アレクサンドライト クライシス 1

虎之丞

第一部 京都・ファンタジア

第一部 京都・ファンタジア プロローグ

アメリカ、ニューヨーク市。マンハッタン。

アメリカ経済の中枢地帯。


高層ビルが立ち並ぶマンハッタン島にあるセントラルパークは、大都市にポツンと現れたオアシスの体をなしている。人々がエネルギッシュな喧騒から離れ、少しだけ人間らしさを取り戻せる場所。

動物園もある中、野生のリスまでもが無自覚な愛らしさで人々を癒し、生を謳歌できる緑豊かな公園だ。

そうは言っても、周囲には映画の舞台にもなった博物館や、美術関係の世界では名を知らぬ者がない所蔵品数を誇る有名美術館もあり、富裕層が居住する高級アパートメントや高級ホテルが立ち並ぶ。


その公園沿い、道を隔てた周囲の建物よりも少しだけ背の高いレンガ造りの古臭いビル。

横幅は他の建物と同じくらいだが、上空から見れば、奥行きがウナギの寝床という言葉が相応しいくらいに、平面積が縦に細長いアンバランスな箱型のそのビルは、見た目は古臭い割に屋上にはヘリポートが設置され、玄関は指紋認証のオートロックや、他にも何かありそうなくらいセキュリティも徹底しているなど、設備の面でもアンバランスだ。

ループ状の階段を上がっての一階は、正面玄関以外には窓もなく、表札もない。

訪れる人もなく、人の気配がしない建物は、一見すると空き家のようにも思える。

その最上階の一室では、数多くの成功の報告に紛れて、島国日本で着手している小さなM&Aディールについての報告がなされていた。

だがそれは、その他の報告の規模や重要度からすれば、付け加える程度の小さな案件だ。


『――ジャパンの夢の屋グループですが、ディールが不利な状況になったとの報告が、フォックス・ファンドから挙がっています。いかがなされますか?』


焦げ茶とオフホワイトを基調としたモダンで洗練された執務室には、アメリカ国籍の男が三人。

一人目は、世界の警察を自負するアメリカが誇る海兵隊員のようなマッチョな体躯に、窮屈そうなスーツに身を包んだ黒人。銀色の短髪の厳つい顔つきに相応しく、その眼光は鋭い。入室直後から、入り口ドアの横で微動だにせず、寡黙に立ち尽くしている。

二人目は、巨大な執務用デスクの正面に立ち、淡々と報告を行う。

律儀、生真面目という言葉がスーツを着て歩いているような雰囲気を醸し出す、神経質そうな銀縁眼鏡をかけた白人。短めにカットした黒みがかった茶髪を、前髪が一本たりとも顔面に落ちることを許さないくらいにキッチリと、複数の整髪料を使い分けて後方へと撫でつけている。

どちらも、三十代半ばといったところか。


そして三人目は、前述した二名が仕えるボスだ。

デスクを挟んで、全身を包むように支える皮張りのチェアーに座り、組んだ長い足をユラユラと不機嫌そうに揺らしている。

腕組みして有能な秘書の報告を聞く金髪の白人は、年齢は二〇代後半くらいの美丈夫な若者だが、風格はこの室内にいる二名の年長者達をはるかに凌駕していた。

神経質な秘書からの報告に、2億人にひとりという、希少なバイオレットの瞳の色味が深まる。

「――なぜ状況が一変した? どこよりも早くこの案件に目をつけ、フォックス・ファンドを介して、メインバンクと社長を取り込む買収計画は順調に進行していると、確か十日前に聞いていたが? そのイレギュラーな要素は何だ?」


その端的な問いに、眼鏡の秘書は迅速且つ現在知りうる情報を、包み隠さず記した資料を手渡す。

「ジェントリー・ハーツ・ファンドの日本支社が、突然このディールに参加してから、情勢が変わったそうです」

眼鏡の秘書は、日本から送られてきた言い訳という、分厚い報告書の内容を要約する。

「イギリス古参のヘッジ・ファンドか」

報告書を一瞥することなく、秘書に向けられる不機嫌そうな紫の瞳が、視線だけで続きを促す。

「元社長で、今は引退した女帝の近江幸恵を担ぎたして、ジェントリー・ハーツが優先交渉権を獲得したそうで、メインバンク以外の取引銀行が女帝側に寝返り、夢の屋グループの上層部も分裂。ほとんどの役員や株主も女帝に同調し、幸恵の押すジェントリーが提示した再建案に、いっきに動いた模様です」


金髪の男はひとつ息を吐き、ようやく報告書へと視線を落とす。パラパラと興味なさそうに報告書をめくっていた手が、続く秘書の言葉にピタリと止まった。

「フォックスのファンドマネージャーは、ジェントリー・ハーツ本社のルーキーが乗り出した、と言っています。ちなみに、実務経験三年の彼の名前は、すでに固有名詞としてヨーロッパの金融界では認知されているそうです」

「出し抜かれた理由が、黄金株持ちの女帝が復活したからだと? 我々が担ぎたそうと手を尽くしても動かなかった人物だ。――全く以って解せないな、スチュアート?」

スチュアートと呼ばれ、直接の説明責任を担った眼鏡の秘書は、カラー写真がクリップ留めされた一枚の紙きれを渡す。

その紙きれに視線が落とされた瞬間、バイオレットの光彩の色味がさらに深まった。

「彼が、ジェントリー・ハーツ日本支社の夢の屋グループの担当者です。今回のオリジネーションからエグゼキューションを、一名のサポートを付けてはいますが、チームを組まずに一人で主導して担当しています。ちなみに、彼は入社以来の企業再生や合併などの手腕が評価され、二ヶ月前に英国本社から業積が思わしくない日本に出向したそうです」

