17 嫉妬
蔵人はそこそこいい体格をしているので、スポーツや格闘経験がありそうに見られがちだが、実のところ運動の経験は学校の授業以外にほとんどない。
ピアニストにとって、そして調律師やピアノ職人にとっても手は命なので、暴力沙汰とはあまり関わることのない生活を送っていた。
つまり、いま褐色の美青年ウィードに襟首を掴まれた蔵人に、対抗する術はないとういことだ。
「僕が……いったいどれだけライザのことを……」
自分を睨みつける男は、これまで蔵人が見たことのある、どんな俳優やアイドルにも負けない整った顔立ちをしていた。
「酷い顔だぞ?」
しかし嫉妬に狂った男の顔というのは醜いもので、思わずそう口走ってしまった。
それが癪に障ったのか、蔵人の襟を掴むウィードの手に、さらに力が加わる。
「馬鹿にしやがって……!」
「馬鹿にされるようなことをしている自覚があるのか?」
「お前ぇっ……!!」
我ながらなんとも挑発的なことを言っていると思わなくもないが、考える前に言葉が口を突いて出てくるのは、少なからず目の前の男に苛立っているからだろうか。
ライザと自分とは昨夜であったばかりで、ひと晩を共に過ごしたとは言えお互いのことを何も知らない。
しかしどうやら目の前の男は随分とライザのことを知っているらしいし、彼女もこのウィードという男とは知らない仲ではないらしい。
(ああ、嫉妬しているのか、俺も)
ウィードを通じて自身の心情に気付いた蔵人は、思わず苦笑を漏らした。
「なにがおかしいっ!?」
だがウィードはそれを嘲笑と受け取り、さらに怒りのボルテージを上げる。
「お前さえいなければ……!」
わなわなと怒りに全身を震わせるウィードは、左手で蔵人のシャツを掴んだまま右手を振り上げた。
「ダサいぞ、ここで手を出すと」
「ぐぅ……」
振り上げた拳が止まる。
「だまれぇっ!!」
しかしウィードはそのまま拳を振り下ろそうとし、蔵人は思わず顔を伏せた。
蔵人自身暴力沙汰に首を突っ込むことはないが、40年以上生きていれば何度か荒事に巻き込まれることはあった。
そういうときは大抵数発殴られて終わることが多い。
別段鍛えたわけではないが、幸い身体は頑丈に出来ているらしいので、多少の攻撃には耐える自身はある。
(あ、でもこっちの世界の基準でいくとどうなんだ?)
日本にいたころ、一度だけ日本拳法経験者の正拳突きを受けたことがあったが、そのときはさすがに悶絶した。
ウィードは随所に金属をあしらった革の軽鎧を着込み、腰には2本の剣らしきものを交差するように差していた。
一見して戦闘経験が豊富そうであり、そんな男の攻撃をはたして受け止めることが出来るだろうか?
そんなことをつらつらと考えているあいだも、ウィードの拳が飛んでくることはなかった。
「ぐ……はなせぇ……」
おそるおそる視線を向けると、ウィードは何者かに後ろから腕を掴まれていた。
「ウィード、オレの前で、一般人に手を出すとは、いい度胸だ」
低く野太い声に、ウィードの顔が引きつるのを蔵人は見て取った。
そしてウィードの陰から、のそりと男が姿を現した。
闘牛を思わせる盛り上がった上半身に、身長にしては短いが、樽のように太い脚の巨漢だった。
(牛みたいな……というより、牛なのか?)
その巨漢の額の両端から、短い2本の角が生えていた。
「ギルマス……なんでここに……?」
「オレがいるかどうかは、関係ない。冒険者が、一般人に、手を、あげるな」
低く落ち着いた声で、噛んで含めるように言い聞かせる。
「ギ、ギルマス……違うんです、これは……」
「ずっと、見ていたのだぞ? 言い訳など、出来ると思うな」
「あ……いや、ちょっと待――がっ!?」
次の瞬間、ウィードは短いうめき声を上げ、意識を失った。
どうやらギルマスと呼ばれた後ろの男がなにかしたらしいのだが、蔵人には見えなかった。
蔵人のシャツを掴んでいた左腕は離れてだらりと垂れ下がり、糸の切れた操り人形のように全身を弛緩させたウィードは、ギルマスに掴まれた右腕だけで支えられるかたちとなった。
「あの、ありがとうございます」
「いや……。こちらこそ、ウチの者が、迷惑をかけた」
ギルマスはそう言って頭を下げると踵を返し、ウィードの腕を掴んで引きずりながら歩き出そうとした。
「あの!」
蔵人が呼び止めると、ギルマスは歩みを止め、ちらりと視線だけを蔵人に向ける。
「なにか、リクエストは……? 好きな曲調とか言ってくれれば……」
「ふむう……」
ギルマスは一度正面を向いて考える素振りをしたあと、再び視線を蔵人に向けた。
「最初の曲を」
「最初の?」
「昨日、最初に弾いた曲を」
「ああ……」
「あれを、最初の調子で」
どうやらこの男、昨夜蔵人が『枯れ葉』の曲調を途中で変えたことに気付いているらしい。
蔵人は感心したように目を見開いたあと、すぐに微笑みを浮かべ、軽く一礼した。
「かしこまりました」
ずるずると引きずられたウィードがテーブルの傍らに置かれ、そのすぐ近くの椅子にギルマスが座るのを横目に確認しながら、蔵人はピアノの前に座った。
そして鍵盤に手を置く。
これまで数時間にわたって弾いているにもかかわらず、〈祝福〉とやらの効果で綺麗なままの鍵盤に置いた指先が、吸い付くような心地よさが感じられた。
まずは流れるように短音を3つ、そしてほんの少しだけアルペジオを感じさせるように、なだらかな調子で和音を。
そこから心地よさそうな表情を浮かべながら、蔵人はゆったりとした調子で『枯れ葉』を弾き始めるのだった。
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