第26話 魔王と暗黒騎士とサキュバスとスライムの幸福話

 こうしてドノヴァと魔王は結婚した。

 二人は幸せに、いつまでもいつまでも仲睦なかむつまじく――


「やあ、ドノヴァ」

 研究室から私室に帰る途中、オブリはばったりドノヴァに会った。魔王とドノヴァが結婚してから、早一か月が過ぎた。この一か月オブリは魔法の研究に明け暮れていた。魔王の側近という身分を最大限に利用し、魔王城内の研究施設を我が物顔で用していた。疎まれはするが、最近では、オブリの博識さや魔法の実力を何人かの魔物が実感し始めていた。

 研究室所属の魔物の間では、オブリは変身魔法によりスライムとなって、魔王の護衛をしているのだ――そんな噂がまことしやかに流れている。

「スライムか」

 ドノヴァが笑う。この一か月で、ドノヴァとオブリは親しい友人の様な関係になっていた。そのため、オブリはドノヴァに対し、特段丁寧な言葉を使わず、ドノヴァもオブリをよくからかった。例えば今のように、名前で呼ばず「スライム」と呼んでくる。オブリは特段その事を気にしない。何も感じなかった。

「どう? 魔王となった気持ちは」

「オレは魔王じゃない。ここでオレは十分だ。魔王になる必要はない」

「実質魔王じゃないか」

「うん、まあそうだが。しかしオブリ、お前も出世ではないか」

 ドノヴァが魔王と結婚し、側近その三だったオブリは、側近その二に繰り上がった。

「そりゃ出世だけど、繰り上がりじゃないか」

「いやいや、スライム種で魔王様の側近だなんて大した出世だ。オレの目に狂いはなかったな」

「それだけど、何故ボクを拾った? この間は、ピンと来たと言っていたが」

 オブリはその事に拘る。オブリとドノヴァの仲は良い。しかし、オブリは未だに、ドノヴァに、時折憎しみの感情、あるいは羨望せんぼうの感情が沸き起こる事があった。そしてその感情の行きつく先には、いつもこの疑問がある。何故ボクを拾ったのか、という。

「…………あれはさ」

 しばらくドノヴァは口を閉じ、何か考えているようだった。数秒の後口を開く。

「お前強いだろ。オレほどじゃないけど。でもそんなスライム存在しないんだ、この世界にお前ほど強いスライム存在しない」

 あまり納得のいかない答えだ。違うはずだ。いや、あるいは違っていてほしいのかもしれない。

「だから拾った?」

「そうだ。ほとんど興味本位だ。お前ほど強いスライムはいない」

「そうか。そうか、ボクはただの、お前にとってただの……玩具おもちゃに過ぎなかったわけだ」

 オブリの言葉にドノヴァはしばらく口をつぐむ。そしてしばしの後、無表情に「そうだ」と言い放った。

 オブリは何の感情も感じなかった。

 


 憎悪。それはある。ドノヴァに対して憎悪の感情はある。しかし感謝もしていた。

 結局よくわからない。上っ面では、ドノヴァとオブリは仲良しだ。

 しかし、心の内で、オブリは憎悪を感じていたし、羨望せんぼうもしていたし、しかし同時に感謝の念を忘れたこともなかった。

「魔王様……」

「ん?」

 オブリは魔王の部屋にいた。そして魔王に抱き寄せられ、でられていた。抱き寄せられと言っても、オブリの体は小さい。魔王よりも遥かに、だ。

「ボクは人形じゃないんですけど」

 魔王は、嬉しそうにオブリをでる。縫いぐるみを扱う子供のようだ。オブリは辟易へきえきする。

「おう、すまなかった。ついな。しかし、スライムとはまこと可愛い生物であることよ」

「ドノヴァが嫉妬しますよ」

「っは、あんな奴! 全く、勇者どもを倒しに行くだなんて……余を置いて」

 ドノヴァは今、城を空けていた。勇者を倒しに行っている。オブリがかつて、憎んだ勇者をだ。むろん、あの時の勇者はもう生きてはいまい。この時代の勇者を倒しに行っている。

