第30話 二つの記憶

 生まれた時より二つの記憶があった。一つは人間としてのおれの記憶。小さな村に生まれ、貧しく育った。もう一つは魔物としての記憶。生きているとき、意識は人間としての記憶にはっきりとあった。魔物としての記憶は常に遠い過去の、前世の記憶のような感じがした。でも不思議なことに、魔物としての記憶も成長とともに増えていくのだ。魔物の自分も貧しい家庭に生まれ、貧しく育った。一時は奴隷だったこともある。

 人間のおれはこの貧困から脱出するために、城の兵士に出願した。

 十五歳の時だったかな。

 だが奇しくも、おれは魔物の記憶の中でも、魔王に仕えるため魔王軍に志願したのだ。

 おれはずっと戸惑っていた。人間で十五歳になってはじめて、魔物の記憶の中のおれが魔王軍に出願したように、魔物の中のおれも成長している、年齢を重ねているように感じられたのだ。魔物の記憶が明らかに前世のものであるように感じていたのにもかかわらず、だ。

 二十歳の人間のおれは様々な勲章を得ながらも、いやしい生まれということで、出世が出来なかった。そうして失意の中ある小さな村に、駐屯兵ちゅうとんへいとして派遣された。体のいい厄介払いだった。だがおれはどうでもよくなっていた。田舎でのんびり暮らすのも悪くないと思っていた。

 二十歳の魔物のおれも同じく華々はなばなしい戦果を挙げながらも、生まれがいやしいせいでなかなか出世できずにいた。そして二十一歳、二十二歳と人間のおれは不自由なく幸せに暮らしていた。

 ところが魔物の中のおれは未だに軍でせっせと武功を立てていた。そしてついに、出会った。オブリ。お前と出会ったのだ。

 おれはオブリを仲間にして、魔王城へ帰還した。そこからすべてが好転しだした。

 お前は覚えているだろうか? お前は尋ねたな。「なぜボクを拾った」と。

 おれはお前にちかしいものを感じていた。力がありながら、スライムということで優遇されることもないだろうお前にな。もちろんそれはおれの勝手な想像で、お前と出会う前のお前をおれは知らない。

 一瞬で、おれはお前に親近感を抱いたんだ。馬鹿らしいだろう。お前は軽蔑けいべつするだろう。

 人間のおれも魔物のおれも、貧困の中でずっとずっと。憧れていた生活があった。王宮での生活だ。王や魔王の生活をおれは羨望せんぼうしていた。切望していた。

 あの時お前はどんな感情をおれに抱いたんだろうか。恨みか? 侮蔑ぶべつか? ともかくおれは、……お前に……お前を、勝手……勝手な感情を。

 おれは幼いころより、人間の記憶でも魔物の記憶でも貧しさと侮蔑ぶべつと弱さの中で生きてきた。貧しさと弱さに苛まれ、王宮という贅沢に憧れ。人間でも魔物でも、王宮の兵士になったおれは……お前もおれと同じく、そんなことを考えていないだろうかと哀れに思っていた。だから連れて行った。

 魔物のおれは、間もなく魔王の側近となった。おれは嬉しかった。オブリ、お前が側近となったこともおれにとっては嬉しい出来事だった。二十三歳だっただろうか。魔物のおれは幸せだった。では人間のおれは? 本来おれの主体は人間であるはずだ。魔物のおれは記憶でしかない。ただ記憶が人間のおれと同じく成長しているだけ。

 二十三歳になった時、おれはある女に恋をした。それがそこにいるドレスだった。彼女は勇者一行として、小さな村にやってきたのだ。

 オレの駐屯ちゅうとんする村は小さな村だが、温泉地として有名だった。勇者たちは戦いの傷をいやしに来ていた。おれはそこでドレスに一目ぼれをした。

 戦略もクソもなく、おれはあたって砕けろ、彼女に告白をした。勇者たちは別にこの街に長居をするわけではなかったから、おれは即座に行動に移す必要があったのだ。

 そして、これが意外にもドレスはあっさりと、おれの告白を受け入れてくれた。

 おれは有頂天だった。魔物の世界では魔王の側近、人間の世界では素敵な彼女を手に入れ、おれの人生はひどく充足していた。

 だがやがて、小さな人間の幸せに触れているうちに、魔物おれは虚しさを覚えるようになっていった。この王宮で、上り詰めて、それが何だというのだろうか。そんな虚しさを覚えていたのだ。不思議な事に魔物である記憶は、いわば前世の記憶のような気がするというのに、人間での生活が、魔物の記憶にも影響を与えているらしかった。おどろくべきことだった。

 小さい頃は、おれはこの話をよく友人や、親にしていた。魔物でも人間でもだ。だが、そのうち気味悪がられていることに気づき、もう二つの記憶の話はしなくなっていた。ただドレスには、この話をしてしまったのだ。

