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黒羽蓮が、夢の屋グループの経営破綻を知ったのは、偶然だ。

日本に移住した報告をしていた最中に、『日本といえば……』という切り出しから始まった、アメリカ在住のネット仲間から漏れた噂話がきっかけだった。


――アメリカのディストレスト・ファンドが、日本の会社にM&Aをしかけようとしている。


すぐさま、そのディストレスト・ファンドのコンピューターにハッキングをしかけ、対象となっているのが夢の屋グループだと知った。

そこからの行動は早かった。

直ちに、夢の屋グループの財務状況や資産、経営陣についての資料を集め、再生計画の基本コンセプトをイギリス本社にメールで送る。

かつて、イギリス王室のプリンスも訪日の際に宿泊したという、夢の屋という老舗旅館の名はイギリスでも有名だ。また、「おもてなし」という考え方を体現しているということで、イギリス老舗ホテルグループのオーナーが、直接教授に出向いたという逸話も知っていた。

そして、幼少の頃の数少ない思い出のひとつの、黒羽園の住職が新聞を読みながら呟いていた光景が甦る。

――夢の屋旅館か。高嶺の花だろうが、死ぬまでに一度は泊まってみたいなあ。

絶対に本社が乗ってくることを確信し、次の行動に備えた。


蓮は直感していた。

――このディールは、時間との闘いだ。



夢の屋旅館は、京都で三百年以上前から続いている、日本屈指の高級旅館だ。

伝統を踏襲し、ひたすら「おもてなし」精神を貫いて接客していた格式ある老舗旅館が、そのビジネスの方向性を転換させたのは、約二十数年前。

前社長の近江幸恵は、交流のあった奈良の老舗旅館の経営破たんを救い、以後、業務提携したことをきっかけに、全国にある経営の苦しい老舗旅館を次々とグループ傘下に取り込み、全国にまたがる一大高級旅館グループを創り上げた。

そこでは、「おもてなし」の精神を守りつつ、それぞれの旅館の個性を生かし、最高の居住空間とサービスを提供する。

その為に、館内無料LANなど現代社会で必要な設備を整備し、二十四時間対応するフロントシステムと、ホテル的な要素を定着させるなど、まずは設備面を充実させた。


一方で、ひとつひとつの旅館の売りを前面に打ち出して強化する。大浴場や個室風呂、料理、景観など、それぞれの旅館の持つ強みのクオリティを上げる事を徹底した。

だが、客一人ひとりの背景を察し、心情的にも寄り添い、痒いところに手が届くサービス。

それまでの夢の屋旅館が踏襲してきた「おもてなし」の精神性は絶対に曲げない。

おかげで、それぞれの旅館も経営を立て直し、グループの経営も順調で、夢の屋グループはこの先の未来も安泰と思われた。


だが、陰りが見えたのは、近江幸恵が会長職を退き、息子の直正が夢の屋旅館の社長に就任してからだ。現会長は奈良の旅館の社長が兼任しているが、グループの実権は、後を継いだ夢の屋旅館の社長が握っている。

世代交代した夢の屋旅館社長の近江直正は、就任直後、全国的に展開していたビジネスホテルグループの会長の娘と再婚し、夢の屋グループの資産を担保に莫大な借金をして、破綻しかけていたビジネスホテルグループの立て直しに乗り出した。

高級旅館という敷居が高い宿泊施設だけではなく、安価で泊まれるビジネスホテルにも、「おもてなし」精神を定着させたい。そうすれば、業績が下がる一方の老舗ビジネスホテルチェーンも再生できる。

当初は、崇高な志を胸に抱いて、妻の実家が営んできた事業の再生に乗り出した。

次々に、全国に無数に散らばるグループの老朽化したホテルを改築、もしくは改修を行う状況下で、自転車操業のように、本業で稼いだ金を業績の悪いビジネスホテル経営に注ぎ込んでいった。


だが、次第に無理が祟ってくる。

本来、老舗旅館ならではの最大限の「おもてなし」を発揮してのサービスは、そこで働く人間のモチベーションや、一流としてのプライドという、精神性が土台にある。そして、それぞれの持ち場で遺憾なく力を発揮出来る、プロフェッショナルな人間の数が重要なファクターになってくるのだ。

