火花を刹那散らせ
夏村響
第1話
作業の合間に顔を上げて時計を見ると、もう七時を過ぎていた。ついさっきまで仄明るい日の光が窓から差していたように思うのに、夏のこの頃になると時間が判らなくなるなあ、などと思いつつ……いや、この町は、そもそも時間の流れ方が少しおかしいと言われているから、季節なんて関係ないのかも、と思い直して、僕は窓際に行き、見慣れた外の風景を眺めてみた。
相変わらず、路面電車がちりちりと音を立てて緩く走り、その両側の歩道を帰宅途中らしきサラリーマンやOLが疲れた顔でそぞろ歩いている。その中でちらちらと目立つのは浴衣を着た人々だ。彼らは一様に楽しげで、友達同士、あるいはカップルではしゃいでいた。
「花火、楽しみだね!」
窓を通してでも女の子の嬌声がはっきりと聞こえてきて、そこでようやく僕は、今夜、夏祭りがあることを思い出した。隣の町だったか、確か桜川というそこそこ大きな川の河川敷で、毎年同じ日に開催される祭りだ。
そういえば、随分前に花火の事故があって、しばらく打ち上げ花火は自粛されていたのだった。今年から復活するということで、花火が好きな人たちは大いにはしゃいでいるようだ。
花火が打ち上げられるのは祭りの後半だ。この時間に桜川に向かう人たちはその花火が目当てということか。
さて。
僕は腕を上げて、うんと伸びをする。
そろそろ、店じまいとするか。
窓のカーテンを閉めようと手を伸ばした時、とんとんと静かなノックの音がした。
随分と控え目なノック。
僕は急いで近づくとドアをすぐに開けた。
相手を確認しないですぐにドアを開けるなんて不用心だと思われるだろうけど、こんな控え目なノックをするお客さんはまだどこかに迷いがあって、ドアを開くのが遅いと逃げてしまう恐れがあるのだ。
「いらっしゃいませ」
営業スマイルでそう言うと、ドアの向こうに立っていた女性は困ったように小さく頭を下げた。白地に紺の朝顔柄の浴衣を着ていた。
おやおや、祭りに行くついでに寄ったのか?
何やら奇妙な感じだな、そう思いつつもそれは顔に出さずに笑顔を続けていると、そのいかにも無害そうな彼女は、恐縮しながら言った。
「あの、ここは地図屋さんでよろしいでしょうか」
「ええ、そうですよ」
「あなたが……
「はい、僕が導です」
「ああ、良かった。あの、私……」
「ここで立ち話もなんですから、どうぞ、中に」
大きくドアを開けて、中に入るように促すと、彼女は素直に従った。作業台の前にあるソファーに座るように言うと、それにも素直に応じる。
僕は一旦、給湯室に引っ込んで、冷たい緑茶を用意した。ソファーの横の小さなテーブルに置く。
「どうぞ。今日は暑いですから喉が渇いているでしょう?」
「あ、はい。いえ……」
よく判らない反応をして、彼女は結局、緑茶の入ったグラスを手に取ることはなかった。
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