「勇者を倒しに行くか……魔王様の夫になったんだからそんなもの軍でも使えばいいのに」

「そうだろう、オブリの言う通りだ」

 魔王は溜息をついた。

 その時、

「魔王様! 只今戻りました!」

 声が聞こえた。ドノヴァの声だった。

「ドノヴァ! か、帰ったのか」

「このとおり、勇者の首を」

 ドノヴァは白い包みを解く。中には真っ赤な血で染まった男の顔があった。

「ドノヴァ、君ってデリカシーというものがないんだな」

 よりにもよって、乙女の部屋にずけずけと、血塗ちまみれの人間の首を持って入ってくるなんて。どうかしている。

「おお、オブリか」

 ドノヴァはオブリの言葉には取り合わず、笑う。

「アイリス――勇者一行は倒してきたぞ」

 アイリスとは魔王の名だった。ドノヴァと魔王は公式の場でない限り名前で呼び合っている。

「勇者一行を倒すとは、さすが余の夫だ」

 オブリの心配をよそに、魔王アイリスは人間の首に微塵みじんも動揺を見せなかった。乙女――というのは、間違いであるか。オブリは心の中で笑う。

 勇者か……己の目標出会った一つだ。己も勇者を倒したかったな。オブリは思う。

 ドノヴァは魔王と同等の地位を得、勇者を倒した。どちらも己が成し遂げたかったことだ。それを容易く、ドノヴァが成し遂げたのだ。己とドノヴァは似ている、と思ったこともあるし、彼に憐憫れんびんの感情を抱いたこともある。しかし、やはり違うのだ。オブリは痛切に、実感した。種族の異なりは決定的にまで違うのだ。



「ソヨン」

「なに、私今から書類整理で忙しいんだけど」

「手伝うよ」

 その日オブリは特にする事もなく、ぶらぶらと城内を歩いていた。すれ違う魔物全てがすべて、地位的に言えばオブリよりも格下になる。が、それを甘んじている魔物は多くはない。そもそも側近といえど、名誉職というか実質的な権限を持っていない地位である。正式な役職名ではないし、言ってしまえばただ魔王のお気に入りというだけだ。

 そのため、憎しみや嫉妬、侮蔑ぶべつそう言った感情の視線を何度も受けた。

 虫けらのように扱われたことはあっても、生来しょうらいそのような感情を受け止めたことがなかったため、そのような視線を受けても心地よさすら、オブリは感じていた。しかし、さすがに殺されるかもしれないと思い、自室にこもろうと帰っていた途中、書類を抱えたソヨンに出会った。

 どうせ暇だし、と思いオブリはそう申し出たのだ。

「ほんとーいやーマジ助かるわ」

 ソヨンは言った。実際大変そうだった。処理すべき書類は山積みだった。

「ボクも側近だからね」

 オブリは笑う。

「そうよ。じゃお願い。あんた優秀なスライムね」

 仕事の内容はいたって簡単だった。魔王の判子を押すだけ。あらゆる書類があり、それらは来年度の予算案や、領内の工事計画書、その他諸々魔王の承認がいる事業や予算の書類なのだ。内容は精査済みで、あとは判子を押すだけという事らしい。判子は魔力を込めて魔力インクを打ち出すタイプのものだ。オブリも魔法が使えるため、問題はなかった。

「所詮スライムですよ」

 オブリはソヨンの皮肉を受け入れた。

 判子を押しながら、魔王が押さなくても問題はないのだろうか……と、ぼんやり思った。

「そうか? 私は真実優秀だと思ってるわよ」

 ソヨンが笑った。その言葉に嘘はなさそうだった。

「ところで、魔王様はどうやって魔王様になったんですか?」

 作業をしながらオブリは訊ねた。

「ん? 魔王様ね、まあ先代魔王が死んでね、勇者に殺されて、それで、魔王の席争い。とむらい合戦で、勇者を最初に殺したのが今のアイリス様ってわけ。ざっくり言うと」

「ふーん、結構すんなり魔王になったんですね」

「まさか、苦労の連続よ」

「そうなんですか?」

「だって、サキュバスって、魔王っていう器じゃないの。種族としてはね。だから魔王様が魔王になるのは当然反対がある。私もサキュバスだけど、せいぜい部隊長どまりね。だから、アイリス様が魔王になるのは力が必要」