老舗旅館は、衣食住。

全ての役割が分担され、それぞれの部署のプロによって支えられていた。


だが、地方の老朽化したビジネスホテルに勤める人間に、そのモチベーションやプライドなどといった精神性は必要悪だ。あるのは、日々の生活を保つために働き、金を稼ぐという理由のみ。

まして、ただでさえ少ない人数で回すことでコスト削減を図っているのだ。

部屋の清掃から、翌朝の簡易な食事作り。フロント業と、客からのクレーム対応に加えて、設備投資で新たに出来た大浴場の衛生管理。

圧倒的に人員が足りない中、「おもてなし」などという精神性を持ちこまれた事により、ビジネスホテルマンひとりひとりの従業員に課せられる仕事は、さらに多様で膨大となった。

次第に、強制されて課せられたいくつもの仕事に、疲弊した従業員達は次々と自己都合で退職していった。

宿泊ビジネスを続けるために、マンパワーは絶対条件だ。

欠けた従業員の穴を埋めるべく、直正は、管理職の従業員が足りないホテルには、各地域に散らばる夢の屋グループの老舗旅館から古参の従業員を出向させ、現場の責任者として充てた。

そして、実質部隊として現場で働く従業員は、コストの高い派遣会社を利用した。


だが、業績は下降の一途を辿った。

理由は簡単だ。

高いマージンをとられる派遣社員を雇用するが故、人件費は直正が再建に乗り出す以前よりもはるかに増額した。

加えて、料金体系は頑ななまでに変えない社長の意地は最悪だ。。

だが、老舗旅館から遣わされた古参の従業員たちは、純粋に己の責めを負うはずもない理由で、己を責めた。業績を上げられず、管理職としての責任感から、最後は己の不甲斐なさに打ちひしがれたまま、辞めていった。

直正が目指した理想は、次の手を打てば打つほど経営状況は赤字となり、理想と現実は解離していった。それでも、その悪循環を継続できたのは、本業からの金というバックアップがあったからだ。

だが、それすらも、天から見放される時が来た。


本業が破綻するきっかけとなったのは、三年前に九州から関西にかけて起こった大地震だ。

西日本を中心に観光業は大打撃を受け、その年、夢の屋グループは初めて決算を赤字計上した。

そこからは、借金返済のために金を借りるというさらなる悪循環に陥り、とうとう外資ファンドが代理人となり、表向きは業務提携、だが実質は傘下に入るというM&Aまで仕掛けられる事態となってしまった。


だが蓮は、夢の屋グループには、まだ再生の道は閉ざされていないと判断した。

だからこそ、本社からのゴーサインとともに、グループで唯一拒否権付きの株を保有する前会長のもとへと、単身乗り込んだ。

蓮の企業再生に向けた提案は、諸悪の根源であるビジネスホテル経営を切り捨てることだった。

幸い、県庁所在地の駅近くの中心地にホテルや駐車場はあり、土地を売るだけでも借金の返済は十分に出来る。黒字に持っていくには数年はかかるが、外資に売り飛ばすことなく本業を護れるだろう。