 一蹴されると思っていたが、ドレスは真剣におれの話を聞いてくれた。そして否定しないでくれた。何のことはない、後で知ったことだが、ドレスはおれの素性を知っていたわけだ。魔物の記憶のおれと敵対していたドレスだったのだ。もちろんおれはその時その事実を知る術はなかったが。

「何故信じてくれるんだ? こんな突拍子もない話……おれがお前の立場だったら、信じない」

 ドレスは曖昧あいまいに笑うだけで答えてはくれなかった。でも、おれはおれを受け入れてくれる存在が頼もしかった。

 そして、魔物側のおれは――遂に限界を感じた。貧しさによるコンプレックスや、空虚な日々。側近という地位に上り詰めながら、おれは心が空っぽでもはや耐えられなくなっていた。

「あとはさ、オレが魔王になるだけなんだ」

 自惚うぬぼれたおれの下らんセリフだ。魔王の前でおれはそう言った。

 謀反むほんだった。しかし謀反むほんを起こそうという気は、実のところほとんどなかった。死んでしまいたい。ただその気持ちしか持ち合わせていなかったのだと思う。おれは、無抵抗に死を受け入れるつもりだった。しかしおれは殺されなかった。

 魔王様はこんなおれを好いていてくれたらしい。僥倖ぎょうこう。恐ろしいほどの強運を感じた。

 魔王アイリスと結婚し、幸せになった。魔王側のおれは、オブリにソヨンに、そして無論魔王様に感謝し、幸せを享受した。

 人間と魔物――どちらのおれも幸せだった。



「本当に暗黒騎士ドノヴァだというのか?」

 オブリは驚愕に打ち震えていた。

 己の存在が、あのドレスから伝わっているのは理解できる。しかし、この男は、ドレスも知らないようなオブリとドノヴァの出会いを知っていた。その後何が起こったか、その話の内容も正確だった。

「だから言っているだろう、おれはドノヴァだ」

 男の言葉に、イリスもフィリもただ茫然ぼうぜんと彼を見つめるしかなかった。

「信じられん……」

 それは魔王オブリュッドも同様だった。魔王は茫然自失ぼうぜんじしつであった。

「だとしたら、お前は、何故! 魔王様の味方をしない、何故敵側で立っている!」

 イリスが憤怒ふんどあらわにする。

「……救済だ」

 ドノヴァは答える。

「救済? どういう意味だ?」

 オブリュッドはドノヴァを睨む。

「オブリ、前は今も繰り返しているのか? もしもここでお前が死んだとしたら、お前はまた生まれ変わるのか? 記憶を引き継ぎ、知識を引き継ぎ?」

「そうだ。何年も死なぬ存在、それが余なのだ。であるならば、どうした? 同じ事だ。結局ボクがこの六百年を生きていたことには変わりない」

 オブリは言った。

「だったらお前の人生はいつ終わるのだ?」

「終わりなどない。これから一生、ボクは魔王として生きていく。ただそれだけのことだ」

「スライム……最弱に規定された、弱き魔物――だが、その弱き魔物の集合体、その存在がお前だ……いくつもの魂を束ねた、呪われた存在。それがお前だ」



 おれはしかしすぐに聞かされることとなる。

 魔王アイリスから、そして魔法使いドレスから、二つの真実を。

「あのスライムのことだが……」

 魔王は重々しい口調で切り出した。

「あなたのことだけれども」

 ドレスは重々しい口調で切り出した。

「千里眼の水晶というものがあってな。余の片目にはその破片が埋め込まれている」

 魔王はよく分けのわからないことを言う。

「私は魔法の研究者でもあった。私の開発した魔法の中には、時空を跳躍する魔法もあるの」

 ドレスはよく分けのわからないことを言う。

「この水晶玉、そのものの本質や心、あるいはたましいをわずかばかり見通すことができる。これですべてが分かるわけではないし、すべてが見えるわけではない。ただ、これで、例えば裏切りの兆候なんかがわかる。それで、この間の裏切りは発覚したのだ」

「はじめは時の金属の能力をやや増幅する、その程度の力しか持っていなかった。"やや"ていうのは、ちょっと控えめかもね。かなり、増幅する。つまり、本来数十分程度しか時間を戻せないのに対し、私の魔法で数時間戻すことができるようになったの」

「それでな、我はこの目で、お前のこともソヨンのことも……そしてあのスライムのこともなんとなく見えるのだ。でもなオブリ、あれはまずい」

「信じてもらえないかもしれないけれど、私はこの魔法を使って、別の世界から来たの。私の能力は、かつてよりはるかに進化した」

「スライム……オブリ、あいつはな<呪い>でできている」

「私の魔法だけではないんだけどね。正確には時の金属とオリハルコン、金属の合成が鍵なんだけど。それを教えてくれたのが、ある魔王なの」

「オブリ、あいつは幾つもの複合体、魂と魂の束に、がんじがらめで縛られている。いわば呪いの鎖、それがあいつだ。あいつはな、おそらく何度も何度も人生を繰り返している。理由はわからない、おそらく種族の弱さが、恨みが、呪いとなってあのスライムに結びついたのだろう。あるいは、その呪いがあのスライムを生み出した、と言ってもいいかもしれぬ」