「魔王様はけた違いの力を持っていたってことですか」

「そうね、確かにそうだったわ……そしてね……その力で、魔族は一度滅びかけたわ」

「え?」

 魔族が滅びかけた? それはどういった意味だろうか。

「絶滅って意味ではないけどね、それだけ反発が大きいってことよ。サキュバスが魔王になることへのね。反乱もたくさん起こったし、その鎮圧ちんあつにも尽力した。そして、魔王領は人間側にどんどん侵略されて、負のスパイラル。今は少し盛り返したけど、結構切迫しているの」

 やはり魔王に相応ふさわしくない種族が魔王になるのはそう簡単な事ではないらしい。サキュバスでさえそうなのだ。よしんばスライムごときが魔王になるためには、どれほどの血を流せばいいのだろうか。想像できなかった。

「さて、判子押す仕事はおわりね。ありがとう」

「いえ、役に立てて嬉しいです」

「あんたつくづく優秀ね」

「そうですか?」

「研究室に顔出しているってことは、そこそこ魔法使えるんでしょ? どんな魔法使えるの?」

「補助系、回復魔法も。攻撃系もだいたい」

「はぁ? なにそれまじ? 大魔導師って感じ? ちょっと、私に魔法撃ってみてよ」

 オブリは困惑した。

「大丈夫、防御魔法使うし! 私もともと魔法に耐性あるし」

 確かにサキュバス種は魔法に恵まれた種族だ。魔法への耐性も生まれながらに持っている。

「分かりました……」

 こういう機会を待っていた。オブリは今、所詮魔王のペット的扱いだ。実力を示せば、少なくともそういった扱いはなくなるだろう。オブリは魔法の詠唱を始める。渾身こんしんの一撃を喰らわすために。しかし長ったらしい詠唱ではだめだ。長ければ長いほど強力な魔法が使えるが、それは実戦では何の役にも立たない木偶でくの棒を意味する。

 ソヨンが防御魔法を展開したのを確認する。

 展開は一瞬で、詠唱もごく短いものだった。ソヨンの実力がうかがえる。詠唱内容もよく聞き取れなかった。

 魔法詠唱と魔法の威力や性質は相関関係がある。長ければ長いほど、複雑な魔法を組める。その代り隙が大きくなる。短ければ単純な魔法しか組めないが、隙が小さくなる。

 そして詠唱時の声が大きければ大きいほど、明瞭めいりょうであれば明瞭めいりょうであるほど魔法は強力になる。

 これは別段魔法に限った話ではない。例えば剣を握った時も、無音で斬りかかるよりも声を張り上げたほうが、力が籠る。だが、それは相手に攻撃を悟らせる。

 こと魔法においては詠唱内容で、魔法の系統や性質を推察することも不可能ではない。基礎の段階においては、明瞭めいりょうに大きな声で詠唱されることを望まれるが、上級者になるためには、普段の詠唱で、小声やぼそぼそと不明瞭ふめいりょうな声が求められる。究極的に言えば無音で、つまり詠唱破棄で魔法を行使するのが、不意打ちとして、そして相手に悟らせないという意味において、最強と言えよう。詠唱内容が存在せず魔法の性質や系統が分からない。詠唱する時間もいらないから、隙が零と言える。不意打ちにもなる。だが、威力は果てしなく零に近くなるし、その場合、複雑な魔法を組むのは不可能で、結局実用的ではない。つまるところ、小声の有耶無耶うやむやな詠唱は、上級者が魔法を行使する際の極当然のテクニックだった。

 ソヨンは間違いなく魔法においてはかなりの使い手という事なのだ。オブリはその事実を認識し、同じように口の中で呟く。短く、僅か三音節の単語を口の中で転がす。その音は、発音したオブリには、確かに明白な意識となってはいるが、ソヨンには絶対に聞き取れない。

