第二部 タオルミーナ・ディヴェルティメント
第二部 タオルミーナ・ディヴェルティメント プロローグ
アメリカ合衆国、ニューヨーク市。
アメリカの、否、世界金融の中枢、マンハッタン。
ミッドタウンにあるロックフェラーセンター前に巨大なもみの木が設置され、世界的に有名なクリスマスルミネーションの飾り付けが、点灯式に向けて佳境に入ろうとする時期。
休日を終え、心機一転の心境で仕事を開始する、月曜日の朝。
銀行や証券会社など、それぞれの仕事場へと向かう金融マン達を巧みに避けながら、ブリーフケースを小脇に挟んだ日本人青年が、慌てた様子で天下のウォールストリートを全力疾走していた。
事の発端は、20分前に遡る。
黒羽蓮は、出勤前に会社近くのカフェスタンドで、砂糖抜きのロイヤルミルクティを買った。
淹れたてで熱々のミルクティは、会社のプライベートオフィスの椅子に腰を落ち着ける頃には、猫舌の自分には、ちょうど飲み頃の温度になっているだろう。
蓮がアメリカに赴任して、そろそろひと月が過ぎようとしていた。
季節は間もなく、1年の締めくくりの月となる。
イギリスで飲んでいたものと同じクオリティの茶葉と淹れ方で提供するカフェスタンドのミルクティは、ニューヨークに赴任してからの蓮のお気に入りだ。
毎朝、プライベートオフィスで、カフェスタンドの本格的なミルクティを啜りながら、朝一番でニューヨークタイムズを広げ、前日の各国の株式市場の動向をざっと把握するのが、朝のルーティーンとなっている。
すっかり顔馴染みとなったカフェの店員に笑顔で礼を言い、厚手のカップを片手に店を出れば、ふいに尻ポケットのスマホが振動を始めた。
すぐさま歩道の隅に寄り、スマホの画面を見た途端、嫌な予感が蓮の脳裏をよぎった。
そして、渋々電話に出たものの、2、3回のやりとりで、その予感が的中したことを悟る。
専属ファイナンシャルアドバイザー契約を結び、新たな事業展開のプランの提示という大それた宿題を出してきた顧客が、突然、今日の定例会合の時間を早めて欲しいと連絡してきた。
しかも、午後1時の予定を、午前10時に前倒しするという無茶ぶりだ。
愛用している腕時計を見れば、あと15分ほどでその時刻になろうとしている。
「そんな! いくら何でも、急すぎです。もしもスチュアートさんがオレの立場になっても、当然そう思いますよね」
『全然、思わないな』
顧客の有能な秘書に共感を求めるものの、バッサリと斬り捨てるような口調に、おそらく電話の向こうでは、銀縁の眼鏡をくいっと直しながら胸を張って言い切っているだろうと、想像は容易い。
「コールド様は、非常に多忙なお方だ。3時間程度の時間変更など、ないに等しい。むしろ、坊やとの会合時刻をきっちりと守られるようになられた、最近の方が異常だ」
いくらアメリカ人が定刻という文言への意識が薄いといっても、3時間の時間変更が無いに等しいと言い切る神経は理解できない。島国日本の常識では、即刻打ち首獄門の刑だ。
「オレはまだ、出勤前ですよ! 会社に寄ってディーンのオフィスに行くのに、一体何分かかると思っているんです! それに、オレが遅れたら、絶対にディーンは怒るじゃないですか」
――そう。
金髪の男の時間に寛容なスタンスは、自分自身に対してだけだ。
過去に一度、車体の故障の為に地下鉄が止まり、蓮が30分ほど待ち合わせに遅れた時の、金髪の男の冷ややかな紫の瞳は忘れない。
「日本人は時間に正確というのは、嘘か?」「お前、本当は何人だ?」などと、その日一日、冷笑を浮かべてチクチクと嫌味を言われたことも、記憶に新しい。
だから、ここは絶対に譲れない局面だ。
「せめて11時にして下さい。それなら、そちらの変更に合わせてあげます。でなければ、交渉は決裂です」
こういう時は、どこまでも対等に接しなくてはならない。
あくまでも、相手への敬意を払いつつ、こちらが譲歩してあげた、というスタンスが大事だ。そうでないと、相手のペースに巻き込まれ、交渉は不利になる。
そしてそれは、ディールの時も同じことが言える。
