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世話になった老夫婦は、パリのカフェで、カプチーノを買う為にカウンターの前に並んでいたらしい。

その時、通りから複数のテロリストたちが、カフェや花屋に集う人達を目がけてマシンガンを乱射した。その後は店内に入り込み、隠れていた客や店員を一人ひとり、確実に死に至らしめるように銃撃していった。

老夫婦は、まるで妻を守るかのように夫が上に覆いかぶさったまま、ふたり一緒に撃たれて亡くなったと、葬儀の時に彼らの実の息子が泣きながら話してくれた。


――まるで、今の自分と彼のように。


思わず目の前の上質なジャケットに、西欧人に比べて小振りな手でしがみつけば、抱え込むように頭の後ろに回された大きな手は、蓮の頭を広い肩に押しつけるように力が籠る。

きっと老夫婦も、こんなありえない非日常の状況に、暴力的な死への恐怖を味わったのだろうと想像して、緑色の目には無意識にじわりと涙が浮かんでくる。

「――この程度で泣くな、馬鹿」

「すみません。昔、世話になった人が銃の乱射事件で殺されてしまって、……きっと、今のオレと同じように、すごく怖かったのかと思って」

ディーンは顔を上げ、至近距離から涙で潤む緑色の瞳を覗き込む。そして諭すように言葉をかけた。

「勝手に心中する気になるな。こんな極東の古都で、大人しく二人で殺られるつもりはない。――いらない心配をするな」


そして、僅かに上半身を離すと、胸元から黒光りするハンドガンを取り出した。

法規制で日本では目にすることのない代物に、涙を湛えた緑色の瞳は大きく見開かれ、思わずジャケットを握る手に力が籠る。その高めのテノールの声には、決死の想いが込められていた。

「ダメだよ、ディーン! 相手はマシンガンみたいだし、それをハンドガン一丁で立ち向かうなんて、絶対に敵う訳ない。そんなの自殺行為だ。絶対に死んでしまう……」

だが、言葉もぞんざいになるくらいの真剣な説得に、紫の瞳を少しだけ驚いたように見開き、ディーンは口角を上げた。

表情には、不敵な笑みが浮かんでいる。

「まあ、黙って見ていろ。俺を誰だと思っている? 余計な心配はいらないし、別に独りで応戦するわけじゃない」

そして、続く響きのいいバリトンボイスの言葉は、有無を言わさない命令だ。

「いいか、お前は頭を絶対に上げるな」


言い切った途端、ディーンは潔く蓮の身体から離れると、ガラスが散乱する畳を低姿勢で移動する。

その間も、頭上を何発もの弾が、雨あられのように高速で打ち込まれ続ける。

砂壁が銃弾により僅かな煙を吐き出し、その球数の多さから室内は靄がかかったようにソフトフォーカスされる。

その中で、窓際に辿りついたディーンは壁を盾に立ち上がった。

銃声は断続的に続き、銃撃音が次第に大きくなってきていることから、敵は確実に近づいてきている。

ディーンは慣れた手つきで銃の安全装置を外すと、ハンドガンを目の位置にまで掲げた。

「そこにいるな、スチュアート! この状況で、ジャクソンに何分くれてやればいい?」

「おそらく、3分もあれば奴なら何とかすると思われます。それに、ミラーも間もなく到着すると、奴が言っていました」

襖の向こうから返ってきた腹心の部下からの回答に、ディーンは満足そうに二ヤリと口角を上げ、銃撃の合間に竹林に向けて銃を撃つ。


しばらくの撃ち合いの末、時折、竹林の奥から短い悲鳴が混じるようになり、ディーンの反撃はそれなりに有効なのか、竹林からの銃声はそれ以上、距離を縮めてはこない。

もっとも、室内の壁には未だ風穴があけられ続けられている。

しばらくして、ガラスを無くした羽目殺しの窓の外からは、さらに複数の激しいマシンガンの連射音が断続的に鳴り響くようになり、それと同時に室内への攻撃がパッタリと止んだ。

