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極東アジア。日本の千年都市、京都。


酷暑と呼ばれたこの年。

八月の殺人的な気温と日差しを、オアシスの如く遮る木々の黒々とした影が点在する、歴史古き寺の境内。

だが、日陰に入ってもうだるような暑さの中、その光景だけで1℃は体感温度が上がりそうな喪服姿の老若男女が、社に向けて長蛇の列を作っている。

線香の煙が立ち込め、複数のテノールが重なる読経の声を邪魔するように、どこに居るのか煩いくらいに生を謳歌する蝉の声が鳴き続ける。

どこまでいっても、暑苦しい光景だった。


黒羽蓮は、ようやく列の最前に立ち、祭壇の中央に掲げられた遺影を見つめる。

年の頃は五十代くらいの神経質そうな細身の女性が、ニコリとした笑みもなく無表情に写っていた。

まずは遺影へと一礼し、顔を上げれば親族席の最前列に座る年老いた女性と目が合う。

親族席に向けて恭しく一礼するものの、女性の隣に座っていた白髪交じりの六十代ほどの男が突然立ち上がり、何かを言いかけた。礼服のジャケットに、喪主と記された白と水色のリボンでできたワッペンを着けた男の表情は、憤怒にまみれている。

だが、年老いた女性が無言で男の袖口を掴み、男は声をあげるのを辛うじて止めた。

黒羽蓮は、見ない振りを決め込むと、慣れない手つきで僅かの香をつまみ、目を閉じて冥福を念じた後、香炉の中に静かに落とす。

事前に係員から、時間短縮の為に焼香は一回にするよう言い渡されていたこともあり、そのまま合掌して故人の冥福を再度祈る。

そして、故人、親族、僧侶に向けて、深々と頭を下げた。


執り行われている葬儀の主人公の名は、近江加奈子。

現在、蓮が再建計画を手がけている夢の屋グループの社長夫人だ。

もともと持病があったらしいが、突然の病死ということで、参列中にもあちこちで密やかに自殺説が囁かれていた。突然、病院での点滴中に亡くなったとのことだが、親族の意向により検死も行わず、早々に荼毘に伏されたとのことで、本当の死因は判明していない。

医療ミスの可能性があるにも関わらず、親族が頑なに検死を拒否した背景から、加奈子を知る参列者たちの中には、自殺説などという世間体的に宜しくない噂が蔓延していた。もっとも、その理由を堂々と口外する不届き者はいない。


「まあ、さすがに焼香に来た連中がいる中で、怒鳴りつけはしないと思ったが、夢の屋の社長さん。相当怒っていましたな。もしも噂通りの自殺なら、後が恐ろしいですわ」

駐車場に向かう途中、傍らを歩く齢四十五となった会社の先輩である庄司太郎が小声で呟いた。

先輩といっても、彼は中途採用の為、入社時期はほぼ一緒。しかも、立場的には蓮の部下になる。

だが、気安い性格で、転勤直後の蓮の面倒を色々とみてくれたこともあり、会社ではパートナー的存在となっていた。もっとも、庄司からすれば、息子の面倒をみているような感覚らしく、時々人生相談を強要してくるところが玉に瑕なのだが。

くわばらくわばら、と肩をすくめた中年男に苦笑いを向けた時、その肩越しに道路に停車している黒いリムジンが目に入った。


葬儀に来た者でも待っているのか、ハザードランプがチカチカと点滅している。

ふいに庄司が、思い出したかのように目を見開いた。

「ああ、そういえば忘れていましたよ」

おもむろに、胸ポケットからスマホを取り出して操作しはじめる。

「ちょっと取引先に連絡入れてきますわ」

蓮の返事も待たず、そのまま何やら電話の先の相手と話し始め、その場から離れるように歩き出した。

その背を見送り、ひとつため息をつく。

その時、背後から唐突に声をかけられた。


「お前、ジェントリー・ハーツの黒羽蓮か?」

横柄なもの言いに、何やら嫌な予感を感じつつ振り返れば、そこには黒いスーツ姿の二人の男が立っている。黒いネクタイから、この男たちも葬儀の参列者なのだろう。

蓮が訝しむようにひとつ頷いた途端、二人は顔を見合わせ、そしてニタリと卑下した笑いを交わす。

その表情を見た瞬間、蓮の脳内で警報が鳴り響いた。


直感に従い、直ちに踵を返して駆け出す。

日本はイギリスよりも治安が良いとはいえ、危険な種類の人間が全くいないという訳ではない。

日本に転勤になった後、仕事の中で何人かそういう人種の男たちに会ったことがある。

そして、二人の男からは同じ匂いがした。

心当たりも、十分すぎるくらいある。

おそらくは、現在手掛けている仕事絡みで、蓮に恨みを抱いている連中だ。

全速力で駆け出したものの、すぐに息が上がるのは、炎天下の中で刺すくらいに痛い日差しと、重たく感じるほどの湿気交じりの空気。そしてインフルエンザの発熱時の体温に近い数値の、この気温のせいだ。

日本に赴任して早二ヶ月、週二回のジムに通わなくなったことも影響しているだろう。

だが、男たちは執拗に後を追ってくる。

しかもその距離は縮められているようだ。

喚く声はジリジリと近づいていた。闇の世界の男たちにしては、体力がある。

その現実に、蓮は酸欠になりかけた脳で打開策を考える。

もしかしたら、街中に入ってしまえば、人混みに紛れてなんとか撒けるかもしれない。

そんな希望的観測に縋るように、車道に向かって寺の敷地を抜けた途端、目の前にさっきの黒塗りのリムジンが、蓮の行く手を遮るように急停車した。


――ヤバい! 追ってくる奴らの仲間か!

