第2話
「……では、仕事の話しをしましょうか」
僕は作業台に背中を預ける形で立ったまま言った。
「ここに来られたということは、当然、地図がご入り用ということですよね」
「はい」
彼女は弾かれたように顔を上げ、じっと僕の瞳をみつめる。急に積極的になった様子の彼女に、僕は少し戸惑った。
「……ええっと、まずは、あなたのお名前を伺っても?」
「あ、失礼しました。私、伊藤です。伊藤かずみ。あ、住所とか職業とかも言った方がいいですか? そういう書類に書くとか」
「いりません」
僕はさらりと言った。
「今、僕があなたの名前を聞いたのは、名前がないと話しをする上で不便だからです。なので本名でなくても構いませんよ」
「……え? でも」
彼女は明らかに戸惑って、僕を見る。
「私が誰か判らないのに仕事を請け負っていいのですか? それに、あなたのことをどこで聞いてきたとか、知らなくても……」
「構いません」
「え? 本当に?」
「興味ないので」
「はあ……」
「どうせ、例の噂でしょう?」
「……そう、ですけど」
「では伊藤さん、あなたのお話しを聞く前に、こちらからいくつか注意事項を申し上げておきます。よろしいですか」
「は、はい」
「ここであなたの依頼により作成された地図は、あなたのために作られた唯一無二のものです。なので、他の人に譲渡するなどといったことは絶対に禁止です。見せることもご遠慮ください。よろしいですか?」
「はい、判りました」
「後は、使用後のその地図のことです」
「はい? 使用後?」
「ええ。あなたのために作られた地図ではありますが、あなたがそのまま持ち続けることはできません。用事が終わった暁にはここに返却に来てください。よろしいでしょうか?」
「返すのですか……」
「ええ。約束は必ず守ってくださいね。何というか……あなたのために。守れますか?」
「……あ、はい」
怪訝そうな顔をしたが、彼女は何も問い返してこなかった。いい客だ。
「では、あなたのお話しを伺いましょう。いつ、どこの地図がご入り用で?」
「今日と同じ日の……十年前の地図です」
「今日?」
「はい」
「場所は?」
「桜川のあたり」
「十年前の今日の桜川。ということは夏祭り?」
「……はあ」
彼女は困ったように目を泳がせると言った。
「実は……つまらないことなんです。私、十年前の夏祭りの日、私たち、まだ高校生だったんですけど、その時付き合っていた彼と、一緒に花火を見る約束をしていたのです。なのに、私、すっぽかしちゃって」
「花火といえば、今夜の夏祭りで花火が復活するそうですよ」
「ええ、知っています。懐かしくて、花火を見に行こうと思って、昔の浴衣まで引っ張り出して着てみたんですけど……」
「お似合いですよ」
「あ、ありがとうございます」
ほのかに頬を染めて彼女は話しを続けた。
「それで……花火をどうせ見るのなら、今夜の花火ではなく、十年前の花火を見たいと私は思ったのです。あの時の花火をあの時の彼と」
「それは、つまり彼とやり直したいと? もしあの時あなたが約束をすっぽかさなかったら、今頃は彼と幸せになっていたかも……なんてことですか?」
「いえいえ、そういうことではないのです」
「あれ、違った?」
「その逆なんです」
伊藤さんは思いがけず、軽やかに笑った。
「きっぱりさっぱり別れてやろうと。あの時、約束をすっぽかしたのは、別れを切り出す勇気がなくて逃げてしまったからなんです。その後もずるずると引きずってしまって、今も辛くて。みんなから呆れられています」
「みんな?」
「事情を知っている友達とか。私の時間はあの時で止まっているんじゃないかなんて言われています」
「なるほど」
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