「……諦めたんでしょうか?」

そろりと頭を上げれば、ディーンは緩く首を振り、答えたその声には言いつけを破ったことへの非難の色が滲んでいる。

「まだ完全に制圧してはいない。言われた通りに、坊やはもうしばらくそこで震えていろ。あと少しの我慢だ」

すっかりガラスが無くなった窓から、湿度の高い熱風が室内に入り込み、じわりと蓮の額に汗が滲む。

この状況が永遠に続くと思えるくらいに、時間の感覚が麻痺し始めてきた頃。

唐突に、銃声が止んだ。


竹林には、待ち望んだ静寂が戻って来た。

すぐにスマホの振動音が聞こえ、ディーンが内ポケットから端末を取り出す。

しばらく無言で相手の話を聞いているが、チッと舌打ちをした後、唸るバリトンボイスが響いた。

「空港に網を張って、絶対に捕まえろ。それと、ミラーを待機させておけ。俺を怒らせたらどうなるか、思い知らせてやる」


その凄みの効いた声と言葉に、ようやく蓮はそろりと身を起こした。

と、今度は蓮のスマホが振動を始める。

慌てて尻ポケットから取り出せば、それはイギリス本社からのホットラインだ。

通話ボタンに触れた瞬間、本社海外事業統括部長の懐かしいガラガラ声が鼓膜に響く。

「お前、今どこにいる? 姿が消えたと日本支社の支店長が怒りまくっているぞ!」

「こっちも今、とんでもない状況だったんです! それで、わざわざ文句を言うために電話をかけてきたんじゃないですよね」

その怒声に、蓮もまた声を張り上げる。

日本支社には、取引の妨げになることもあるためと理由づけして、連絡はメールを使うように申し渡してある。あいまいな会話での英語より、文章で状況や意思を伝えあう方が支社の日本人達は得意だ。

それを律儀に守り、わざわざ本社を経由して連絡を寄越したのだろう。

だがそれは、イコール緊急かつ重大な案件であることを物語っている。

生え抜きの統括部長も、そのことは十分了解しているようだ。激高した声のトーンは、すぐさまクールダウンして深刻なものとなる。

「黄金株の女帝が襲われた。とりあえずまだ息はあるが、亡くなったら黄金株は息子の直正に相続されて、ウチの優先交渉権が相手に移ってしまうぞ。どうするつもりだ、坊主?」

一瞬、息を飲み、ディーンの言葉を思い出す。


――次に逆恨みされるとすれば、社長の直正は当然として、元会長の近江幸恵と、もともとの取引を潰した黒羽蓮、お前だ。だから言っている。死にたくなければ、お前はこの件から手を引け。


蓮は、ひとつ大きく息を吸う。

彼の警告は、真実だった。

その上で、金の力を使ってでも蓮を諦めさせようとしたのは、おそらく利己的な利益主義だけでの考えだけではないのだろう。

黒羽蓮の、エメラルドグリーンの光彩が深みを増した。

表情も、ディールを仕掛ける時のように俄かに引き締まる。

チラリと金髪の男を見れば、銃とスマホを胸元に収め、雰囲気が変わったらしい自分の様子を伺っていた。

――プレゼンしてる時の黒羽くんって、普段と別人28号すぎて、ちょっとリアクションに困りましたわ。

年上の部下に苦笑いされたのは、初めて夢の屋グループの再建プランを、日本支社の上司達にプレゼンテーションした後だ。

自分では意識したことはないが、過去、本社でも同じような言葉を言われたことがある。だから、おそらく今もそうなのだろう。

だが、今はそんな些細なことに構っている暇はない。

「まだ手はあります。でもその前に確認したいことがあるので、後ですぐにかけ直します。日本支社には、幸恵さんが収容された病院を調べるように、指示を出しておいて下さい」


そして、手早く通話を切ると、長身の男に向き直る。

「近江幸恵さんが襲われたそうです。容体は不明ですが、もしも亡くなった場合は、交渉権はそちらのファンドに移ります」

そして、臆することなく、まっすぐにバイオレットの瞳を見つめた。

「貴方はまだ、オレにディールを降りろと要求しますか? ミスターコールド」

その真剣な問いかけに、ディーンはひとつ深く息を吐いた。

「――ところが、実はこちらの事情も変わった、黒羽蓮」

その一言に、途端に蓮は眉をひそめる。

「直正のサインが入った株式売買契約書を持ったまま、フォックスのファンドマネージャーが姿をくらました。だから、邪魔な存在となった女帝が襲われたんだろう」


今度は、ディーンの纏う雰囲気が変わった。

紫の瞳には、冷酷な光が瞬く。

「どうやら別の出資者が積んだ金の方が、取り分がデカかったらしい。さっきの襲撃は、俺からの今後の報復を恐れ、先手を打ってお前もろとも俺を消す算段だったんだろう。だが、今の襲撃はジャパニーズマフィアの手口ではない。つまりは別の黒幕がいる。そして、おそらくそいつがファンドマネージャーを買収した奴だ」

そして、少しだけ雰囲気を和らげて蓮に向き直り、大仰に肩をすくめてみせる。

「お前との敵対関係はもうない。無論、出し抜いた奴らに落とし前はつけさせるが、このM&Aに関しては、今の俺は手の出し様がない。――従って、先ほどのお前への提案は、悪いがキャンセルさせてもらう」

