋人の年齢不詳マジックは、正直恐ろしい。
ディーンは軽く息を吐き、そのシーツからはみ出した肩を揺さぶる。
「おい、起きろ。――蓮」
何回か声をかけるが、モゾモゾと動きを見せるものの、目覚める気配は一向にない。
仕方なしに、寝癖がついた黒髪に手を差し入れてクシャリと掻きまわせば、ようやくうっすらと瞼が開いた。
「……ん? ディーン?」
猫のような仕草で目を擦りながら、掠れたテノールの声が気だるそうに答える。
「リビングに朝食が用意してある。そろそろ起きろ、せっかくの紅茶が冷めるぞ」
紅茶という言葉に、まだ覚醒したてでぼんやりとした緑の瞳が、のろのろとディーンへと向けられた。
「それと、悪いが急用が入った。午前のうちに片が付くと思うから、ランチで落ち合うように連絡する」
その急な予定変更に、ようやくはっきりと覚醒したのか、目を見開いてパチクリと瞬かせる。
「どこかに出かけるんですか?」
そして、ディーンがいつものスリーピースのスーツ姿であることに、ようやく気付いたらしい。
その問いかけに、ディーンは至極面倒くさそうな表情を浮かべた。もっともそれは、蓮に対して向けたものではない。
「今回の調査で訪れるのは、トリエステには寄るが、メインはシチリア島だけで急な出発だったからな。奴には会わずに済むと思ったが、奴の執事から俺がイタリアに居る事が漏れたようで、わざわざシチリアまで押しかけてきた」
誰と、と敢えて口にしないのは、よくあることだ。蓮も遠慮しているのか、それ以上追及してくることはない。
それよりも、ため息混じりの愚痴が珍しいのか、専属アドバイザーは面白そうに緑の瞳を輝かせた。
「なら、オレは街の様子をリサーチしてみます。2、3時間くらいで回れると聞いていたので、午前中だけで済むと思います。ですから、観光スポットめぐりはランチの後にしましょう。それにここは、世界のマフィア発祥の地ですし、有名なマフィア映画のロケ地もあるんです。――そこにも、ちょっと寄っていいですか?」
蓮がイタリアに旅立つ前に、地元のネット仲間から仕入れた情報を得意気に話す声は弾んでいる。
どうやら、今回のディールが思った以上に上手くいきそうな予感に、珍しく気持ちが浮かれているようだ。
仕方なしに、すっかり観光気分の青年に釘を差す。
「お前の好きにしろ。だが、そういった連中は今でもいる。それに内部での小競り合いもあるらしい。ボディーガードとしてジャクソンをお前に付けるが、あまり浮かれすぎて危ない目にあうなよ」
頭の上に置いたままの手で、再びクシャリと黒髪を掻きまわせば、「了解です。ディーンも気を付けて」と、緑色の瞳が柔らかく笑った。
「いってらっしゃい」と背後からかけられた言葉に右手を上げて答え、ロフトからの階段を下りれば、リビングには、生真面目な秘書が背筋をぴんと伸ばして待ち構えていた。
その見上げてくる眼鏡の奥のブラウンの瞳が、何か物言いたそうな様子に、ディーンは自分が微かに笑みを湛えていた事に気付き、表情を改める。
「車を回せ。出るぞ」
ついついぶっきらぼうなもの言いとなった指示に、眼鏡の秘書は黙って恭しくひとつ礼をすると、胸元からスマホを取り出して、主の後に続いた。
・・・・・・・・
蓮がイタリアの調査旅行に出かける事を話したのは、ディーンのオフィスでのキックオフミーティングの直後だ。
執務室の一画に設えられたミーティング用の広めのデスクと椅子は、蓮がファイナンシャルアドバイザーに就いてから設えられたと、初めて執務室に案内される途中で、口数の少ないジャクソンが珍しく教えてくれた。
そのデスクに広げた書類と愛用のノート型パソコンを片付けながら、ゴーサインの出たイタリアのプランについて、現状を確認しに行って来ると申し出れば、顧客はしばらく考え込んでいたものの、次に蓮へと向けられた顔には策士の色が浮かんでいた。
その思惑が分からず首を傾げてみれば、ディーンはニヤリと笑って背後のボディーガードへと声をかける。
「ジャクソン。イタリアでの警護の手配は、何日あれば出来る? 行き先はトリエステとシチリア島だけだ」
唐突な質問に面喰った警護担当の男は、ちらりと眼鏡の秘書を盗み見るが、タブレットを操作して何かを確認しているところをみると、すでに抵抗を諦めているようだ。もっとも、キラリと眼鏡のレンズを反射させてその目は見えないが、決して快く了承しているといった雰囲気ではない。
「イタリアは、割と組織の統制が取れているから、先方に話を通せば1日もあればなんとかなる、……です。ただ、お忍びならば3日は欲しいかな」
その言葉に満足そうに頷いて、紫の瞳を蓮へと向けた。
「という訳だ、俺も同行するぞ。イタリア、特にシチリア島はガキの頃に何度か行った事がある。何なら、案内してやるぞ」
そんな上機嫌そうな申し出に、「貴方にも、子どもの頃があったんですか」と眉をひそめたものの、現在置かれている状況を思い出し、「あのですね」と反論を始めた。
だが、そんな蓮を、ディーンは中指を一本立てたハンドサインで速やかに黙らせ、涼やかに言い放った。
「フライトプランや宿の手配はこちらで行う。ルートや立ち寄りたい場所など、何かリクエストがあればスチュワートを通せ。これは俺のグループの新規事業のディールだ。当然、俺には見届ける権利がある」
その屁理屈と、相変わらずの強引さにムッとしつつも、不承不承でも頷いたのは、蓮自身がイタリアを訪れるのが初めてだからだったからだ。
しかも、シーズンオフのリゾート地。
どんなトラブルがあるか想像もつかない中、少しだけ心強いと思ってしまった。
だから、せめて言葉だけは強気で出る。
「オレの邪魔だけはしないで下さいよ。あくまでも、調査に行くんですからね。これはビジネスです」
そんな負けず嫌いのアドバイザーに、金髪の男は上機嫌に笑った。
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