慌てて反転して逆方向に駆け出そうとした途端、後部座席のドアが優雅に開いた。

そして、予想に反してそこから聞こえてきたのは、バリトンボイスの流暢なアメリカ英語だ。

「説明は後回しだ。痛い目に遭いたくなければ、乗れ」

一瞬迷ったものの、背後から「待て」と喚くダミ声に背中を押され、純白の革張りの後部座席に飛び込むように乗り込む。

同時に自動でドアは閉まり、リムジンが急発進した。


・・・・・

嵐山にある風流な料亭の個室に通され、分厚い座布団の上にちょこんと正座したまま、蓮はモダンな内装の和室をもの珍しそうに見回す。

羽目殺しの一面の大窓の外には、眩しく青々とした竹林が広がり、外の気温さえ知らなければ実に涼し気な光景だ。

また、床の間には滝から流れる清流が描かれた水墨画の掛け軸が掛けられ、その真下に置かれているのは、気泡交じりの金魚鉢。中では清水の中を黒と赤の金魚が、コントラスト鮮やかに気持ちよさそうに泳いでいる。

女中の探るような視線から、一見さんお断り的な店である雰囲気に戸惑う一方で、めったに出来ない経験に、心は自然と浮足立つ。

もっとも、どこの誰とも分からない外国人たちに連れてこられたのだ。この先、何が待ち受けているかという不安も大きい。

蓮は、心の葛藤を諫めるように、深くため息をついた。



リムジンの後部座席には、若い金髪の男がひとり座っていた。

モデルか役者と自己紹介されれば、有無を言わさず納得する、その端正な顔の造りにまずは目を見開く。そして、蓮とそんなに年齢は離れていないように見える割に、彼の纏う威厳ある雰囲気に驚いた。

この殺人的な暑さの京都に居て、金糸の髪をゆるやかに後方に流してセットし、かっちりとしたスリーピーススーツを、完璧なまでに着こなしている。

汗ひとつかかずに涼しげに座る外国人に、次々と頬を伝わる汗を手の甲とワイシャツの袖口で拭いつつ、ハアハアと息が上がる呼吸をなんとか収めて、まずは礼を言う。

だが、男は眉をしかめると、「話は後だ。まずは、その汗まみれの顔をなんとかしろ」と、強引にハンカチを渡してきた。

京都の暑さに負けて焼香後に早々に脱ぎ、腕に抱えていたはずの喪服のジャケットは、逃走中にいつの間にか抱える腕から消えていた。蓮のハンカチは、そのポケットに収まっているはずだ。


礼儀上、まさか突き返すわけにもいかず、そのまま受け取ったハンカチで額や首筋の汗を拭う。

汗でペタリと張り付いてくる色味を濃くしたワイシャツが、車内のクーラーで冷たさを感じるくらい、蓮の身体は火照っていた。

真夏の京都を全力疾走して湧き出る汗は、拭きとるものの次から次へと湯水のように湧きだしてくる。

そんなよれきった蓮の様子を、黙ったままサングラス越しに眺めていた男は、リムジンの片隅に備え付けられている小ぶりな冷蔵庫からペットボトルを取り出し、蓮に向けて放る。

そして、「この後、少し付き合ってもらうぞ」と一言だけ呼びかけ、そのまま手にしていた書類に視線を落としてしまった。

それきり、彼の邪魔になることを避けたが故に、今に至るまで話しかける機会を失っている。

仕方なしに、気まずそうに冷えたミネラルウォーターで乾いた喉を潤しつつ、素肌に纏わりつく濡れたシャツの不快な感覚を気にしながら、額に浮かぶ汗を拭い続ける作業に専念するしかなかった。


料亭に着くなり、蓮だけが手入れの行き届いた和風庭園の先にある離れの個室に通され、女中から着替え用にと、ひんやりと冷たい濡れタオルとグレーのシャツを手渡された。

ようやく汗で濡れたシャツの不快さから解放されることに内心歓喜し、好意に甘えて直ちに汗まみれの体を拭いて着替える。

サイズは大きすぎたが、シルクの滑らかな肌触りには感動すら覚える。

そして、先ほどの金髪の男を待つべく、とりあえず慣れない正座で待機することにした。

だが、日本特有の慣れない姿勢が長く保つ訳がない。すぐに膝と足首が悲鳴をあげはじめ、ニ十一歳の成人の男には相応しくないと自覚しつつ、今は膝を抱えて座っている。

時刻を確認すれば、この部屋に通されてから早くも三十分は経過していた。

慣れない和風の室内に居心地悪くポツンと座り、自分ひとりだけが異世界に取り残されたように感じるのは、おそらく何の物音もしないせいだろう。

何故か、床の間にいる金魚たちに訳の分からない愛着が湧きはじめ、蓮は頭を振って現実世界に帰還する。


まだ、あの外国人達がやってくる気配はない。

そんな不安感を払しょくするように、先ほどの無法者に追われた現実について、蓮は改めて現在の自分が置かれている状況を整理することにした

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