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「とっくに俺のことを、知っているかもしれませんが、黒羽と申します。先ほどは危ないところを助けて頂き、ありがとうございました」
黒羽蓮は深々と一礼して、見下ろしてくるバイオレットの冷静な瞳に、にっこりと笑いかけた。
決して警戒していない訳ではないが、危険な場面を救ってもらった恩人に礼を尽くすのは当然のことだ。
「よろしければ、貴方のお名前を伺いたいのですが?」
蓮の問いかけにひとつ頷くと、バイオレットの瞳に小さな輝きが灯る。
「コールドだ。ディーン R コールド。イギリス育ちなら、イントネーションや言い回しで気付いていると思うが、アメリカで事業をしている」
そして、「失礼、正座というものが出来ないのでね」と、失礼という文言とは程遠い堂々とした身のこなしで、蓮の正面に片膝を立てて座った。
また、蓮も「実はオレもです」と苦笑いを浮かべて足を崩す。
「若いのに事業を立ち上げていらっしゃるなんて、すごいですね。ちなみに、どのようなジャンルのお仕事をなさっているんですか?」
とりあえずのフレンドリーな雰囲気に内心ホッと胸を撫で下ろしつつ、社交辞令に紛れ込ませて探りを入れてみる。
「――ベースはホテル経営だ。アメリカ国内やヨーロッパなどの先進主要国に系列として、いくつか展開している。加えて、旅を企画してプロデュースするトリップアドバイザー業も含めた、グループのオーナー業だ」
その答えに、蓮の緑の瞳に動揺が走る。
もっとも、その心の揺れは、通常は誰にも気づかれない程度なのだが、目の前の男の紫の瞳は、その反応を楽しむかのようにほくそ笑んだ気がした。
「それだけで気付いたのは、さすがケンブリッジ主席卒といったところか。なら、まどろっこしい遠回りは止めにして、ここからは単刀直入のビジネスライクで話すことにしよう」
ディーンの顔つきが変わった途端、左右の男たちは抱えていたジェラルミンケースを開け放つと、中身が見えるように蓮に向けて突き出した。
「夢の屋のディールから、直ちに手を引け。――黒羽蓮」
百ドル札がぎっしり詰まった二つのケースに、大きく目を見開いた蓮に向かい、さらに畳みかける。
「三百万ドルある。――アレはもともと俺の獲物だ。それを横から掻っ攫った奴に手土産まで付けてやる気はなかったが、正直、お前の手腕は見事だった。高い授業料にはなったが、お前への敬意も含めて、くれてやる」
金髪の実業家の言葉を聞いた瞬間、今度は蓮の表情が一変する。
正念場を直感したM&Aディールの若き天才は、グリーンの光彩に勝負師の光を輝かせた。
金髪美丈夫の横柄なもの言いに、「金持ちはこれだから……」と日本語で呟くと、蓮は高ぶる想いを鎮めるようにひとつ深く息を吐き、真摯な瞳を向ける。
「せっかくの申し出ですが、この取引には応じられません、ミスターコールド。オレはただの雇われ人ですし、オレひとりが手を引いたところで、ディールの担当者が変わるだけです。それに、勝ち試合をドローにするほど、オレは馬鹿じゃありませんよ」
無礼を承知で吐いた挑発に、すかさず「貴様ッ」と身構えたマッチョな銀髪の黒人の迫力に気おされ、さすがの蓮も一瞬腰を浮かせるが、すぐにストンと腰を下ろす。
なぜなら、銀髪男の勢いを、金髪の男は左腕を突き出しただけで止めたからだ。
左腕をゆっくりと膝の上に戻し、「いいか、よく聞け」と前置きして、ディーンは冷静な眼差しを蓮へと向けた。
蓮の雰囲気の変化に、対等にビジネスの話が出来ると思ったらしい。
声のトーンはあくまでも穏やかだ。
「ある筋から、夢の屋グループの経営破綻の噂を耳にしてね。アジア圏への事業拡大を模索していた最中だったから、ちょうど良い足かがりとして利用できるように、知り合いのファンドマネージャーを使って動いていたんだ。それを、どこぞの坊やに途中から首を突っ込まれた挙句、横取りされるなど、黙って見過ごす訳にはいかないだろう?」
