28 店の名前

 冒険者ギルドでの話も終わり、席を立とうとしたところでガエタノに呼び止められた。


「そういえばライザ、今夜は休むのだったな?」

「ええ、そのつもり」

「だったら一席設けさせてくれないか? クロードの歓迎会のでもやろうじゃないか。俺とフィルと、君らふたりの4人で」


 ガエタノの提案を受けてライザがチラリと自分を見たので、蔵人は無言で頷いた。


「店を決めたら連絡をするから、それまではゆっくり休んでいてくれ」


 ふたりのやりとりを見たガエタノは、返事を待たずに答えると立ち上がる。

 ライザと蔵人もそれに促されて席を立った。


「ガエタノ、ありがとね」

「俺のためにわざわざすまん」

「いや。ウチの者が迷惑をかけた詫びも込めて、だ。遠慮しないでくれると嬉しい」


 そう言ってぎこちなくほほ笑むガエタノが差し出した手を蔵人は握り返し、ふたりは冒険者ギルドをあとにした。


 受付で冒険者証の登録作業を終え、ギルドを出るころには少し日が傾き始めていた。

 とくに家路を急ぐでもなく、町をぶらついているうちにすっかり日は暮れ、あたりは随分と暗くなった。


(そういえば、俺がこっちにきたのもこのくらいの時間だったか)


 あのときはひとりだったが、いまは隣にライザがいる。

 そのことが、蔵人は嬉しかった。


 ほどなく店の灯りが見えてきた。

 帰りは遅くなるかもしれないからと、ライザが店外の灯りをつけていたのだ。

 最初にここを訪れたとき、店内の光が漏れ出ていたあのときよりも、淡い灯り。

 夕暮れと言うには遅く、といって星が出るほど夜は更けていないこの時間、その弱々しい光が心強く見えた。

 渡人わたりどへの加護のおかげか、突然の転移に恐れや混乱はなかったが、思い返せばそれなりに不安だった。

 その不安を、あのとき自分を導くように漏れ出ていた、この店の灯りが払拭してくれたように思う。

 もしかすると記憶を美化してるだけなのかも知れない。

 だが、逢魔が時とよばれる昼と夜が交錯するこの時間、自分を迎えてくれるような淡い光に、蔵人は改めて心が安らぐのを感じた。


「鍵、開けてくるね」


 このまま裏に回るより表から入るほうが早いと判断したのか、ライザは小走りに駆け出した。

 蔵人はふと足を止め、店を見上げる。


「お待たせー……って、どうしたの、ぼーっとしちゃって」

「ヴィーナス……」

「ん?」


 蔵人の言葉が聞き取れなかったのか、ライザは首を傾げて聞き返した。


「いや、ヴィーナスっていうんだな、この店」

「あー」


 ライザが蔵人の視線を追い、見上げた先には、店の看板があった。


「みんなウチのことは『ライザの店』っていうからね。店名を覚えてる奴なんでいるのかな」


 ライザはそう言ってため息をつきながら、自嘲気味に笑った。


「これって渡人わたりどがつけたのか?」

「え? なんでわかるの?」

「そりゃわかるさ」


 驚いて自分を見るライザに笑いかけながら、蔵人はそう言った。

 ヴィーナスというのはいうまでもなく、ギリシャ神話の女神の名前だろう。

 同じ名前の神が異世界にいるとは考えづらい。

 まぁ、勇者たちが伝えている可能性はあるだろうが、それ以上にこの店名をつけたのが渡人わたりどである決定的な証拠があった。


「ヴィーナスって文字の下に、ロゴマークっぽいのがあるだろ?」

「ああ。あのミミズが這ったような」

「ありゃアルファベットっていってな。俺たちの世界の文字だ」


 こちらの文字でヴィーナスと書かれたすぐ下に、アルファベットの筆記体で『Venus』と書かれていたのだ。


「ふーん……。こういう名前のお店って、クロードの世界には多いの?」

「どうだろうな」


 もしロゴがカタカナで書かれていたら、蔵人は場末のスナックなどを思い浮かべたかも知れない。

 しかしこちらの世界のデザイナーが、渡人わたりどの提示した情報を元にデザインしたのか、筆記体のロゴマークはそれなりに洗練されており、アメリカの田舎町あたりにありそうだなと、特に根拠もなくそう考えていた。


「なんでこの名前なんだ?」

「さて。あたしがまだ小さいころの話だからね。それよりさ、早く入ろうよ」

「おう」


 そう答えたライザの様子が少し不自然だったが、あまり突っ込んでも仕方がないだろうと、蔵人はライザについて店に入った。


「ねぇ、先にあたしらだけてやろうよ、歓迎会」


 店に入って表の鍵を閉めると、ライザが照れくさそうに提案した。

 

「クロードがウチにきてからさ、なんだかんだで働きづめだったじゃない? 一緒にご飯食べたりはしたけど、落ち着いてお酒を飲むなんて、できなかったから……」


 ライザはそう言って頭をかいた。

 街灯の明かりが入ってくるだけの暗い店内で、彼女の表情はあまり見えなかったが、少しバツが悪そうにはにかんでいることだろう。

 おそらく先ほどガエタノから歓迎会という言葉をきいて、自分がそういったことをしていないのに思い至ったのだろう。

 蔵人としては、彼女はこれまで充分以上に尽くしてくれたので、それ以上の気遣いは必要ないと思った。


「ありがとう。じゃあ俺たちだけでやろうか」


 とはいえ彼女の気遣いは嬉しいので、蔵人はライザの提案を素直に受けることにした。


「ふふ、とっておきのワインを開けるよ」


 嬉しそうな笑みを残してライザが店の奥に行くと、ほどなく店内がほんのりと明るくなる。

 少しだけ明かりを灯した薄暗い店内に、ライザは1本のボトルとふたつのワイングラスを持って戻ってきた。

 ボトルの大きさも形も元の世界にある物とほとんど変わらないので、もしかするとこれも勇者が伝えた物だろうか。

 そんなことを考えながら、蔵人は手慣れた手つきでボトルを開けるライザを見ていた。

 コルク栓を抜き、暗い照明のせいでほとんど黒に見える濃紫の液体が、グラスに注がれていく。


「おまたせ」


 ワインを注ぎ終えると、ライザは蔵人に向かい合って座り、グラスを持って目の高さに掲げた。


「ようこそ、この世界へ」


 穏やかに微笑むライザに倣い、蔵人もグラスを掲げ、ふたりはグラス越しに見つめ合った。


「よろしく」


 蔵人が言い終え、軽くほほ笑み合ったあと、ふたりは同時にグラスをあおった。

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