つまりは、写真に写る男は、ジェントリー・ハーツの突然のディール参加において、夢の屋の再建に向けての調査から計画を手がけ、管理までも一手に担っている人物ということになる。

しかも赴任直後に、公開していないディールの匂いを嗅ぎつけてきた。

相当なやり手、という印象だ。


――だが。

「ずいぶん若いな。ティーンのようにも見えるが? それに、彼は本当に日本人なのか?」

プロフィールが綴られた紙切れにある国籍欄と黒髪の青年が写る写真を見比べ、そのミスマッチに興味を抱いたようだ。

隠し撮りなのか、斜めを向いたアングルで画質もあまりよろしくない。

だが、金髪のアメリカ人は、アジアン特有の年齢不詳のマジックではなく、他の日本人と呼ばれる者達と決定的に異なる点に興味を向けていた。

「国籍は正真正銘、日本です。ただ、出自が捨て子ということで、顔つきからハーフもしくはクォーターなど外国の血が混じっていると推測は出来ますが、断定は出来かねます。おそらく本人さえも分からないでしょう」

顔つきは白人に近いが、“烏の濡れ羽色”と評される青みのかかった艶やかな黒い髪の色と、欧米成人男性にしては身長が低めという点では、確かに日本人の血も入っているように思える。

もっとも、スケールが小さいというだけで、決してスタイルが悪いという訳ではない。確かにハーフ、もしくはクォーターと評する方が適格だ。

辣腕秘書の、主の問いの主旨を完全に把握しての回答は、相変わらず端的だ。


――目を引いたのは、黒髪の青年の瞳。

そして、澄んだエメラルドグリーン。

宝石の如く美しい、緑色の光彩。


だが、それまでの雰囲気が悪い方に一変したのは、続く秘書の報告が成されたからだ。

「黒羽(くろばね)蓮。二十一歳。M&Aアドバイザーとして、ジェントリーへの入社は三年前。十八歳の時だそうです」

その異様な経歴に金髪の男が顔を上げれば、眼鏡の秘書は僅かに表情を引き締めた。

それは誰しもが思う感想だ。

イギリス老舗ファンドが、ティーンを社員として雇用するなど、ジョーク以外の何物でもない。

当然、「ふざけるな」という視線を向けられても仕方がない。

「この青年は、イギリスの寄宿学校で飛び級を重ね、最年少でケンブリッジ大の経済学部を、トップの成績で卒業したそうです。また、ジェントリー入社後に手掛けた仕事も規模が大きい物ばかりで、いずれも成功させています。代表例を挙げるとすれば、二年前のフランス高速鉄道会社と、破綻寸前のイギリスの航空会社の業務提携による再建プロジェクトです。あれをプランニングから、両社を仲介してとりまとめたのが、彼だそうです。クロスボーダー、つまり国際間での癖のある両社の取引に対し、当初は有力視されていた株式交換や事業譲渡ではなく、業務提携を選択した彼の再建スキームは、欧州では神の選択とまで評されています」

短い口笛が室内に響く。

バイオレットの瞳に輝く興味津々な光に、敏腕秘書はホッと安堵の息を吐く。

――つまりは、今回の夢の屋買収での失態は、若き天才金融専門家の所業によるものと、主もようやく理解したらしい。


金髪の男は、しげしげと写真の男を見つめる。

「実に、興味深いな」

ひと言ぽつりと漏らし、美丈夫な顔を上げた。

「直ちに日本に行く。――この案件、直接成り行きを見てみたい。それに、我々のディールが立ちゆかないとなれば、あまり宜しくない事態が予想される」

だが、ボスの唐突な提案にギョッとしたのは部下の二人だ。

慌てて、現状の説明を始める。

「お待ちください、コールド様。来週には中間選挙へのアプローチが佳境に入りますし、すでにご出席いただく予定となっている式典やパーティーもございます。それに、畏れながらこのような小さな案件で、コールド様自身が動かれる必要はないかと」

「それに、言わせてもらえば、警備の手配が間に合いませんよ。この案件にはジャパニーズマフィアだけでなく、他国のマフィアも絡んでいると聞く。敵対勢力の分析から警護の手筈を整えるには、少なくとも三日は必要だ、……です」

それまで、ドアの横で寡黙に聞き入っていた警備担当の男まで、口を挟んでくるのは異例だ。

「現在、中東との交渉も進行中ですが、いつプリンスの気が変わるかも分かりません。即時対応するためには、アメリカから離れるのはベストではないかと……」

「それに、指導者を失って野放しになったテロリストの残党の件もある。いくら関係ないアジア圏といえど、頭に血が上った連中が仕掛けてこないという保障はないんだぞ、……です」

だが、腹心の二人とも内心では覚悟していた。

こういう時の主が、一度言い出したら主張を絶対に曲げない事を。

沈黙が三者の間を支配し、そのピンと張りつめた空気感に、部下ふたりの背筋に冷汗が伝い落ちる。

案の定、無言で睨みつけてくる主の視線は冷ややかだ。それだけで、室内の気温が1℃は下がった気がする。

「――今日の午後にはアメリカを経つ。手配しておけ」

それきり椅子を回転させ、背を向けてしまう。

つまりは、これ以上、交渉の余地はない。


一礼して、腹心の二人が社長室を出ていくのも気にも留めず、金髪の男は口元に笑みを浮かべた。

「黒羽蓮か。――坊やがどんな手腕を見せてくれるか、おもしろくなりそうだ」

写真を見つめるバイオレットの瞳には、好奇の光が輝きだしていた。


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