 有耶無耶うやむやの小声のそして短い詠唱。ソヨンに己の実力を見せつけるためだ。

 ソヨンの顔色が変わる。

 魔法が展開される。

 空中。そこから生み出される光の粒。それが収束し、形作っていく。剣の形へと姿を変え――ソヨンに襲い掛かる。

 激しい衝突音。いや、摩擦音まさつおん。オブリの魔法とソヨンの防御魔法がせめぎ合う。いびつな不協和音が部屋に鳴り渡る。そしてぜた。光が爆発したのだ。

 爆発の先にはソヨンが立っていた。ダメージはほぼないように見えた。頬を切って血は出ているが、かすり傷と言えるだろ。

「大丈夫ですか? って、ほぼ無傷ですね。ちょっとへこみますね」

 オブリは本気で魔法を放ったのだから、防御魔法があったとはいえ、当たり前のように防がれたのは、ややショックだった。これが魔王側近クラスの実力なのだ。

「何言っているのよ、私もともと魔法の耐性強い上に、防御魔法を二重に重ね掛けしてたのよ。なのに……わずか一撃でそれを全てがし取った……この威力、……ちょっと落ち込むわよ……あなた何者なの?」

「……スライムですよ」

 落ち込むのはこっちの方だ。あのわずかな詠唱で、二度魔法を行使していたとは。

「七歳のスライム?」

「そうです」

 本当は――

(本当は、百二十六回、六百年にも及ぶ人生をやり直し、知識と経験を百二十六回の人生だけ蓄積し、百二十七回目の人生に挑むスライム……)

 無論、信じてもらえるわけがない。オブリは当然、口をつぐむ。

「……なんだか信じられないけど、まあいいわ」

「そうですね、確かに信じがたい存在かもしれません」

 オブリは笑った。規格外のスライム。その実力を、魔王の真の側近に知らしめた。

 オブリはまた一歩魔王に近づいている。そう思っていた。


――オブリ、ソヨン、ドノヴァそして魔王アイリス。四人はいつまでも仲良く仲良く――

 

 四人の関係は良好だった。魔王軍の中には、ドノヴァや魔王に対し不満を出している者もいたし、スライムごときが魔王の部屋やその夫の部屋を歩き回ることに不快感をあらわす者も居た。

 しかし、魔王は力によって魔王の座にき、力によって魔族を統治している。皆、結局のところ従うしかなかった。魔王のみならず、側近ソヨンの実力も明白で、さらに魔王の夫ドノヴァもまたその力を認められていた。そして残忍さもだ。魔王軍の中の認識では、反乱を起こしたイディウムを含むガーゴイル一族を粛清しゅくせいしたのはドノヴァであり、魔王への忠誠心と、その力が認められ、側近になり、そこから魔王と結婚したという事になっている。魔王に刃向かうものは、ドノヴァに粛清しょくせいされる――

 さらに時間が経つに従い、魔王軍上層部を不気味に思わせたのはオブリというスライムの存在だった。前述のように、当初魔王のペットごとき存在で憎むべき目障りなドノヴァの金魚の糞でしかないと思われていたが、その実態が今では掴めない。特にオブリは魔王軍の魔法研究所によく顔を出している。反乱を起こしたとされるガーゴイル一族の中枢に研究所副長官が居たため、なおさら不気味がらせる要因だった。研究所副長官が死に、それと同時にオブリは研究所に出入りするようになった。そして研究所の人間はオブリの能力を知っている。その知識量と魔力を。そして研究所の魔物がオブリに畏怖いふを、いや、畏敬いけいの念を抱いていることは魔王城の中でも周知の事実となっていた。