「それは、貴方もオレを恨んでいるってことですか?」
グリーンの瞳に緊張が走る。だが、その光彩には、依然として強い意志の光が輝き続ける。
「でもオレは引きませんよ。夢の屋グループを護ることが出来ると知った時に、近江さんが仰っていました。ずっと事業拡大なんてつもりはなく、ただの人助けのつもりで動いていた。気付けば、いつの間にか大きくなっていた夢の屋グループだったけど、最後をこんな裏切るような形では終わらせたくないと。――オレも同じ気持ちです。オレのしたことで、たとえ誰かひとりに恨まれたとしても、それ以上に救われる人達がいるのなら、オレは微力でもその人達に手を差し伸べたいです」
そして、まっすぐに正面に座る男の顔を見据えた。
「だからオレは、貴方の買収に応じるつもりはありません。――ミスターコールド」
――謹んでお断りします。
真摯に頭を下げた頑なな青年の主張に、「若いな」と一言呟いた金髪の実業家は、ひとつ呆れのため息をついた。
だが、その態度はどこまでも冷静だ。
「交渉決裂は結構だが、そうはいっても、この案件はお前の手に負えない局面に入っているぞ、黒羽蓮? お前には、その現状の認識はあるのか?」
そして、膝に置いた右手に頬杖をついて続けた。
「さっきの連中が何なのか、お前は知っているのか?」
その問いに、蓮ははひとつ頷く。
一瞬、遺影の中の加奈子の顔が脳裏を過り、蓮の心中に動揺が走る。
そんな心の揺れを見透かそうとする紫の瞳を避けるように視線を反らすが、それでも若干声が震えるのは許して欲しい。
「亡くなった近江加奈子の夫が雇った、裏の世界の人達だと思います。社長以外で、京都でオレを恨む人間の心当たりは、そのくらいですから」
だが、少しの沈黙の後、金髪の頭が緩やかに横に振られた。
「その様子なら、加奈子の死因は表向きの理由での病死。もしくは噂されている自殺程度に思っているんだろう? ――だが、それはどちらも違う」
そして、唐突に爆弾を投下した。
「近江加奈子は見せしめとして殺された。もっともその警告は、社長の近江直正しか知らない事実だ」
思わぬ言葉に、蓮は反らしたままの目を見開いた。
そして反射的に、顔は正面へと向けられる。
「ですが、焼香の場で、社長はオレに対して相当いきり立っていました。だから、オレが計画した再建策で奥様が亡くなったからだと思っていましたが……」
そして、ふいに先ほどの殺されたという物騒な台詞を思い出し、思わず身を竦める。
そんな、蓮の素人めいた反応に、ディーンは深いため息をついた。
「それは、遠まわしに考えれば正解かもしれない。お前が横槍を入れずに、直正と俺とのビジネスが成功していれば、加奈子は殺されずに済んだし、直正も付け狙われる事は無かったからな。だが……」
そして、左右に居る部下に僅かに顎を動かして合図を送れば、二人は無言で一礼して部屋を出ていく。
音もなく襖が閉じられ、個室には蓮とディーンのふたりきりとなった。
ディーンは立ち上がると、ゆっくりと竹林に面した大窓へと向かう。
「あのビジネスホテルチェーンの持っていたホテルのいくつかは、加奈子の祖父の代から、コリアンマフィアとジャパンマフィア、……日本ではヤクザと呼ぶのか? とにかく、奴らが売買する密売品の取引場所だった。そして今は、近江直正がその場を提供している」
窓際に佇む長身を見上げていた緑の光彩が、驚きで見開かれた。
蓮は思わず身を乗り出していた。
わざわざ、そんな最悪の不良債権を買おうとしていた、目の前の男の意図が理解できない。
「貴方は、危険なリスクを承知で買収をしかけたんですか? けれど、もしも買収が成功していたら、貴方はマフィアとやりあうことになる……」