「その魔王は、……別世界では魔王ではなく、魔王の一側近だったわ。でもね、次元を飛び越えたの。次元を飛び越えた、っていう表現は正確ではないかもね。そうならざるを得なかった、ていうか、結果としてそうなった。現在魔王のそいつは……私と同じ世界から来た。つまり私も今の魔王は別次元の存在なの」

「あいつはこれから、何度も何度も生まれて死に生まれて死に、そんな呪われた一生を過ごすのだろう。終わりの見えない、呪いのような一生だ」

「そしてね、その別世界では、あなたも魔王の側近だったのよ。あなた言っていたわよね。記憶が二つあるって。じゃあ、あなたの記憶にもそのうち私が出てくるわ」

 おれは――無論魔王の話にも、そして目の前のドレスの話にも戸惑った。

「「信じられない」」

 おれは二人に対してそう返していた。

「信じられなくとも、それが真実。最弱種という運命の怨嗟がひとつの鎖となって、あのスライムに巻き付いている。その怨嗟えんさの運命は、スライムと最弱種族を、最強の種族へと昇華させるために作り上げた呪いの産物として、あのスライム・オブリを生み出した。おぞましい存在」 

「信じられなくとも、それが真実よ。魔王に戦いを挑んだ私達勇者一行は、魔王達に敗れたの。正確に言えば、魔王は殺したし、その側近も殺したけど、勇者や私の仲間は死んだの。だから、……私は時の金属と私の魔法で、戦う前に戻った。つもりだった。実際は、それよりもっと時間が戻っていたの。私の編み出した魔法と時の金属では、せいぜい二時間程度しか時間が巻き戻らない。それが七日も時間が戻った。巻き戻った……」

「可哀想に、あいつは、あのスライムは、スライムという種族の怨嗟をたった一人の個体が背負っているのだ」

「原因は今の世界の魔王だった。あの世界では、スライムなんだけれど。スライムは、時の金属の能力を私の魔法とは別のアプローチで強化していたの。信じられないかもしれないけど、その世界でスライムだったやつが、今の魔王なの」

「余はな、いずれあのスライムを殺そうと思う。スライムが、哀れでならない。呪いにがっしりとつかまれているあのスライムを、解放しようと思う」

「私はそれから時の金属と私の魔法を駆使し、何度も何度も繰り返しループし、魔王に戦いを挑んだ。装備を整えたり、奇襲をしたり、戦術を変えたり、でも結局ね、倒せなかったの。いつもいつも、あのスライムが邪魔をするの。あれが、あいつさえいなければ……」

「どうする、余の話をスライムに伝えるか?」

「それで、その戦いの過程で、私とスライムは、ついに時の金属を恐ろしい存在と変えてしまったの。六百年という時間を遡る、強力なアイテムに変えてしまった」



「どうする、余の話をスライムに伝えるか?」

「いいえ……あいつが呪われた連鎖に居るのなら、オレもその鎖を断ち切ります」

 魔物のおれは、そう魔王に応えた。

「そうか、余は嬉しいぞ」

「いや、オレが連れてきた魔物だ……オレが責任を持つさ。しかし具体的にはどうすればいい?」

「うむ……精霊の剣が必要だ」

「精霊の剣?」

「そうだ、精霊の剣は人間界最高峰の武器だ。魔王さえも穿うがつという、恐ろしい武器。魂を滅却めっきゃくするといういわくつき。本来それは我々にとって天敵なのだがな」

「それを使えば?」

「そうだ、しかし場所はわからぬ……もしかしたら、勇者が持っているかもしれない」

「勇者だな、勇者を探せばいいんだな」

 おれはそれから勇者を探す旅に出た。



「それで、その戦いの過程で、私とスライムは、ついに時の金属を恐ろしい存在と変えてしまったの。六百年という時間を遡る、強力なアイテムに変えてしまった」

 ドレスは言った。

「……六百年未来からやってきた……それがおまえと魔王の正体というのか?」

「いいえ、六百年未来と言う表現は的確ではないわ。別世界、別の時間軸と言った方がいいかもしれない六百年過去に来て、その後すぐ、正確には二年後に、未来への飛び方を編み出したの。その魔法で、六百年時間を飛ばしてここに来たの。六百年さかのぼって六百年未来へ行った。差し引きゼロってわけ。でもね、同じ世界ではなかった。この世界での魔王は、あのスライムだったんだもの。私がいた時の魔王とは違うは。私と同じように未来に飛んだのか、あるいは六百年過ごしたのか、それは分からないけど。世界は書き換えられた……信じ難いでしょうけれども」

