1 夜の出来事
――知らない天井だ……。
目を覚ました蔵人の目には、白い壁紙の貼られたマンションのものでも、鉄骨がむき出しになった工房休憩室の天井でもない、本当に見覚えのない部屋の天井だった。
飾り気がなく、
「ふふっ……」
意識がはっきりしてくると、思わず心の中で呟いてしまったなんともベタな感想に苦笑が漏れた。
「よっこいせ……ぐぉ……頭が……」
身体を起こせば視界がぐらりと揺れ、鈍い痛みが頭の奥から這い出してきた。
片手で額を押さえながらなんとか上体を起こすと、余り肌触りのよくない布団がめくれ、自分が裸であることに気付く。
「んぅ……」
傍らで女性の声が聞こえた。
「ああ……そうか……」
そちらに目をやると、褐色の背中が見えた。
蔵人が起き上がったせいで布団がめくれ、腰のあたりまでが露わになっている。
「ん……んんっ……!」
彼女は短くうめきながら、もぞもぞと寝返りを打った。
こちらを向いた上半身から思わず目を逸らそうとしたところで、うっすらと彼女の目が開いたことに、蔵人は気付いた。
「ん……あぁ……おはよう……。起きてたんだね」
「あ、ああ……おはよう」
「ふぁ……」
彼女はあくびをしながら身体を起こし、両手を上げて身体を伸ばし、直後にだらんと腕をおろすと、そのまま上半身の力を抜いて蔵人にもたれかかった。
「ふふ……夕べは凄かったねぇ」
「そ、そうか……? 俺もいい歳だから、どちらかというと不甲斐ないような」
「あはは、なーに勘違いしてんのさ。ピアノのことだよ、ピアノ!」
「あー……」
勘違いを指摘された蔵人は、顔が熱くなるのを感じて彼女から顔を逸らした。
「でも……」
だが次の瞬間、先ほどよりも近い位置から声が聞こえ、耳元に熱い吐息がかかる。
「そのあとも凄かったけどね……?」
唇があたるのではないかというほど近い位置で囁かれた言葉に耳を打たれながら、蔵人は昨夜のことを思い出していた。
**********
1曲を弾き終えて調律の約束をしたあと、食事を勧められた蔵人はエールとソーセージのセットを注文した。
オーク肉の生姜焼というのも気になったが、ここに書かれているオークというのが、いわゆる半人半豚のモンスター的なものだった場合、いきなり人型生物の肉を食べるというのもためらわれたからだ。
(にしても、よく落ち着いていられるな、俺は)
ソーセージを平らげ、最後に残ったエールを飲み干したところで、蔵人はそんなことを考えていた。
暇つぶしにもってこいと後輩に教えてもらってから、空いた時間にはウェブ小説をよく読むようになった。
その多くは異世界転移や異世界転生を題材にしていたので、いい年をしていながらも“自分がこういう状況に陥ったらどうなるか?”ということを考えたこともあった。
(とても平静でいられるとは思っていなかったんだがな……)
突然見知らぬ場所に放り出されたら、慌てふためくに違いないと思っていた。
しかしいざその状況になってみて意外と冷静でいられたことには、いまさらながら驚きを禁じ得ない。
なによりこの状況を現実としてすんなり受け入れていることが、不思議でならなかった。
「よぉ兄ちゃん」
食後にもう1杯エールでも頼もうかと思っていたところ、突然声をかけられた。
声のほうを見てみると、体格のいいひげ面の男が赤くなった顔に機嫌の良さそうな表情を浮かべて蔵人を見ていた。
癖のある長い髪を無造作にひとまとめにしたその男の腕は、同年代の一般男性より遙かに筋肉質な蔵人のものよりひと回りほど太く、前を半分ほど開いた厚手の作業服から除く胸板は厚く盛り上がっていたが、身長は椅子に腰掛ける蔵人より少し高いくらいだった。
「なんでしょう?」
「メシ食い終わったんだろ? だったらもう1曲頼むよ」
ひげの男はピアノ演奏をリクエストしたいらしい。
「あー、でも、調律をしないと……」
「調律ぅ?」
おどけたようにそう言ったあと、男はわざとらしく肩をすくめた。
「調律ってのは、こんな
「あー……」
食事に集中して気にしていなかったが、確かに店内はかなり賑やかだった。
(……というか、人が増えてないか?)