巨大な金を動かす、ディールの天才と呼ばれる青年の一流の交渉術の前に、さすがの秘書も一瞬押し黙った。
その沈黙に、蓮が優勢な状況に持ち込んだと思った矢先、盛大なため息を吐きながら、眼鏡秘書は爆弾を投下した。もっとも、彼のため息は、蓮に向けられたものではない。
「ボスのご意向では、時間の変更はないそうだ。その代わり、坊やの会社の前まで、ボスが直々に迎えに行くと仰っている。――良かったな」
そのまま、「では」と淡々と一言だけ秘書は言い残し、蓮の答えも聞かずに通話が切られた。
だが、問題はそこではない。
――アレで迎えに来る。しかも会社の前まで。
蓮の顔から、血の気が引いた。
ジェントリー・ハーツでも、セレブの資産運用などを手掛けたり、一流企業の財産管理などを取り扱ったりしていることもあり、玄関前にリムジンが横づけされる光景自体は珍しくない。
だが、赴任早々の若造社員の迎えのために、超高級黒塗りリムジンが玄関前に横付けされた時、自分は一体どんな顔で乗り込めというのか。
しかも出勤ラッシュの、この時間帯だ。
――冗談ではない。
すぐに支社あげての噂となり、あれこれ詮索されることになる。
ただでさえ、“英国本社が誇るルーキー”、“欧州金融界が認めるM&Aディールの天才”などと、勝手に持ち上げられては、影で扱き下ろされている肩身の狭い現状だ。
就任直後から、北米支社のエースとか自称しているスパニッシュ系の白人男にも、ちょこちょこと嫌味を言われ続けている。
これ以上あの面倒くさい男を刺激したら、今度は何を言われるか分かったものではない。
蓮は、愛用の腕時計に視線を落とし、現在を確認する。
約束の時刻までは、あと10分。
ここから会社まで、ダッシュで行けば6分足らずで着く。
あの傍若無人な男の黒塗りリムジンが、北米支社が入る高層ビルの敷地に入り込む前に止めれば、まだ何とかなるかもしれない。
日本赴任以後に身に付いた癖でまずは腕時計を操作し、ストップウォッチを起動させた。
今から10分以内にロータリーの入り口に立っていれば、リムジンの侵入は阻止される。
それイコール、蓮の勝利だ。
エメラルド色の光彩が、ディールの時のような色味を増した。
そして顔つきも、勝負師のものへと変わる。
欧州金融界が認めるM&Aディールの天才は、意気込んでと駆け出そうとしたものの、ふと手にしたままのミルクティのカップを恨めしそうに見つめた。
だが、そのままの姿勢で数秒間葛藤したものの、頭を振って気持ちを切り替え、周囲を見回す。
足早に先を急ぐ金融マン達の中で、店の看板の横に佇んでいた白髪の老紳士と、ふいに目が合った。
洒落たイタリアンカジュアルな井出達は、恰幅のいい体型に貫録と品を同居させる。
なかなかにハイセンスな老人は、立ち姿も決まっている。
正直、格好がいい。
蓮は迷わず老人のもとへ向かい、にっこりと人当たりの良い笑みを浮かべ、手にあるカップを差し出した。
「あの! これはミルクティなんですけど、今、買ったばかりで、まだ手をつけていません。急ぐ用事が出来たので失礼かと思いましたが、よろしかったら貰って下さい。いらなければ、捨てて下さって結構なので」
そして、驚いたような老紳士の手に強引にカップを押し付け、「すごく美味しいですよ、オレのお勧めです」と言い残し、ミルクティへの未練を断ち切るように踵を返してダッシュした。
コーナーを直角に曲がり、会社まではあと50メートルほどという所で、隣の車道を見覚えのある車体の長いリムジンが、全力疾走する蓮の横を優雅に追い越していく。
時計を見れば、駆け出してからまだ4分ほどしか経っていない。
「こんな時ばっかり、なんで5分前行動なんだよ! ディーンのクソ野郎」
チッと舌打ちして、思わず覚えたてのスラングで悪態をつくものの、その悪態が聞こえたかのように、リムジンは緩やかにスピードを落とし、歩道側に車体を寄せて停車した。
すぐに、後部座席のドアが開く。
息を弾ませて後部座席の中を覗けば、相変わらずカッチリとした三つ揃えのスーツを完璧に着こなした金髪の美丈夫が、ゆらゆらと足を組んで座っている。
だがその口元には、面白がるような笑みが浮かんでいた。