「信じるよ」

「え?」

「お前はおれの二つの記憶を信じてくれたから」

「そう、ありがとう。嬉しいわ」

「でも、お前の話によると、おれはお前の敵なんだろう」

「そうね、そうなるわね。私があなたと恋におちた――のはふりでしかないわ。実をいうと、殺そうと思ったの。すぐに。あなたは魔王の側近で、勇者の兄を殺した敵だね。どうする、私を殺す? 私と闘う?」

「いいや、だっていまのおれは人間だし、それに――」

「それに?」

 それに、おれは、約束をしたんだ。いや、約束をしたのはおれではなく……。ともかくオブリを解放してやらねばならない。

「いや……なんでもない。殺すというなら、殺してくれ。おれはお前のひとめぼれしたんだ。ショックではあるが……しかし、なぜ殺さなかった」

「なぜでしょうね。分からない。けれども、殺せなかった。私は、何をしているんだろう。今でも思うの。勇者たちから離れてここで、宿敵と一緒に過ごして何をしているのだろう……と」

 ドレスとおれの間に沈黙が流れる。

「おれは、魔王を倒さねばならない。この世界の魔王を。それなら……武器が要る」

 おれは唐突にそう切り出した。ドレスは俺の言葉に目を丸くした。

「武器? そりゃあ、まあそうね。この世界の勇者は、王者の剣っていう大層な武器持ってたけど。うーん、どういう武器が必要?」

「精霊の剣」

「え? ……それは行方不明なのよ。私がこの世界の勇者と冒険した時も、それを探していたんだけれども、ついに行方がわからなかった。それに前の次元……前の世界でも同じだった」

「そうか……しかし探すしかない」

「どうして? それがないとだめなの?」

「ああ、スライムあいつは……あいつを殺すにはそれが必要だ」

「そう……そうか……じゃあそれであの時……」

「え?」

「なんでもないわ、行きましょう。有るとすれば、おそらく精霊の住まうと言われている山、イゲルにあるわ」

 こうしておれとドレスは精霊の剣を探す旅に出た。



 暗黒騎士としてのおれは、つまり魔物としてのおれはすぐさま勇者に辿り着いた。

「お前が勇者か」

「お前は魔王の手先だな!」

 勇者は……はっきり言えばみすぼらしい姿をしていた。び付いて色あせた鎧は、いたるところに傷を見いだせた。道具袋には刺繍ししゅうした跡がある。当然、かぶとにも傷があった。

「本当に勇者なのか?」

「そうだ! 悪いか!?」

「悪くはないさ、さあ戦おうか」

「望むところ、消え失せろ、魔王の手先!」

 勝負は一瞬でついた。勇者の振り上げた両腕。振り下ろされる、剣。

 確かに速く、重い剣撃だ。だが、おれはそれを弾く。勇者は会心の攻撃がミスしてしまったとすぐさま悟り、飛び退こうとしていた。おれは弾いた反動を全身に受けていた。力強さを感じる。

 だが、おれのほうが強い。おれは追撃した。逃げを許さない。

 ひゅん、と振るった剣は勇者の右腕をふっ飛ばした。切り口から鮮血が吹き出、おれの顔にかかった。おれは思わず目をつむり、目に血が入るのを防ぐ。おれも飛び退く。すぐさま衝撃波がおれを襲う。何らかの魔法を使ったのだろう――

 大した威力ではなかった。おれは目を見開き、勇者を見据えた。剣を構える。勇者も同じだった。左手で剣を持ち、おれと相対していた。もう既に勝負は着いているというのに。

 おれは上段に剣を構える。

「勇者よ、死ぬ前に聞くが、その剣はただの鈍らだろう?」

「……鈍らではない、これは父上の形見だ」

「そうか。精霊の剣か?」

「違う、これは父の形見だ」

 おれは失望した。実のところ相対した時から、失望していた。こいつは、勇者かもしれないが、精霊の剣を持っていない。勇者の持っている剣は明らかに、ただの鈍らだった。

「勇者よ、オレは興味が失せた。腕一本で済んでよかったな、消え失せるがいい」

 勇者は精霊の剣を持っていなかった。ではどこに有る。おれは剣を降ろし、考える。どこかの王様の宝物庫にでもあるのか?

「おれは、まだ戦えるぞ、おれは勇者だ。勇者、クエト! 魔物に負けるわけにはいかない!」

 勇者は吠えた。回復魔法で傷口を防いでいるようだった。しかし腕が再生するわけではない。

 片腕で戦えるほど、戦いというものは甘くない。元来隻腕せきわんならともかく、こいつは今しがた片腕になったのだ。あんな鈍らを持ったままバランスが取れるわけがない。

「うおおおおおおおおおおおお!」

 勇者はそれでも突っ込んでくる。その突撃を躱すのは造作も無いことだった。躱して蹴り飛ばす。勇者は無様に地に伏した。

 おれは剣を構えた。とどめを刺そう。おれは勇者に同情していた。みすぼらしい勇者よ。さらば。勇者は死んだ。おれは勇者の首を切り取り、袋の中へ放り込んだ。

 おれは帰還した。

 何故だろう。なぜかはわからない。勇者を始末した、ではなくおれは勇者一行を始末した、と魔王様に報告した。なんとなく、哀れに思った。なぜかはわからない。おれはただ一人戦っていた勇者を哀れに思ったからだ。かつての自分と勇者を重ねているのかも知れなかった。孤独のおれと孤独の彼を重ね見ているかもしれない。