 今のオブリは、魔王のペットではなく、ドノヴァと同じく様々な意味で一目置かれる存在なのだ。

 ――そのような存在になった。オブリはそれを感謝していた。ここまで登りつめた。名実ともに、魔王軍の中枢部に食い込んだのだ。ドノヴァに感謝の念を抱いていた。

「なあオブリ」

 そんなある日、ドノヴァがオブリに訊ねる。

「ん?」

「オレを恨んでいるか?」

「恨む……? とんでもない、ボクはキミを恨んでなんかいないよ」

「そうか」

「感謝してるよ」

「本当に?」

「本当だよ。たががスライムのボクに目をかけてくれたんだから」

 それは半分事実で半分嘘だった。恨んでいる面もあるにはあった。逆恨みに近い、いわば嫉妬。己はたかがスライム。百二十六という人生を積み重ね、そこで初めて実力ようやく追いつく。そんな存在なのだ。目の前の男はたった一度の人生で、己が居たかった位置にいる。それが、それがよりにもよって、ドノヴァか。もしも知らないやつだったなら容赦なく倒すのに。

「たかがスライムって……そんなことないだろう。お前は優秀なスライムだ。こと魔法においてはかなりやり手なんだろう? ソヨンから聞いたぞ。古代魔法とか研究してるらしいな」

 だが、己を拾ってくれたのはドノヴァだ。目をかけ、ここまで駆け上がれたのもドノヴァのおかげだ。感謝はしている。同じ感情をソヨンや魔王アイリスにも抱いていた。

 感謝と嫉妬。喜びと憎しみ。憎悪、呪い、恨み。祝祭、情け、慈しみ。相反する感情を。

「そうだね。最近は時の魔法を研究している」

「それは凄い」

 ドノヴァは言う。

 凄い? 凄い? 凄い? 凄い、だって? 本当にそう思ってるのか? 本当はスライムごときが、と思ってるのでは? お前は、ボクを見下しているのでは?

 相反する感情を持っている。が、劣等感がそれに加わる。種族という強烈な劣等感が、オブリをさいなませる。

 そう。だから。いずれいずれ。己はドノヴァや、魔王を押しのけ魔王になるのだ。

 感謝の感情を感じながらもやはりそれは確定的な事実としてオブリの中に根付いていた。

 今はそれを隠そう。いずれやってくる。ドノヴァやアイリス、ソヨンを出し抜く機会は。

「時にドノヴァ、魔王様は子供を産まないのか?」

「え?」

「もう結婚して一年経つだろう。そろそろ世継よつぎのことを考えてもいいんじゃないか?」

 世継よつぎ――その事も考えねばならない。魔王になるならば、小さな芽のみ残しも許されない。スライムという種族なのだから。

「あ、ああ……そうだな」

 ドノヴァは口ごもった。

「何か問題でもあるの? 最近よそよそしい気がするけど」

「その喧嘩したんだ」

「まったく君たち夫婦はいつもそうだね」

 オブリは笑った。乾いた笑い声だった。偽りの嘲笑。

「……面目ない」

「今度は何? 魔王様の楽しみにしていたプリンを勝手に食べたとか?」

「そんなバカげたこと、オレはしない。……オレ旅に出ようと思って」

「また? この間も勇者を倒すために旅に出たんだよね?」

「ああ、そうだ。でも、どうやら勇者には弟がいたらしい」

「なるほど、それが新たな勇者ってわけか。しかし勇者っていうのはどういうシステムなんだ? 血族か?」

「そうなるんじゃないかな?」

「かつての英雄の血を引いてたら、それが勇者か」

「分からんが……しかし、実際勇者は強い」

 ドノヴァの言葉を聞きながら、堪らない憎悪を覚えていた。人間も同じか。血で決まる。強い者と弱いモノ。しいたげる者としいたげられるモノ。

 生まれながら強者である勇者という存在に、憎悪を抱いていた。

「そうなんだ。血が強さを決定づける……ある意味我々魔族みたいなシステムなのかな? 普通の人間はスライムで、勇者という血族は生来しょうらいから、ドラゴン種のような力を持つ、とか」

「さあな、まあそういうわけだから」

「はいはい、しっかり留守番しとくよ」

 勇者を倒しに行くのか、それは己がしたかったことだ。まあ、でも、いいさ。それは魔王になった後の楽しみにとっておこう。今は譲るさ、ドノヴァ。オブリは、心の内でそう思いながら、憎しみを増していく。増していくというのに、それなのに、その心の内にドノヴァはあっさり踏み込む。抉るように。

