12 最後の仕事

 和音の響きを重視する『純正律』はピアノに向かないため、オクターヴだけはしっかりと合わせつつ鍵盤ひとつひとつに音程を均等に割り振る『平均律』で調律を行う。

 いってみれば、わざと少しずつ音をずらすことで、多種多様な演奏に対応できるように調律されているので、さきほどライザが言ったように和音が「ぴったりと合う」ということが、実はないのだ。

 とはいえこの平均律に慣れた者にとって、そのわずかなズレは気にならない場合が多い。

 少なくともロードストーンの近代モデルが300年前から存在するこの世界の調律も、おそらくは平均律であり、ライザの耳もそちらに慣れているのだろう。

 また、強いアタック音のあと、倍音が減衰していくというピアノの音色や、ハンマーで叩いて弦を揺らすという構造の特性が、不協和音による音の揺らぎを認識しづらくさせるということもある。


「ねぇ、それ全部の鍵盤でやるの?」


 鍵盤を叩いてはスマートフォンのモニターを見て、チューニングハンマーを操る。

 時にオクターヴを確認するために、12音離れた鍵盤を同時に叩く。

 平均律によって和音が合うことはないが、オクターヴだけはしっかりと合わせる必要があった。

 また、一度合わせた弦も、ほかの弦を調整していくうちに少しずつズレていくので、また戻って調律し直す必要がある。

 チューニングピンを触っていなくても、例えば周りの弦が強く張られていくと、触れていない弦は相対的に緩んでしまうからだ。

 3歩進んで2歩さがるといった具合で、いつ終わるともしれない作業を見ているうちに、ライザは少し不安になったのだろう。


「もちろん。調律ってのはそういうもんだ」


 3本のうち中央の弦の調律が終わったら、今度は左右の弦を合わせていく。

 このときも、残る2本の弦を鳴らさないようにする必要がある。

 左右の弦をミュートしていた細長いフェルトを取り去ると、今度は別の道具を取り出した。


「左右の弦を合わせるときは、このウェッジを使う」


 蔵人が手にしたのはくさび形のウェッジだった。

 そのウェッジを、3本並んだ弦の中央と右の弦の間に差し込む。


「ここにこいつを差し込んだら、ウェッジが当たってる真ん中と右の弦は鳴らなくなって、左の弦だけが鳴る」

「へええ、なるほどねぇ」


 ここからはさらに細かな作業になってくるが、蔵人は慣れた手つきで調律を進めていった。

 ただひとつ厄介だったのは、チューニングピンの口径がまちまちだったところだ。

 極端に口径が違えば、ハンマーの先に着けるチップを取り替えなくてはならないし、同じチップが嵌まるものでも、微妙に大きさが違えばピンを動かすための力加減が変わってくる。

 予想通り癖の悪いピアノだったが、こういったことは安物のピアノにないわけではないので、慣れているといえば慣れていた。


(でもまさかこの感覚をロードストーンのピアノで味わうとは思わなかったが……)


 蔵人は内心で苦笑しながら、調律を続けた。


「おっと……」


 作業が8割ほど終わったところで、スマートフォンのバッテリーが切れた。


(こいつがなけりゃ、まだ半分も終わってなかっただろうな)


 蔵人は内心で感謝しながら、スマートフォンをバッグに戻そうとした。


「あれ、その便利な道具はもう使わないのかい?」

「使わないというか、もう使えない。バッテリー切れだ」

「ばってり……?」


 そう言って首をかしげるライザの姿が、妙に可愛らしかった。


「動力源といえばわかるか? 道具を動かす力の元だ」

「ああ、魔道具でいうと、魔石の貯蔵魔力が切れたみたいなもん?」

「……まぁ、そんなもんだ」

 『魔石』に『貯蔵魔力』という新たな単語に軽く疑問を持ちながら、蔵人は例のごとく適当に流した。


「ふぅん……。じゃあその“ばってり”とかいうのに力を充填すればまたつかえるのかい?」

「できればな。でもたぶん無理だろうな」

「え……」


 蔵人の言葉に、ライザが呆然とする。


「一応訊くが、電気というものはあるか? 電力を使って動く道具、あるいは電化製品、家電といった言葉に聞き覚えは?」


 質問に対して、まだ少し呆けたままの表情でしばらく考える風だったライザは、ほどなく頭をふるふると振った。


「じゃあ魔力以外の力で動く道具は?」

「んっと、魔力以外だと、人力とか動物の力とか……あとは自然の力を利用したものくらいしか……」


 人力は文字通りの意味で、動物の力というのは馬車や牛車のことだろう。

 自然の力とは風力や水力だろうが、それが発電につながっているとは考えづらい。


「可能性はゼロじゃないだろうが、たぶんこいつを使うのは難しいだろうな」

「そんな……」


 なにやら絶望的な表情を浮かべたライザがおかしくて、蔵人はクスリと笑い、彼女に歩み寄った。


「そんな顔するなよ」


 そう言って彼は、ライザの頭を軽く撫でてやった。


「こいつは使わずにいてもせいぜいあと1日でバッテリーは切れていたさ。そういう道具だ。だから気にするな」


 未知の便利な道具を使えなくしてしまった、ということによほど責任を感じていたのか、上目遣いに蔵人を見るライザの目には涙が溜まっていた。


「ほんとに……? ほんとにあたし、クロードに迷惑かけてない?」


 その口調や表情がいじらしく、蔵人は思わずライザを抱き寄せてしまった。

 迷惑どころか、自分のような得体の知れない男に飯を食わせ、ともに夜を過ごし、仕事まで与えてくれたのだ。

 彼女に対しては感謝しかない。


「ああ。こいつも最後の最後で調律に役立てて本望だろうよ」


 しかし感謝の意を素直に伝えられない蔵人は、意思のない道具に思いの一部を代弁させた。


「そう……ならよかったよ……」


 小さくそう呟いたあと、ライザのほうからも腕を回し、蔵人に抱きついてきた。

 一度ぎゅっと強く抱きしめたあと、彼女が離れようとしたので、蔵人はライザに回した腕を緩めた。


「ねぇ、あたしになにかできることない?」


 身体を少しだけ離して、ライザは蔵人を見上げながらそう尋ねた。


「そうだな……。だったらコーヒーを淹れてくれないか?」


 蔵人の答えに一瞬きょとんとしたライザだったが、まだうっすらと涙の残る目尻を下げ、にっこりと微笑んだ。


「うん、わかった」

「美味いヤツをたのむ」

「ふふ、任せといて!」


 跳ねるようにバーカウンターへと入っていたライザをしばらく見つめたあと、蔵人はスマートフォンをバッグに戻し、チューナーを手に取った。

 そのとき、まだパッケージに入ったままの音叉が目に映った。

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