「お前さんの演奏に惹かれてきたんじゃねぇか?」
どうやら表情に出ていたらしく、蔵人の心情に応えるように、男はそう告げた。
「そんな音響きましたかね?」
「まぁピアノの音っつーか、ワシらが騒いだ音っつーか……。半分くらいは野次馬みたいなもんかもしれんがね」
呆れたような表情で店内を見回したあと、男は再び蔵人に向き直った。
「で、弾いてくれるのかい?」
「んー……」
そのとき、コトリとテーブルにグラスが置かれた。
透明なグラスは赤い液体で満たされていた。
「とっておきのワイン出すからさ、よければもっと弾いてよ」
赤毛のウェイトレスだった。
「……じゃあ、少しだけ」
調律が狂っているといっても、そこまで致命的ではない。
選曲次第ではうまくごまかせるだろう。
(あとは酒の勢いでなんとかするか)
グラスに満たされたワインを一気に飲み干すと、蔵人は席を立ち、再びピアノの前に座った。
そこからはお祭り騒ぎだった。
調律の問題もあるが、店の雰囲気的にしっとりとしたジャズは合わないだろうし、クラシックは楽譜無しで弾ける曲があまりないので、ロックで攻めることにした。
80年代に大流行したタイムトラベル映画を参考に、古いロックンロールナンバーを弾いてみたところ随分受けがよかった。
ただ、その1曲だけでは到底終わらせてもらえなさそうだったので、そこからは60~70年代のメジャーなナンバーを続け様に弾きたおした。
酒の勢いもあり、あるいは非日常的な空間に来たことの興奮もあってか、蔵人は久々に人前で演奏する快感に身を委ね、ひたすら鍵盤を叩き続ける。
そうこうしているうち夜は更け、騒ぎ疲れた者も出始めたのか少しずつ客の姿が消えていった。
最初に来た頃よりも客が少なくなったあたりでスローナンバーに切り替え、帰宅を促した。
「おつかれ。長い時間悪かったね」
最後にバラードを弾き終え、ウェイトレスに声をかけられたところで他の客がすべて帰ったことを知った。
「いやぁ、楽しかったからいいよ」
演奏の合間合間に酒をおごられた蔵人は、演奏の興奮も相まって上機嫌であり、態度も随分砕けたものになっていた。
「ふふ……そうかい。それはよかったよ」
「こっちこそ遅くまで悪かったね」
「……だね。あたしはいいんだけど」
そこで彼女は少し心配そうな表情で蔵人を見つめた。
「アンタは帰らなくていいのかい?」
「あー……」
ピアノを弾くのに夢中で宿のことを考えていなかっといまさら気付く。
「よかったらさ、泊まってく?」
褐色の頬を赤らめ、目を潤ませる彼女が、ただ寝床を提供するためだけに提案してきたのではないことを、蔵人は容易に察することができた。
そして酒の勢いと演奏の興奮に任せて、蔵人はその提案を受け入れたのだった。
**********
「ライザ」
その声に、ふと我に返った蔵人は、肩にかかる重みがなくなったことに気づいた。
そちらに目を向けると、彼女が微笑みを浮かべて自分を見ていた。
「なに?」
「名前だよ。あたしはライザ。アンタは?」
そして、いまになってまだお互いの名前も知らないことに気づき、思わず苦笑が漏れる。
「俺は蔵人。よろしく、ライザ」
名乗ると同時に蔵人はライザの肩を抱き寄せ、彼女はされるがまま再び彼に身を預けるのだった。
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