「お前、いつも走っているな。今日は誰に追われているんだ?」
ストレートにからかう言葉に、蓮が敢えてプンと剥れて見せるのは、食べ物の恨みがあるからだ。
「別に追われるような事なんてないですよ。ただ、オレも一応ニューヨーカーになったことですし、マラソンしていただけです。ニューヨークの人たちはみんなマラソン好きで、健康志向が高いですから」
そして、周囲の視線を気にしつつ、そそくさとリムジンに乗り込む。
「それは偏見というものだろう? だが、お前の走りは、マラソンのペースではないな。あれは、中距離走のスピードだ。ならば、何か急がなくてはならない、特別な事情でもあったのかな?」
意地悪い笑みは一層深まり、バイオレットの瞳は揶揄するような光を湛えている。
自分の為に蓮が走る羽目になった事を、蓮自身に言わせたいようだが、そこは断固認める訳にはいかない。
弱みを握られるのは、今後、様々な場面で不利な状況を作られる要因となる。
「オレは、会社に走って出社するのが日課なんです。ところで……」
一端、言葉を止めると、ブリーフケースから書類の束を取り出して手渡した。
「約束していた宿題です。いくつか、お勧めなプランをまとめてみました」
これ以上、からかわれないように金髪男の意識を反らすため、少し強引だかビジネスへと話題を転換する。
軽口の応酬が強制終了したことに、ディーンは少し不満そうな顔を向けるものの、それでも、新規事業についてのプランをいくつかまとめた書類へと、視線を落とした。
その中から、ひとつでもディーンの気を引く物があれば、この後キックオフミーティングに入る。
ようやく車内は静まり、蓮はホッと安堵の息をひとつ吐く。
季節がら、真夏の京都のように汗まみれになることはないが、それでも運動直後の弾む息と、紅潮する頬はどうしようもない。
ドアが閉められ、リムジンが発進したところでマフラーを外し、ダッフルコートを脱いで身繕いを済ませると、蓮は外気のせいでひんやりと冷たい両手で火照った両頬を包み、強制的にクールダウンさせる。
その間も、ディーンは渡された書類を熱心に読んでいるだけで、端正な横顔を上げる様子はない。
――ディーン R コールド。
京都でのディールがクロージングした後で蓮が真っ先に行ったのは、ホワイトナイトとして、蓮のディールを後押ししてくれた男の調査だ。
アジア圏を除く世界中の主要観光都市で高級ホテルを経営し、クルーザーや寝台列車での極上の旅を提供するなど、観光業を手がけるグループ企業のオーナー。
若きアメリカのやり手実業家。
だが、どんなに調べても、それ以上の表立っての情報はない。
経歴などの公的なプロフィールも簡単なもので、出身大学とされるハーバード大学内に残る記録にもアクセスし、コールドという学生が存在したことは確認したが、どこか空々しくリアリティに欠ける内容に、結局のところ、どこまで信憑性があるかは疑問だ。
仕方なしに、ニューヨーク市警やFBIなどの公的機関のいくつかのコンピューターにハッキングを仕掛けたものの、『29歳』『未婚』『ニューヨークに居住』『逮捕歴なし』といったどうでもいい情報しか手に入らず、相変わらず彼の正体は謎に包まれたままだ。
裏の顔など、皆目見当すらつかない。
一度、銀髪のボディーガードにマフィアかとカマをかけてみたものの、即答で「いくら坊やでも、ボスについて失礼な事をいうな」と、怒られてしまった。
ふいに、書類を見つめるディーンの紫色の光彩が色味を増した。
――ということは、第一段階はクリアしたということだ。
一体、どのプランがお気に召したのか興味をそそられ、その手元に開かれたページを覗き込んで一瞥すると、蓮はさっそく、意味深な笑みを湛えて念を押した。
「個人的に約束した成功報酬を、忘れないで下さいね」
「――それはこの後の、キックオフミーティング次第だな」
その言葉に、挑戦的に緑の瞳を輝かせた青年に、美丈夫な顔を向けたディーンも、口元に小さく笑みを湛えた。
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