 おれの右手には勇者の首があった。

「ドノヴァ、君ってデリカシーってものがないんだね」

 オブリが言った。



「どうしたの?」

 旅の途中、魔法使いがおれの顔を覗きこんだ。

 焚き火の炎がまだ弱々しく残っている。そうだ、おれは寝てしまったのだ。

「おれが……」

「?」

「勇者クエトを殺した、この手でだ」

「……そう」

「……容赦なく殺した」

「……なら、そのうちあなたは私たちに殺されるはずだから」

「どういうことだ?」

「あなたが殺した勇者には弟が居たの。勇者を殺したあなたに復讐するため、私や弟があなたを探し出し、あなたを殺すの」

「そうか……」

 魔法使いは震えていた。おれも震えていた。

「お前は、あの勇者と顔見知りか?」

「ええそうよ、彼の死を聞いて、私は憎んだわ。魔族をね、全てを憎んだ」

「……そうか」

「……そうよ」

「すまなかった」

「今のあなたが謝っても仕方ないわ」

 返す言葉はなかった。

「もう寝ましょう、体力をつけて、歩かないと」

「ああ、そうだな。精霊が住まうと言われる、イゲルの山か……そこにあるかな、精霊の剣」

「有ることを願いましょう」

 ドレスは氷の呪文を唱え、炎を消した。おれはゆっくりと目を閉じた。そして眠りについた。



「そうか、勇者は持っていなかったか」

 おれは魔王城に帰還していた。報告のためにだ。

「はい」

「とすれば、精霊の住まうと言われている山、そこか。あるいは、人間のどこかの国の王が、持っているのかもな」

「その可能性はオレも考えた。そうなると、長いこと先の話になりそうだな」

「ああ、どうする?」

「とりあえずまた旅に出るさ、今度はその精霊の山に行ってみよう」

「死ぬなよ、お前は余の夫なのだから」

「善処するさ」

 とはいっても、すぐさま出発はしなかった。無策に行っても、無駄足に終わる可能性がある。情報収集をしてから、出発することにした。

 そんな中、勇者が生きている情報が飛び込んでくる。正確には、あいつには弟がいた、という話だった。そうか、勇者一族の血はまだ断たれていないらしい。

 そうか、ならその勇者こそ、精霊の剣を持っているかもしれない。おれはそう考えた。

 そしておれは再び出発の決意していた。精霊の剣探しの旅。オブリを殺すための旅だ。

「なあオブリ」

 出発を目前に控え、おれはオブリに問いかける。

「ん?」

「オレを恨んでいるか?」

「恨む……? とんでもない、ボクはキミを恨んでなんかいないよ」

 オブリは笑って言った。

「そうか」

「感謝しているよ」

「本当に?」

「本当だよ。たががスライムのボクに目をかけてくれたんだから」

 おれは、おれは張り裂けそうだった。意味がわからなかった。おれは今まさに、おまえを殺すために旅に出ようとしているのに。

「たかがスライムって……そんなことないだろう。お前は優秀なスライムだ。こと魔法においてはかなりやり手なんだろう? ソヨンから聞いたぞ。古代魔法とか研究しているそうだな」

「そうだね。最近は時の魔法を研究している」

「それは凄い」

 そんなことを言いながら、おれはその研究の成功を切に願った。すべてがなかったことになればいい。このスライムとも出会わなければよかった。出会いを消し去りたい。

「時にドノヴァ、魔王様は子供を産まないのか?」

「え?」

「もう結婚して一年経つだろう。そろそろ世継ぎのことを考えてもいいんじゃないか?」

「あ、ああ……そうだな」

「何か問題でもあるの? 最近よそよそしい気がするけど」

「その喧嘩したんだ」

 喧嘩したのは事実だった。魔王は、おれ単身で精霊の剣を探すのを反対していた。魔王の全勢力を使えば、おれ一人が剣を探すよりも楽だろうと考えていた。

「まったく君たち夫婦はいつもそうだね」

「……面目ない」

「今度は何? 魔王様の楽しみにしていたプリンを勝手に食べたとか?」

「そんなバカげたこと、オレはしない。……オレ旅に出ようと思って」

「また? この間も勇者を倒すために旅に出たんだよね?」

 オブリが言う。どこか羨望せんぼうの眼差し。実際は違うさ。お前を殺す旅だ。

「ああ、そうだ。でも、どうやら勇者には弟がいたらしい」

「なるほど、それが新たな勇者ってわけか。しかし勇者っていうのはどういうシステムなんだ? 血族か?」

「そうなるんじゃないかな?」

「かつての英雄の血を引いてたら、それが勇者か」

「しかし、実際勇者は強い」

 あの時の戦いを思い起こす。一瞬で勝負がついたとはいえ、勇者、あいつは確かな実力を持っていた。

「ふーん、そうなんだ。血が強さを決定づける……ある意味我々魔族みたいなシステムなのかな? 普通の人間はスライムで、勇者という血族は生来から、ドラゴン種のような力を持つ、とか」