蓮の提案に、女帝と呼ばれた老女は、涙を流して頷いた。

そして、それまで主導していたアメリカのファンドを出し抜いて、優先交渉権を手に入れた。

だから、自分の抱える事情を知っている素振りから、あのアメリカ人はその関係者かもしれない。



蓮は、思考を止め、再び、ひとつため息をついた。

蓮の行ったことは、ハッキング以外は全て合法だ。誰にも後ろ指をさされる事はない。

また、切り捨てると決めた加奈子の実家の家業は、もともとヤクザと呼ばれるジャパニーズマフィアと何らかのつながりを持っていることも知っていた。

たとえ、別の方法でこの危機を乗り切ったところで、お荷物以外の何物でもない。

夢の屋グループを救うには、ビジネスホテル経営を諦める以外、道はない。

だからこそ、迷いなく女帝に進言した。

けれど、その為に現社長がこだわり続けたビジネスホテル経営は、終わりを告げる。

故人となった、近江加奈子の実家の事業は消えてなくなる。

そのことを悲観して自殺したなどと、陰で言われても仕方ない。

そして、その原因を作った自分が、夫である社長から恨まれても仕方ない。

一方で、間もなく消えてなくなる事業とつながりのあるらしい、暴力的な匂いのする連中に、つけ狙われても仕方ないのかもしれない。


加奈子との面識はなかったが、遺影の中の彼女の恨めしそうな瞳が、脳裏から離れない。



生まれてすぐに孤児院の前に捨てられ、姓は地名にちなんだ孤児院の名をもらい、名は孤児院を運営している寺の住職が、『蓮華の五徳のように生きろ』と願いを込めて名付けてくれた。

――この世に生を受けた直後は不遇かもしれないが、大往生の暁には極楽浄土への道が約束される。そんな徳を積みながら生きなさい。

不遇な生い立ちにも負けず、ひねくれずに割と真っ直ぐに育つことが出来たのは、この名があったからだ。名前の意味を知った後は、乳飲み子のうちに親から捨てられた不幸が、人生最大の不幸だったと思うようになった。

蓮は、多くの他人に助けられ、愛されて育ってきたと自負している。決して、自分を世間一般的に言われる、可哀そうな境遇だとは思ったことはない。

なぜなら、孤児院の人たちは、蓮に十分すぎるほどの愛情を注いで育ててくれた。

寂しい時には話を聞き、間違ったことをすれば本気で叱り、そして良い事をした時は十二分に誉めてくれた。

ただ、日本人にはないこの緑の瞳のおかげで、小学校に入学してからは、多少は同級生たちから暴言を吐かれることもあったが、それと同じくらい、本気でその相手に憤りを感じ、助けてくれる友達もいた。


転機が訪れたのは、小学校二年の冬だ。

慰問と称して孤児院を訪れたアメリカ人の老夫婦が、蓮の境遇を知り、慈善活動の一環として援助してくれることになった。

以後は、寄宿型のイギリスの学校に通わせてもらい、成績優秀なことを喜んでくれる老夫婦の為に、恩を返そうとひたすら学業に打ち込んだ。

――早く独り立ちすれば、その分、老夫婦の負担は減る。

努力の甲斐あって、大学を十八歳で卒業し、独り立ちすることが出来たのだ。

その老夫婦も、なんとか就職した蓮が、これからどうやって恩返しをしようと考えていた矢先に、銃の乱射事件に巻き込まれてパリで命を落としてしまった。

以後は、老夫婦から教えられた、『敵は己自身』『幸せを諦めてはいけない』という言葉をモットーに、五徳を願う名前に恥じないよう、今はもう返せない恩を、別の誰かの為に向けながら生きてきた。


だが、夢の屋グループの為に良かれと思って手を出したが故に、近江加奈子を死に向かわせたのかもしれない。

涙を流して感謝の言葉を口にした幸恵の皺に囲まれた目と、遺影の中の無機質な感情のない加奈子の目が、並んで自分を見つめるイメージが、蓮を混乱させる。


――他人の心は、難しい。


蓮が膝に顔を埋めて思わず小さく嗚咽を漏らしたとき、数名の足音が近づいてくる気配がした。

すぐに襖が無遠慮に開け放たれ、そこには長身の三人のアメリカ人達が並び立つ。

顔を上げた蓮を少し驚いたような顔つきで、無遠慮に見下ろすのは先ほどの金髪の男だ。

珍しいバイオレットの瞳が、一瞬で色味を深めた気がした。

「――まさか、奴らに追われたのが怖くて、泣いていたのか?」

黄金の眉を僅かにしかめた美丈夫に、蓮は微かに湿り気を帯びたグリーンの瞳を瞬かせ、そして緩く首を横に振った。

「違います。少しウトウトしてしまって。――何でもありません」

気持ちを切り替えるように、一度深く息を吐き出す。

そして、表情を改め、正座へと居ずまいを正した。


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