第一部 エピローグ

首都東京のオフィスの一画に設えられている、プライベートブース。

大型のガラス製のゆるやかな曲線のカーブで仕切られた空間は、喧噪から隔絶されるM&Aアドバイザー以上のポストに就く者に、その権限として与えられたスペシャルな空間だ。


デスクの上には、備え付けのファックス付きの電話の他は、小さなサボテンの植木鉢と卓上ボールペン立て以外、私物は何もない。

そんな小ざっぱりとした広いデスクの上に、一枚の封筒が片付け忘れたようにポツンと置かれていた。

宛名は、「ジェントリー・ハーツ・ファンド日本支社 海外事業部御中、黒羽蓮様」

その傍らには、達筆な筆文字でつらつらと文字がしたためられた便せんと、1枚の写真が置かれていた。

写真には、京都の美しき紅葉の赤と、重厚な造りの歴史ある平屋の建物を背景に、上品な老婦人を真ん中に、生真面目そうだが笑顔が自然な日本人男性と、恰幅のいい中年のアメリカ人女性が満面の笑顔を向けて写っている。

便せんには、退院後の報告と、今回のディールへの感謝。そして、夢の屋グループのために尽力してくれた黒羽蓮の、今後の成功と健康、そして幸せを願う言葉が、丁寧で優しい文言を多用して綴られていた。


先程まで、感慨深そうに緑の瞳で文字を拾い読みしていた読み手は、ここにはいない。

宛名の主は、もう一階上の重役用フロアーに、社長直々のエマージェンシーコールを受けて緊急招集されていた。



黒羽蓮は、重厚なマホガニーのデスクの上に置かれたパソコンを前に、部屋の主である支店長と肩を並べ、画面に映し出される社長の話を延々と聞いていた。

「何でも、最近大口の投資を委託された方が、ファイナンシャルアドバイザーを探していてね。ぜひ、黒羽くんをと指名されたのだが、君は何かその方と接点はあったのかね? まだ若いアメリカの実業家なのだが、なかなかに……」

質問するくせに、話がなかなか終わらない社長の悪癖には、ひたすら忍耐が必要だ。途中で口を挟めば、話はさらに三倍は長引く事になることは、全社員が知っている。

ビジネスマンとしては脂が乗りきる五十歳。

だが、外見だけはダンディだが、内心は些細な不安材料にいちいち反応する小心者故の悪癖である。

“石橋を叩いて渡る”という日本の諺にならい、日本支社でつけられていたニックネームは“石橋くん”だ。

もっとも、その慎重さが効を奏して、会社経営においての実績を重ね、今の地位にいるのだが。

「……と、言う訳で、黒羽蓮くん。急な話だが、来月から北米支社へ転勤となる。無論、待遇は個人で専属ファイナンシャルアドバイザー契約をとりつけた訳だから、給与面でも考慮するつもりだよ」


ようやく終わった社長の話にホッと胸を撫で下ろしつつ、蓮は取り繕ったような笑顔を向けた。

「ミスターコールドは、最近手がけたディールで出資して頂いた方です。まだ数回しかお会いした事は御座いませんが、人との出会いを大切になさる方です。有難いお話を頂き、これも自身が成長するチャンスと思い、転勤の話を前向きに受けさせて頂きます」

その完璧な回答に、さすがの社長もぐうの音も出ない。

隙ある回答ならば、再び社長の長話が始まるのだが、それを回避するには、とりつくシマもないくらいに、質問に対して簡潔且つ落としのないように答える事が必要となるのだ。

これも、全社員が心得る、対社長用の重要事項だ。


そして、社長との通信が終わり、ホッとする間もなく支店長への報告を迅速に行う。

今回の転勤話は、日本で手掛けたディールからの栄転だ。

対応を間違えれば、抜け駆けと非難されることになるし、社内でそうした噂が立てば、それはレッテルとなる。今後のビジネスに支障をきたさないよう、最新の注意が必要なのだ。

それは、イギリス本社で体験して覚えた教訓であり、日本に転勤となった本当の理由でもある。

しかし、本音を口に出来るはずもなく、蓮は自然に見える作り笑いを浮かべた顔を、付き合いの短い支店長へと向けた。

「オレが手掛けた京都でのディールへの、本店支店含めたジェントリー・ハーツの迅速な対応が、勝利の要でした。オレひとりの力では、おそらく黄金株は奪われていたでしょう」

社内で生き抜く為に、どうでもいい人達には殊勝な顔で嘘をつく。

けれど、最後だけは本音を吐くのだ。

――ありがとうございました。

蓮は、日本式の礼を尽くし、深々と敬意を持って頭を下げた。



国籍は同じでも、日本語は拙い自分。

日常会話はなんとかなっても、読み書きは小学二年生レベルだ。

だが一方で、日本人のくせに白人のような顔立ちと、何より日本人なら誰もが違和感を覚えるであろう緑色の瞳。

どっちつかずのアンバランスさに、自身も周囲も困惑していた転勤当初。

――金髪にでも染めた方が、いいと思うで? その方が、周りもハーフやろって納得できるやん。それに、君も色々と気を使わなくて済むがな?

年配の部下は、そう明るく冗談半分に笑い飛ばしてくれた。

彼のおかげで、悶々としていた蓮の気持ちも、ずいぶん軽くなったのは事実だ。

そして、彼が最後にポツリと漏らした言葉が蘇る。

――まあ、本音を言えば、素の自分のままで、肩の力が拭ける相手と一緒にいるのが、一番ベストなんやろうけどな。


プライベートオフィスに戻った蓮は、淡々と手紙と写真を封筒へと戻す。

――素の自分のまま、肩の力が拭ける相手か。

ふいにあの美丈夫なアメリカ人の顔がチラリと脳裏に過るが、それを大仰に頭を振って脳内から追い出す。なぜならそれは、半月後に考えればいい事だからだ。

アメリカ支社への転勤まで、残り半月。


――今は自分の出来ることをしよう。


色々と世話をやいてくれた庄司が、初のプロジェクトリーダーとなって手掛けることになった、イン・インでの合併話のキックオフミーティングは三日後だ。

調査チームが集めた各方面での調査結果や、財務状況の報告書はひと通り目を通したが、蓮には、どちらの会社も肝心な部分を誤魔化し、隠しているように思えてならない。

双方とも国内企業といえど、世界的に展開する企業どうしのM&Aだ。色々と感情的な方向性に向かわないよう、裏情報も含めた事前のデータ収集は重要なファクターとなる。

そのプレゼンテーションの場で、庄司がそのディールに王手をかけるプランを示せるよう、黒羽蓮はデスクの引き出しから愛用するノートパソコンを取り出す。

そして、世界中に散らばる友人ハッカー達へと、メッセージを打ち込み始めた。

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