10 調律の準備

 蔵人が最初にバッグから取り出したのは、フェルトの細長い布だった。


「それはなんなの?」

「こいつはロングミュートといってな……ああ、簡単に説明しながら進めたほうがいいか」

「あ……もしかして、あたし邪魔してる?」

「いや、問題ない」


 1人で黙々と作業をするのも悪くないが、こうやって自分の仕事に興味を持ってもらえるのもいいものだ。

 ライザが退屈そうにしているのならさっさと作業を進めるつもりだったが、せっかくこうして興味を持ってくれるのなら、彼女の相手をしながら調律するのも悪くないだろう。


「まずはこの音から始める」


 蔵人が叩いたのは『A4』と呼ばれる、鍵盤の低い方から数えて4オクターヴ目の『』の鍵盤だった。

 ポーンと軽快な音は鳴ったが、ほどなく伸びた音がワヤワヤと揺らぎ始める。

 調律が狂っている証拠だ。


「ライザ、見てみろ。このあたりの鍵盤には3本の弦が張られているのがわかるか?」

「うん、そうみたいだね……。何十年もウチにあるピアノだけど、初めて知ったよ……」


 ピアノに張られる弦の本数だが、低音部分には1~2本、中音以上は3本というのが一般的だ。

 どの鍵盤に何本張るか、というのはピアノのサイズやメーカーによって異なり、サイズが大きくなるほど弦の本数も増えると考えて問題ない。


 ――ポーン……。


 蔵人はもう一度『A4』の鍵盤を叩いた。


「こいつの真ん中の弦だけを、まずは合わせる」

「……でも、そいつを叩けば3本同時に弦が鳴るんだよね?」

「ああ、だからこいつを使うのさ」


 3本のうちの1本、真ん中の弦だけを鳴らすために、まずは両端の2本をミュートしなくてはならない。


「調律では、不必要な弦を鳴らさない、というのがとても大事なんだ。そのためにウェッジという消音用の道具がいくつかあってな。このロングミュートもそのひとつだ」


 言いながら蔵人は、長いフェルトの薄い布を弦のあいだに詰め込んでいく。

 鍵盤ひとつに割り当てられた3本ごとに、少し大きな隙間が空いているので、そこへ蛇腹になるようにロングミュートを詰め込んでいくと、フェルトの布が3本の弦を覆うような形となった。

 そこで蔵人が鍵盤を叩くと、先ほどよりも乾いた音が鳴った。


「両端にはフェルトが当たってるけど、真ん中の弦には触れてないのがわかるだろ?」

「あ、ホントだね」

「こんな感じで不要な音をミュートしながら作業を進めていくわけだ。で、さっそくコイツの音を決めなくちゃいけないんだが……」


 そう言ったあと、蔵人はピアノの中を凝視したまま黙り込んでしまった。

 なにか考えることがあるのだろうと、ライザはそれを黙って見守る。


「だいぶ狂ってるし、癖が強そうだからなぁ……」


 ぶつぶつと何度か呟いた蔵人は、意を決したように顔を上げると、バッグを引っ張り上げて近くのテーブルに置いた。

 そして中身をがさごそと探ったところで取り出したのは、スマートフォンだった。


(昨日充電し忘れたんだよなぁ……)


 少し苦い表情を浮かべつつ、蔵人はスマートフォンの電源を入れた。

 しばらく経って、ロック画面が表示される。


「25パー……いけるか……。あ、そうだ」


 バッテリー表示を見てさらに表情を翳らせた蔵人だったが、ふと思いついたことがあってライザに目を向けた。


「悪い、さっきのキッチンタイマー、持ってきてもらえるか?」

「え? あ、うん……いいけど……ちょっと待ってて」


 ほどなく戻ってきたライザからキッチンタイマーを受け取った蔵人は、ゼンマイを1分半のところに合わせてスタートさせたあと、スマートフォンの時計アプリを立ち上げ、タイマーを1分に合わせた。

 そしてキッチンタイマーが残り1分にさしかかったところで、モニターをタップし、タイマーをスタートさせる。


 ――ジリリリリリ……。

 ――ピピピピピピ……。


 それぞれのアラーム音が鳴るのに、たいした時間差はなかった。


(……最初っからこうしときゃよかった……のか……?)


 1分を計るとなったとき、スマートフォンのアラーム機能のことをすっかり忘れて、わざわざこちらの世界のキッチンタイマーを使ってしまったことに、少し恥ずかしい思いが生じる。

 しかし、こちらの世界の道具を使って、体感で時間感覚を計ることができたのは貴重な体験だった、と自分を慰めることにした。

 このスマートフォンとて、こちらの世界に来たことで正常に動作していない可能性もあるのだ。


(……いや、動作のことを考え出すと調律にも使えなくなるから、細かいことは気にしないでおこう)


 雑念を振り払うように、何度か軽く頭を振ったあと、蔵人はキッチンタイマーをライザに返した。


「ありがとう、助かったよ」

「ああ、うん。別にいいんだけど……それなに?」


 怪訝な表情を浮かべたライザの視線は、蔵人の手元に固定されていた。


「こいつはスマートフォンといってな。なんというか、とにかく便利な道具だ」

「ふぅん……。魔道具じゃあ、ないんだよね……?」


 “便利な道具”と聞いたライザが、不安げな視線を蔵人に向ける。


「心配するな。コイツに限らず、俺は魔道具なんて物はひとつも持ってないから」


 たしか魔道具の魔術作用が〈祝福〉とやらに影響するという話だったので、ライザはそれを警戒したのだろう。

 魔道具というものがどういう物かはよくわからないが、ライザの使った【浄化】のような魔術に類する機能を持つ物であるなら、少なくともスマートフォンを始めとする電化製品はそれに当てはまらないはずだ。

 もし電化製品が魔道具に近い物で、たとえばスマートフォンなどが〈祝福〉とやらに干渉するのだとしたら……。


(そのときは諦めてもらおう。正直スマホもチューナーも使わず、このピアノを音叉だけで調律するのは……少なくとも俺には難しいからな)


 蔵人はあくまでピアノ職人であって、調律の専門家ではない。

 なので、調律に対するこだわりは少なく、便利な物は積極的に取り入れる性質たちなのだ。


「じゃあそろそろ始めるから、少し静かにしていてくれ」


 その申し出にライザは無言で頷いたあと、すぐに厨房へと視線を向け、不安げな表情で蔵人に向き直った。


「ああ、あれくらいの音なら大丈夫だ」


 ほっとため息をついたライザは、ふたたび真剣な眼差しを蔵人に向け、もう一度深く頷いた。

 それにふっと微笑みを返した蔵人は、スマートフォンの調律アプリを立ち上げてピアノの上に置き、バッグからチューニングハンマーを取り出した。

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