そこまで言いかけてハッと言葉を止めたのは、ようやく働き始めた脳が、ある可能性を導き出したからだ。
「まさか、夢の屋グループを、負債ごとバルクセールまがいに強引に買収しようとしたのは、ビジネスホテルグループだけを切り離して、日本か韓国のマフィアに叩き売るつもりだったんですか? そして、利益を生む優良な事業は自分の手元に残る。普通なら絶対に手を出したくない裏社会絡みの物件も、貴方には高く買い取ってくれる相手がいる……」
それは質問ではない。断定するもの言いだ。
バルクセールとは、銀行などが抱える手に負えない不良債権と、正規でも通用する担保としての価値がある不動産を、セットにしてまとめてファンドなどに売却することをいう。
だが、目の前の男にとっては、夢の屋グループのお荷物は不良債権などではないのだ。
「さすがに話が早いな」と面白がるディーンの言葉に、蓮は毅然とした顔を向けた。
「ですが、ひとつ質問があります」
その声は固い。
「ならば、どうして加奈子さんは殺されたんです? 確かにオレのプランではマフィアの取引場所は無くなってしまいますが、それだけで、見せしめや警告として殺人など……」
「お前は、本当に経済の事くらいしか頭が働かないようだな」と連の言葉を遮って呆れつつ、今度はディーンが真摯な光を湛えた紫の瞳を、蓮へと向けた。
「震災以後、銀行はメインバンクも含めて、返済の見込みが薄い夢の屋グループへの大口融資を貸し渋っていた。一方で赤字計上でも、借金は返し続けなければならない。そんな、公的に信用を失った相手に金を貸すのは、どんな奴らだと思う?」
「……マフィア、ですか?」という呟き声ほどの弱々しい回答にディーンはひとつ頷くが、その反応に蓮は噛みついた。
「ですが、今に至るまで夢の屋に金を貸していたのは、メインバンクの四季銀行でした。借入記録もちゃんと確認済みです」
「だから、銀行はただの隠れ蓑だ。表向きは四季銀行から借りたことにして、実際に金を貸していたのはジャパンマフィアだ。四季銀行は、昔から裏のビジネスと関りは深い。だから、ビジネスホテルチェーンのメインバンクが、直正の代になってから夢の屋グループのメインバンクになったんだろう」
蓮は、自分が見逃がしていた情報に愕然とする。
四季銀行は、日本で全国展開する日本有数の大手銀行だ。
歴史も古く、日本国内での世間的な信用度も高い。世界展開する一流企業との取引も多くある。
だからこそ、疑うことをしなかった。
だが、それは致命的なミスだ。
「お前は、グループのビジネスホテルを取り壊して、土地を売って借金の返済に充てるように試算しただろう? だが、銀行に借りるより、はるかに利子のデカくなる闇の金だ。売り払ったところで、半分すら返済は出来ないだろうな」
そして、紫の瞳に凄みが加わった。
「――金は回収出来ない。加えて取引場所もなくなる。そして、その手の奴らの下手を打った人間への制裁は、昔から決まっている」
蓮は言葉を無くしていた。
そんな呆然自失状態の蓮に、追い打ちをかけるようにディーンは畳みかける。
その顔つきは、真剣だ。
「そして、次に逆恨みされるとすれば、社長の直正は当然として、元会長の近江幸恵と、もともとの取引を潰した黒羽蓮、お前だ。だから言っている。――死にたくなければ、お前はこの件から手を引け」
捲し立てるように言い終わった途端、ディーンはチッとひとつ舌打ちをした。
――Dodge!
避けろというスラングに蓮が息を飲んだ瞬間、ディーンは蓮に飛びかかった。
そのまま覆いかぶさるように、蓮を畳に組み敷く。
「何を!」と文句を言いかけた瞬間、ガラスが派手に割れる音と、一定のリズムで連続する銃声が、蓮の聴覚を占領した。
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