2 朝の出来事

「あたし、そんなに軽い女じゃないからね?」


 ベッドを降り、下着を身に着けたところで、ライザは少し照れながらそう言った。

 先ほどまでは少し寝ぼけている部分もあり、甘えたような態度をとっていたが、覚醒するにつれて急によそよそしくなり始めたライザの様子を、蔵人は少し微笑ましく思ってていた。


「ホントだよ? だれにでもこんなことするわけじゃないからね!?」


 ほんの数分前までは惜しげもなく上半身を晒しておきながら、いまはブラジャーに包まれた胸を腕で隠し、必死に訴える姿に思わず苦笑が漏れる。


「ああ、わかってるよ」


 蔵人はそれほど女性経験が豊富なほうではない。

 しかし昨夜は、男を誘ったまではいいが、ベッドに入るなり初々しくなり、何をしていいかわからずあたふたするライザを、終始蔵人がリードした。

 その態度を見れば、彼女がこういったことにあまり慣れていないことはすぐにわかった。


「そう、ならいいんだけど……」


 そこから手早く服を着たライザは、足早に寝室のドアへと向かった。


「朝ご飯、用意しとくから下においでよ」


 それだけ言い残すと、ライザは寝室を出て扉を閉め、そのあとに階段を降りていく彼女の足音が遠ざかっていった。

 

「あ、服……」


 ライザを見送り、ベッドを降りたところで着替えなどを一切持っていないことを思い出す。

 1日工房で仕事をしたあとなのでかなり汚れているはずだが、ほかに着替えがない以上同じ物を着るしかない。

 そう思って部屋を見回してみると、ライザが着替えていたあたりにあるキャビネットの上に、綺麗にたたまれた蔵人の服があった。


「ん?」


 たたんでくれたのはありがたいが、汚れていることに違いはあるまいと自身の下着を手に取り、身につけた蔵人はふと違和感を覚えた。

 それらは1日かけて持ち主の汗を吸い、一晩放置されたものにしては肌触りがいいのだ。

 不快な臭いなどもせず、作業着に至ってはまるで洗濯したように汚れが落ちていた。

 さすがに長年にわたってしみこんだ頑固な汚れはそのままだったが。


(ライザが洗ってくれたのか?)


 しかしそんな時間はなかったはずだ。

 ほかに住人がいるのだろうか?

 だとしても、脱ぎ散らかした服を取りに誰かがこの部屋に入ったとすれば、さすがに気づくだろう。


 とりあえず作業服を着た蔵人は、寝室を出て短い廊下を歩き、階段を降りた。

 そこからふたつほどドアを抜けたところで、店のホールに出た。

 少し視線を動かせば、昨夜弾き倒した黒いグランドピアノが見えた。


「どこでもいいから座って待っててよ。もうすぐできるから」


 朝食はライザが作ってくれた。

 店の料理は別の料理人が担当し、ライザはあまり手を出さないのだが、料理ができないわけではないらしい、

 バゲットをスライスして軽くトーストしたものと、薄切りのハム、葉物がメインのサラダ、スクランブルエッグ、そして食後にはコーヒーという、日本で出されてもおかしくない朝食だった。

 ハムが何の肉でできているのかはあえて聞かなかった。

 もしかするとスクランブルエッグに使われている卵も鶏のもではないかもしれないが、あまり気にしても仕方がないだろう。


「ごちそうさま。美味しかったよ」

「ふふ、よかった」


 食後の感想を素直に伝えると、ライザはうれしそうに笑った。


「あ、そうだ。服が綺麗になってるんだけど……?」

「ん? あたしが綺麗にしといたけど」


 自分のカップを片手に、ライザは蔵人の向かいに座りながら答えた。


「洗うヒマあった?」

「あ、あるわけないじゃない……」


 昨夜のことを思い出してか、ライザは顔を逸らしながらそう言った。


「さっき軽く【浄化】しといたのよ」

「浄化……?」


 首をかしげる蔵人に対し、ライザは少し不機嫌そうに口をとがらせる。


「あのさぁ、これでも飲食店のオーナーだよ? 生活魔術くらいひと通り使えるに決まってんじゃない」

「お、おう。そうか」


 生活魔術という聞き慣れない言葉に疑問はつきないが、とりあえず流すことにした。

 ここでボロを出して、自分の素性が明らかになるのを怖れたのかも知れない。


「なんにせよ、ありがとな。着替え持ってないから助かったよ。あとご飯も」

「あ、うん……どういたしまして」


 少しだけ傾きかけていたライザの機嫌だが、蔵人からストレートにお礼を言われたことですぐ直ったらしく、口元には笑みが浮かんだ。


「さて、そろそろ始めるか」


 いろいろと疑問に思うことはある。

 できれば時間をかけてライザに話を聞いたほうがいいこともわかっている。

 しかし、いまは一刻も早くピアノの調律をしておきたかった。


「ねぇ、見ててもいい?」

「別にいいけど、楽しいもんじゃないぞ?」

「いいよ。飽きたら買い出しにでも行くから」


 残りのコーヒーを一気に飲み干した蔵人は立ち上がり、ピアノへ向かう。


 昨夜の薄暗い中で見たときはそこまで気にならなかったが、窓から日が差し込む明るい中で見てみると、黒光りするグランドピアノの表面には細かな傷や汚れが多くついていることが見て取れた。

 さらに視線を動かすと、目立つ大きな汚れ、艶はおろか塗装がはげて下の木がむき出しになっているところもあり、よく探せばもっと酷い部分もあるだろうと予想できた。


(なんにせよ、まずは調律だ)


 蔵人は大屋根――ピアノ本体の天板にあたる一番大きな蓋の部分――に手をかけた。


「よっこいせ……っと」


 大屋根が持ち上がり、ピアノの内部が露わになる。


「うへぇ……」


 そしてその惨状に、蔵人は思わず声を漏らした。

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