第3話

 僕は少し考えてから言った。

「つまり、時間を動かしたいと」

「そうです」

 溜息交じりに彼女は言う。

「……あいつ、最低なんです。私と付き合っていた時、浮気していたんです。あ、違うわ。浮気相手は私の方だったんです。ちゃんと彼女がいたのに、私にも好きだ。付き合ってくれって告白してきて。ひどいでしょ? 私、ずっと、あいつの彼女だと思っていたの。なのに本命は他にいて、私はただの浮気相手。遊びだったの。とんでもない男でしょう?」

「でも、彼のことがまだ好きなんだね?」

 一瞬、ぐっと息を呑んでから、彼女は仕方なさそうに頷いた。

「そう、そうなの。昔も今もずっと好きなの。だから、あの時も夏祭りに誘われて、大好きなお前と一緒に花火が見たいんだ、なんて言われたら断れなかった。でも、日が経つとだんだん悲しくなってきて。だって、私は本当の彼女じゃないし……それなら、その祭りの日に、彼にはっきり言って別れてやろうって思ったの。でも、結局それが出来なくて」

「約束をすっぽかしてしまった、と」

「はい。だから、やり直したい。あの日……十年前に戻ってあいつにはっきり別れを告げたいの。よくも私を騙したわねって一発くらい、殴ってやりたいわ。……そうじゃないと私の時間は進まない……」

「殴る。それは勇ましい」

 僕は、沈みそうな彼女に明るく言った。

「では、その勇ましいあなたのために、僕は心を込めて地図を作りましょう」

「あ、ありがとうございます」

 頭を深く下げた後で、彼女はハッとして言った。

「あ、あの、料金のこと……」

「そのことは聞いていませんか?」

「いえ。あの、……それじゃ、本当に無料なんですか」

「ええ、地図を返却いただければそれで結構」

「そう、ですか。判りました」

 僕は彼女にひとつ頷くと、奥の棚に歩み寄った。

 その棚は細長い引き出しがいくつもあって、あらゆる年代、場所のA1サイズの地図が収められている。

 ええっと、十年前の桜川というと……。

 棚のプレートに記載している日付を見ながら引き出しを開けると目的の地図を引っ張り出し、作業台の上に広げる。それから現在の同じ場所の地図も出して、十年前の地図の上に重ねた。

 作業台のスイッチを押す。ガラス張りの作業台は下からライトが灯り、重ねた地図がきれいに透けて見える。その二枚の地図の内容がきちんと重なるように位置修正して、四隅に魚の形をした重りを乗せて動かないように固定した。更に白紙のA3サイズの紙を彼女の目的である桜川周辺に重ねて、それも重りを使って固定する。

「この白紙にこれからあなたご所望の地図を描きます。これは薄い紙ですけど、かなり丈夫なのでちょっとやそっとでは破れません。だから気軽に持ってくださって大丈夫ですよ。折りたたんでも平気です。耐水性なので雨にも対応します。でも普通の紙と同様にペンやインクで描くこともできる。僕のような地図屋には、なかなか便利な紙なんですよねえ、これ」

「そう、ですか」

 伊藤さんが興味なさそうに相槌を打つ。

 僕はひとりにこにこ笑って、色とりどりのカラーインクの瓶が乗ったサイドテーブルをこちらに引き寄せ、長い定規とペンを手に持った。

 これで準備はOK。改めてまじまじと地図を見る。

「……ふうん。十年前だから、たいして現在と変わっていませんね。川の周りが住宅地だから数の変動はあるようだけど」

 ほとんど独り言でそう言うと、僕はA3の紙に古い地図と新しい地図の情報を描き写していく。

 ざっと外形を抑えてから、細部にペンを入れる。そして最後の仕上げにペンを面相筆に持ち替えて、カラーインクで彩色した。

「はい、できあがり。使用したインクは耐水の速乾性だけど、それでも少し乾くまで時間が必要です。ちょっと待ってください」

「え? もう終わったんですか?」

「はい」

 驚く彼女に向き直って、僕は微笑む。作業にかかった時間は十分ほど。まあ、大抵、そんなものだ。

「この地図を使ったあなたの歩き方を言っておきます。目印としては、最寄りの駅。そこから出発して桜川の河川敷で行われている夏祭りに行ってください」

「あ、はい。先ず駅に行くんですね。判りました」

「今夜は夏祭りですねえ」

 と、僕はインクが渇くまでのわずかな時間を潰すために今更ながらそう言った。

「ここからだと、花火は見えないんですよね。ちょうど、山が邪魔するんですよ」

「そうですか」

「今夜は見えるかなあ」

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