11 調律の手段

「ピアノの弦はすべてこのチューニングピンというところに巻かれている」


 ライザに説明をしながら、蔵人は調律作業を始めた。


「ピンに、このチューニングハンマーをまずはめこむ」


 チューニングハンマーとは、調律に使われるレンチのような道具だ。

 それを『A4』鍵盤中央の弦を繋いだピンにカコっとはめる。


「このハンマーをつかってピンを回すことで、弦を締めたり緩めたりできるわけだ」

「なるほどね……。そういやウチに来てた調律師もそんな道具を持ってたなぁ」


 まず最初に基音となる『A4』の音を決める必要がある。


 言うまでもないが音とは空気の振動によって伝わるものである。

 そしてその振動数=周波数によって音の高さは変わる。


 『A=440Hz』という表記を目にしたことはないだろうか。

 これは『』の音が440ヘルツであること意味し、ここでいう『』は、このピアノで言うところの『A4』を指す。


「つまり下から4オクターヴ目のコイツを440ヘルツに合わせるってことなんだが……」


 説明の途中からライザは眉を下げ、何度も首を傾げ始めたので、おそらくはほとんど理解できていないのだろう。


「まぁ、そういう基準があるってことだ」


 近年A=442ヘルツが主流となりつつあり、普段であれば蔵人も442ヘルツに合わせることが多いのだが、なんといってもここは異世界だ。

 基準となる周波数に関しては今後も上がり続ける、という人もいれば、あくまで一過性のもので逆に低くなる、という人もいる。

 調律ひとつとっても流行廃りがあるということだが、その流行までをも異世界に持ち込む必要はなかろうと判断した蔵人は、元の世界における国際基準『A=440Hz』に合わせることにして、アプリを設定した。


 鍵盤を叩き、弦を震わせる。

 その音をスマートフォンのマイクが拾い、それが440ヘルツからどれだけ離れているのかがモニターに表示される。

 あとはモニターとにらめっこをしながら、チューニングハンマーを繊細に操ってピンを回し、周波数を合わせていった。


「……よし」


 『A4』を440ヘルツに合わせ終えた蔵人は、次に『A4』と『A3』、すなわちいま合わせたものから1オクターヴ下の『』の鍵盤を同時に叩いた。

 ふたつの音が鳴り始め、すぐにライザが顔をしかめる。


(かなりズレているな……)


 オクターヴとは周波数比が2対1になる音程を指す。

 440ヘルツの『A4』に対して1オクターヴ下の『A3』が220ヘルツであれば、同じ『』音同士でユニゾンになるのだが、やはりというべきかこのピアノの『A3』はかなりズレていた。

 なので、ここが完全に調和するように合わせてやる必要がある。

 ピアノの調律において、この“オクターヴを合わせる”というのが非常に重要な意味合いを持つのだ。


(ここは耳で合わせたほうが早いか)


 オクターヴのユニゾンは耳で判断しやすい部分なので、そこはアプリに頼らず合わせていく。

 何度もふたつの鍵盤を叩きながら、チューニングハンマーを操ってミリ単位以下の調整を繰り返し、ほどなくオクターヴを合わせるのに成功した。


「オクダーヴが決まったら次はあいだにある11の鍵盤にそれぞれ音を割り当てていくんだが……、これが相当骨が折れる作業なんだよ」


 通常であれば基音となる『』を基点に音程を測り、そのハーモニーを耳で聞きながら、他の音を決めていく必要がある。

 これには高い技術と深い経験が必要になってくるのだが、今回蔵人はこの部分をアプリに頼ることにした。

 スマートフォンの高性能なCPUが算出した周波数に、それぞれの鍵盤を合わせていく。


「じゃあその便利な道具があれば、誰にでも調律ができるってわけ?」

「そういうわけでもないんだがな」


 例えばチューニングピンを回し、目的の高さに合わせる、合わせたところで止める、という作業ひとつとっても熟練の技術が必要になる。

 それに、スマートフォンのマイクやモニターの表示が絶対というわけでもない。

 わずかなズレに関しては検知できない事が多く、最終的には耳に頼ることにはなるのだ。

 さらに細かいことを言えば、全く同じ周波数に合わせたとしても、ピアノの状態次第ではズレたように感じられることもあるし、音が空気の振動である以上その日の気温や気圧、湿度の影響を受けることは避けられない。

 また、ピアノを置いてある場所次第では音の反響も考慮する必要があるので、ただ機械的に数値を合わせればいいというものでもないのだ。

 だとしても、スマートフォンのおかげで作業時間が大幅に圧縮されることに変わりはない。


 ならばすべての調律師が調律ソフトを使っているかといえば、答えは否である。

 いまでも音叉のみを頼りとする調律師は多い。

 チューナーを使うにしても、基準となる音だけを合わせてあとは耳で作業を進める、という人もかなり割合を占めるだろう。

 蔵人も普段はシンプルなクロマチック半音階チューナーを使って基準の音のみを合わせることが多い。

 だがそれは定期的に調律がおこわなわれている、それなりに状態のいいピアノに限った話だ。

 今回のこのピアノほど状態が悪い物も珍しいが、ある程度状態の悪いピアノを見る場合、あるいは時間に余裕がない場合などは、遠慮なくスマートフォンを使っていた。

 一応音叉も持ってはいるが、ほとんど使うことはない。


「ふぅ……」


 スマートフォンを睨み、ときおり耳でハーモニーやオクターヴユニゾンを確認しながら黙々と作業を続け、中音域の調律が一段落ついたところで、蔵人は大きく息を吐いた。


 ポロン、といくつかのコードを鳴らすと、ライザの表情がふっと和らいだ。


「すごいね。前までのがそんなおかしいとは思ってなかったけど、ぴったり音が合うとやっぱ違うもんなんだねぇ」


 ライザの言葉に、蔵人は軽く苦笑を漏らした。

 彼女はこの時点で大きな勘違いをしているのだが、それについて説明をし出すと話が長くなってしまうので、蔵人はそのことに触れず、作業を再開するのだった。

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