口調は軽いが、その瞳は全然笑っていなかった。


滲み出る殺気に当てられ、思わず背筋に走った悪寒に身を竦めつつ、蓮は金髪の男へと真摯な光を湛える緑色の瞳を向けた。

「ディールは、まだクロージングしていませんよ。コールドさん」

視線を固定したまま、蓮はディーンへと右手を差し出した。

唐突な蓮の言葉と動作に、「訳が分からないな」とディーンは眉をしかめてみせ、そのもっともな反応に、彼に対して発言の説明が必要だと察する。

確かに、百八十度の方向転換には、言葉が足りない。

「オレから、新たな提案をさせて下さい。ミスターコールド」

そして、視線は相手の瞳に固定したまま、一歩、ディーンへと歩み寄る。

一方、紫の瞳は、真っ向から蓮の真剣な眼差しを受け止めた。

その前向きなスタンスに勇気をもらい、ディールの正念場であるプランの提示に踏み切る。


「絶対に、貴方に損はさせません。ですから、貴方がオレのホワイトナイトになって下さい。オレは、こんな乱暴なやり口で負けるのは嫌だし、本心から夢の屋を救いたいんです。貴方がホワイトナイトになってくれるなら、確実にこのディールは獲れます!」


――ホワイトナイト

通常は、敵対的買収を仕掛けられた会社を、買収者に対抗して、友好的に買収または合併する会社のことを意味し、“白馬の騎士”のような正義の味方的な意味合いでこのように呼ばれる。

だが、ホワイトナイトは、主として買収をしかけられた会社よりも規模が大きく、資金力がないと務まらない。そして現在、目の前に立つ男は、その役を担うに申し分ない。

おそらく蓮を待たせていた間に、このドル建てであの大金を用意していたのだ。

あの僅かな時間に、この日本でそれが出来てしまう財力が、目の前の男にはある。


蓮の頭の中には、即席ではあるが双方にとって損のない、完璧なプランが浮かんでいた。

だがそれは、ディーンが契約していたファンドマネージャーから裏切られたという、新たな事情から思いついたのではない。

幸恵襲撃の情報を聞いた直後。

本社海外事業統括部長に「まだ手はある」と言った時には、直感的に浮かんでいたプランだ。


――この金髪の実業家の買収に成功すれば、相手ファンドが優先交渉権を得たとしても、相手ファンドのディールは存続しなくなる。


唐突な蓮からの申し出に、さすがに眉をひそめた男に、にっこりと余裕の笑みを向けながら、さらにもう一手を仕掛ける。

「それに、もしもオレに協力してくれるなら、今すぐお探しの黒幕の正体を調べてあげますよ。何をどう報復するかはあえて聞きませんが、貴方が今一番欲しい情報ですよね?」


沈黙が、ふたりの間に漂う。

そして、次に口を開いたのは金髪の実業家だった。


「――これは、お前と俺、ふたりの間でのビジネスなのか? つまり、俺がお前のディールに協力する代わりに、お前は俺に盾ついた者の情報を提供する」

紫の光彩が、一段と色を深めた。

「――お前、俺を買収するつもりか?」

「単なる買収ではありません。あくまでもWinwinの立場での、ふたりの間でのビジネスです。何より貴方は、当初狙っていた高級旅館も手に入れられます。――ミスターコールド、貴方には何も損はないでしょう?」

勝利を確信する光が満ちた緑の光彩に、少し不満そうにディーンは眉をしかめる。

「美味い話すぎて笑えるが、ひとつ条件がある。対等な関係と言うなら、他人行儀な呼び方はこれ以上やめろ。俺を呼ぶ時は、ファーストネームで呼べ」


はあ? と方向違いの要求に首を傾げるが、今は、そんな些細な事を議論している時間も惜しい。

「わかりました、ディーン。なら、オレの事も、蓮と呼んで下さい」

蓮の回答に満足そうな笑みを浮かべたディーンは、ようやく差し出された蓮の手を力強く握った。

「いいだろう、蓮。俺が、お前のナイトになってやる。――それで? 具体的に何をして欲しいのか言ってみろ。お前の望みは、この俺が全て叶えてやる」

その頼もしい言葉に、蓮もまた強気の笑みを浮かべた。


「事が動く前に、クラウン・ジュエルを仕掛けます。それと、ノートパソコンを用意してもらうのと、裏切ったファンドマネージャーのメルアドを教えてください。――Time is Money. 車の中で決着をつけます」

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