「さあな、まあそういうわけだから」

「はいはい、しっかり留守番しとくよ」

「お前は来ないのか?」

 そしておれは、心にも思っていないことを口にした。殺す相手を旅に誘うなど。

 いや、違う。違うのかもしれない。おれはこいつをただ一人で、殺す。そうしたかったのだ。魔王にも迷惑をかけず、おれが片付ける。これはおれの問題だ。おれの、おれが、……

 短い期間の相棒。相棒だ。短い期間でも相棒だ。だからおれが、お前を救うさ。

「いや……遠慮しておくよ。ここを守っておこう。研究も中途半端なんだ」

 スライムはそう応えた。

「そっか、了解だ」

 おれはその時どんな顔をしていただろうか? オブリの返事に肩を落としたのか? あるいは、安堵あんどしたのか。



 イゲルの山は険しい山だった。昼までは天気が良かったのに、夜になると吹雪始めた。不思議だった。そもそも、山のふもとでは雪など降っていない。

 ドレスはおれたちの周りに球体の赤色い光をともす。それが熱源となり、寒さを防いでくれていた。しかし、さすがに、この雪山で一晩は過ごせないだろう。標高の高い山ではないものの、長く連なっている上に、<剣を探す>という目的がいつ果たされるかわからない旅だ。寝具など持ってきてはいるが……さすがに夜は越せないだろう。

「おい。ここで夜を明かすのか? 一旦降りて装備を整えたほうがいいんじゃないか?」

「構わないわ」

「何故?」

「魔法があるもの、この赤い炎の球体。少なくとも一週間は消えないから」

 魔法とはそんなにも便利なものなのか。おれは驚嘆きょうたんする。

「それに、寒いのは慣れているわ。こんな雪山、私にとっては、どうってことないわ」

「お前雪国出身なのか?」

「いいえ、そういうわけではないのだけれども」

「まあ、魔法で炎が有るにしても、体力や魔力持つか? 大体どうやってここで、こんな広大な山脈で剣を探す? あてはあるのか?」

「あるわ……」

「……どんな?」

「あなたが言ったもの」

「は?」

「あなたが言ったの。魔物のあなたがね。剣は、イゲルの山にあるって」

「……おい、行方不明じゃなかったの?」

「行方不明だったわ、あの世界、つまり私が本来いた世界では、私たちあなたの言葉を信じてなかった。だから探さなかったわ。それに、こっちの世界、あなたが人間の世界では、探しはしたけれど見つからなかった。それに王者の剣もあったし、それで満足したの」

「……そうか……まて、それじゃあ、魔物のおれは、精霊の剣を見つけたというのか?」

「ええ、そういうことになるわね。魔物のあなたは今どこにいるの?」

「おれは……おれは……」

「魔物のあなたはどこに居るの?」

 ドレスは、再びぞっとするような冷たい目線で、おれを射抜き、そして尋ねる。



 おれはイゲルの山にいた。魔物のおれだ。そして、山頂から外界を見下ろしていた。と言っても降り注ぐ雪が視界を悪くさせていた。

 精霊の剣――おれにはそれがある場所がわかった。あれは嫌なものだ。嫌な空気が、おれにとって、魔族のおれにとって嫌な空気がどんよりと流れこんでくる。あっちか。

 魔族のおれにはそれがわかるのだ。嫌な、何かとてつもなく嫌な、空気。

 視界は悪かったが、そちらの方へとゆっくりと進んでいく。気配にそって。

 足場は悪く、寒さとともにおれの体力はどんどん奪われていく。

 だが、おれはアレを手に入れなければならない。そう感じていた。アレを手に入れなければ。

 そうでなければあいつの一生を終わらせることはできない。

「あれか」

 異様な雰囲気を放つ洞窟があった。あの中にあるのだろう。



 洞窟……? 記憶が重なる。魔物のおれも、人間のおれも今はイゲルの山に居る。吹雪の吹き荒れる精霊の住まう山に。

「洞窟だ…………あっちだ! いくぞ」

 おれは魔物の記憶を頼りに、その洞窟を目指す。魔物の『おれ』の記憶を辿るのだ。



 辿り着いた瞬間、おれには分かった。ここにあると。洞窟の奥深く、そこにおれの求めている物がある。ひどく嫌な空気が、流れてくる。ここにいるのはひどく、ひどく疲れ、嫌だった。

 ここは。魔物が来ていい場所ではない。そんじょそこらの魔物であれば、絶対に入れない場所だろう。あるいは、おれや魔王様のような魔物こそ、入るのを拒絶する場所かもしれない。

 精霊の剣――おれは見た瞬間、それを認識した。

 桃色、いや紫色。刀身から柄まで、全身紫の禍々まがまがしい剣が、そこには突き刺さっている。禍々しい。あまりにも禍々しすぎる。

 剣?

 何かのエネルギー体が、かろうじて剣の体を保っている、といったほうが正確かもしれない。そう思った。それは、はっきり言ってデタラメの剣だった。おれは、しかしこれならあのスライムのやつを解放かいほうしてやれるのではないか。そんな考えを抱いた。

 さして長い付き合いでもないあいつを、おれは何故救済しようとしたのだろうか。わからなかった。でも、しなければならない。あいつはおれの相棒だから。

 この剣を使えば、救済できる。おれは右腕をつきだし、それを手にした。刹那――おれの右手は消し炭のように吹き飛んだ。

「は?」

 おれ自身の体も吹き飛ばされる。痛み、激しい激痛が右手を起点に、体中を駆け巡る。

 


「どうしたの?」

 おれは右手を抑えていた。吹き飛ばされた!?

 いや……おれの右手にはちゃんと、付いている。吹き飛ばされてはいない。しかし妙な違和感がおれを襲い、それは止まない。

 ……魔物のおれの記憶がリンクしているのなら、痛覚や触覚もリンクしているということなのか? しかし、なんだあの剣は?

 あれが精霊の剣なのか?



「これが精霊の剣なのか?」

 おれは悟った。一瞬で。これは、おれが持てる武器ではない。体中のすべてが拒絶している。

 これ以上触れるべきではない。触れてはだめだ。

 触れただけ。ただそれだけで、おれの右腕はふっとばされた。

 どうすればいい。どうすれば……どうやって持って帰る? いや、持って帰った所で、どうやってこの剣でスライムを切りつけるのか?

 待て、場所は見つけたんだ――これをアイリスに報告すればいい。

 ……報告すればいい? だが、いったい、魔王軍の誰がこの剣を扱えるというのか?

 なるほど、これは魔物にとって天敵の剣というわけだ。触れるだけで、この有様。人間が手にすればどれほどの脅威きょういとなるか。存在自体が、おれにとってはおぞましく感じる。

 いや、いや、いや。だからこそ、オブリの因果もこいつで断てるってわけか。

 だとしてもその方法がない。どうすればいい。どうすれば……

 どうすればいい。精霊の剣。眼の前に有るというのに、おれはこれを扱えない。



「あれね」

 紫に禍々しく光る剣。精霊の剣。

「あっさり見つかったわね、あなたの記憶のおかげね」

「……」

「さあ、抜いて行きましょう」

「待て」

 剣に手を掛けようとしたドレスを静止する。

「何?」

「魔物の時のおれは、これに触れた瞬間、爆発した」

「それはあなたが魔物だったから。人間なら問題ないわ」

 ドレスは何の躊躇ちゅうちょもなく掴みとった。何も起きなかった。

「そうか。何も起きないか」

 確かに。嫌な感じは何もしない。

「後は下山するだけね」

「そうだな」

 おれもその精霊の剣に触れる。爆発はしない。嫌な感じもしない。それはおれが人間だからか。そして、これが魔王を殺す剣。オブリの因果さえも切断する剣。



 おれは下山していた。正直に言えばお手上げだった。見つけたのに、おれはそれに触れることができない。ではスライムをどうやって殺すのか……おれが辿り着いた方法はひとつしか残されていなかった。下山し情報を集めた。勇者一行の情報を。

 そして、ついに彼らに辿り着いた。

「勇者一行か」

 おれの前に立ちはだかる男女たち。勇者たち。その中には魔法使いの姿も見えた。そう、魔法使いアーキュラス・アラ・ドレス……いやまて、おれはこいつらとは初対面のはずだ。何故知っている? 名前もお互いに名乗っていないはずだ。

「お前は……ドノヴァか!」

 勇者らしき人物が叫ぶ。

 何故知っている? 記憶が、そうだ、おれには生まれた時より二つの記憶があった。一つは魔物としてのおれ。もう一つは人間としてのおれ。

 そしておれは魔法使いに会っている。どこで? 人間の記憶で?

 おれは……伝えなければ。何をだ?

 魔法使いが……ドレスが杖をおれに向ける。

 勇者、魔法使い……二人に会っている。そして知らない女。こいつには会っていない。もう一人ガタイのいい男。戦士か……こいつにも、会っている。そして武闘家? こいつにもあっている。白髪の男。こいつは……こいつには知らない。……彼らは、そうだ、勇者一行だ。ドレスと共に温泉の町チピリタ、『おれ』の駐屯所に訪れた勇者一行。

 ……伝えなければ。そうだ伝えなければ。

「ここで、大ボスに遭遇ってわけかよ」

 戦士が剣を構え今にも飛びかかろうとしていた。

「ようやくお前を殺せるのね、ドノヴァ。っは、片腕を失っている今なら容易く殺せる」

 ドレスが言った。おれのことを知っている?

「兄の敵か……許さんぞ、何度でも殺す!」

 跳びかかる勇者。だが攻撃は極めて直接的で分かりやすく、おれはあっさりそれを捌く。

「っち、まだだ」

 再び斬撃。攻撃の筋は速くそして重いものの、分り易すぎた。それを弾いた。片手でも楽に戦えた。しかし、違うのだ。こんなことをしている場合ではない。

「死になさい!」

 ドレスが魔法を唱える。その魔法はおれにとっては防ぐまでもなかった。オブリ、あいつの魔法のほうがよっぽど強い。

 そうオブリだ。オブリを殺すために。伝えなければ。

「はああああああ」

 戦士が突っ込んでくる。冷静な攻撃で、勇者に比べると、より鋭さを感じた。かろうじてそれをかわす。続けざまに勇者の斬撃。ドレスの魔法。勇者一行は手数多く攻めてくる。更に後ろにいる女が、魔法で補助をしているようだった。

「なるほど勇者一行か、強い」

 おれは笑った。

「っち、相変わらず強いな。相手は片腕つーのに、おれたちをあしらっている」

 戦士が吠える。

「だが負けないさ!」

 勇者も吠える。

「負けない? 愚かな勇者ども! 片腕を失ったオレに苦戦するようでは、魔王様に勝てるはずもない! そう、精霊の剣さえも持っていないお前ならんに勝機などないだろう」

「精霊の剣?」

 勇者はいぶかしげにおれをにらみ問う。

「っち、何回目だ。精霊の剣って、そんなもの本当にあるのか?」

 戦士が口を開いた。

 何回目? 精霊の剣の話を聞くのは初めてではない――? であるならば――

「有るとは思っているわ。文献に何度も出てくるし。でも、どこに有るかまでは」

 魔法使いも、アーキュラス・アラ・ドレスも口を開いた。さっきまで一緒に居たはずの女。いや、そうか、彼女だ。おれは唐突に理解した。

「知らんのか、では教えてやろう。ここから北、イゲルの山、そこに眠っている」

 おれの言葉に勇者一行は動揺を見せた。

「何故貴様おれたちにその事を教える?」

 勇者は疑いの眼差しをおれに向け、切っ先を向けた。

「勇者、罠だ。聞くな」

 白髪の男がいさめた。

 これでいい、とおれは思った。これでおれの職務は全うされたはずだ。ドレスがおれの言葉を聞いている。これで、だから、終わった。おれの役目は終わった。

「勘違いするな。お前ら勇者一行はここで死ぬ。ただそれだけのことだ」

「冥土の土産ってわけですか」

 そこで初めて後ろで補助に回っていた女がつぶやく。

「そういうことだ」

「それはいい土産を、残してくれましたね」

「何?」

「冥土へ行く前に、いい土産を残して頂きました。神に感謝しなければ」

 背後で補助に回っていた女が言った。

「さっきから何を……! 体が動かない……!」

 魔法だった。その女は魔法で、おれの体を縛り付けている。

 白髪の男が飛び、短刀でおれを斜めに斬りつける。続けざま勇者の攻撃。

 灼熱しゃくねつの痛みが『オレ』に襲いかかる。

 これでいいのだ。これで、オブリ。お前は救われる。百という一生の繰り返し、そしてこれからも続くであろう繰り返し、その因果の鎖から解き放たれる。

 最後に魔法使いが、杖を構え、魔法を詠唱していた。

 おれは、笑っていた。『オレ』は笑っていた。



「うわあああああああああああああああああああああ」

 おれは叫ぶ。

「ど、どうしたの?」

 隣には魔法使いがいた。おれにとどめを刺した魔法使いドレス。赤い色の髪の長き魔女。翡翠の双眸。おれのもう一つの記憶、最後に見た女性。それが君だった。

「おれが死んだ」

「え?」

「お前に殺された」

「……そう」

「あまりいい気分ではないな」

「それは、そうでしょうね」

「ここは……どこだ?」

「まだ、イゲルの山よ。眠ってたの私達」

「そうか」

「夜はまだ浅い、眠りましょう。ゆっくり休んで、山を降りて、それから魔王を倒すわよ」

「そうだな、この剣が、オブリを消滅させる」

「そうよ」

「今は眠りましょう」

「ああ」

 おれは目をつむる。

 目をつむり記憶の一つが消滅したことを確認する。おれの世界がひとつ消え去ってしまったことを実感した。魔物のおれは、死んでしまったのだ。たしかにおれは死んでしまったのだ。それは、悲しいことだ。けれども最期のおれは笑っていた。何故なら相棒を救えるのだから。人間のおれにつながった。この精霊の剣がオブリ、お前を救うのだ。

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