「お前は来ないのか?」

 彼は言った。

 行きたかった。その誘いは嬉しかった。心は揺らぐ。

 行きたい。行きたい。勇者を倒したい。そしてドノヴァと一緒に旅をしたい。でも。

「いや……遠慮しておくよ。ここを守っておこう。研究も中途半端なんだ」

 だめだった。踏みとどまった。いずれ倒す相手だ。もう感謝の感情は捨ててしまおう。甘さは切り捨てねば。オブリはそう決断したのだ。

「そっか、了解だ」

 ドノヴァは寂しそうに言った。

 今更そんな素振りを見せるなんて。――オブリは激しく憎悪した。

 年も暮れ。あとひと月で今年が終わる。来年はどうなっているだろうか。自分は、ドノヴァに相変わらず憎しみを抱いているのだろうか。ふとそんなこと思った。



 ドノヴァが勇者を向かえ討つ準備をするため、魔王の部屋から退出する。

「行ってしまった……またアイツは勝手に」

 魔王アイリスは険しい表情を一気に緩め、代わりに悲哀のそれを作る。

「止めればよかったじゃないですか」

 オブリは魔王に言った。しかし、その言葉は自分へ向かって言ったような気がする。

「止めても聞かぬだろう……」

 寂しそうに魔王アイリスは言う。

「はいはい魔王様、悲しんでいるところ悪いですけど、仕事仕事」

 とそこへ、ソヨンが現れる。両手には大量の紙束が抱えられている。

「……しかし」

 アイリスは完全にしょげ込んでいた。その姿を見ると、少なからず罪悪感を覚える。

 魔王とは――王とは絶対的な存在ではない。愛すべき人が不在になれば、落胆・感傷・消沈しょうちんを見せる。そして愛する者と居ることで、高揚し、喜悦きえつの感情を抱き、心が躍る。

 そんなものだ。何の違いもない。そこらへんに居る魔物とさして変わらない。

 その事実は重い。それはつまり己も同じという事だ。己も今、魔王のしょげた姿を見て、可哀想かわいそうという感情を抱いた。己はドノヴァも魔王アイリスも、ソヨンも――三人の事を好いている。だめだ。それではだめなのだ。

 己が魔王になるためには切り捨てねばならぬ存在。心を無にしなければならない。好いていたとしても、切り捨てねばならない。

 魔王アイリスはいずれ殺すのだ。ソヨンもそうせざるを得ないだろう。そしてドノヴァ。彼も殺さないといけない。そんな日が来る。確信があった。彼を殺すのだ。

「魔王様がしっかり仕事しないと、末端の魔族は困ります。末端の魔族が困るということは、人間領域まで旅に出たドノヴァも困るということですよ」

 オブリは心の内側では、殺意を抱きながら、魔王に諫言かんげんをする。

 殺意を抱きながら? 己は本当に殺意を抱いているのか? 彼らに殺意を抱けているのか?

 それは分からなかった。いや、おそらく抱けてはない。所詮しょせん仮初かりそめの殺意だろう。いずれそれを本物にしなければならない。

「……口うるさい側近が増えた」

 オブリの言葉に、魔王は深い溜息を吐いた。

「あら、私のこと口うるさい側近と思っていたんですか!」

 そしてソヨンがそれに噛みつく。

「そうだろう、お前も私みたいに男見つけていい加減落ち着けばいいのに」

「なんかむかつく……あっれだけ、うじうじしていたのに、男が出来た瞬間天狗てんぐですか?」

 ソヨンがわなわなと拳を震わした。

「ともかく魔王様は仕事! ボクやソヨンさんが死にます」

 二人のやり取りは面白そうであったので見ておきたい気持ちもあったが、喧嘩が始まれば少々困る。実際仕事はかなりの量が溜まっているからだ。

 もはや名誉職でも何でもなく、オブリは魔王の側近として働いている。ソヨンの手伝いという表現が正鵠せいこくを射ているかもしれぬが。

「ソヨンよ、そこのスライムと結婚したらどうだ?」

 突然魔王がうそぶく。

「それはソヨンさんに失礼ですよ、スライムごときとなんて」

 あまりにも突拍子とっぴょうしのない魔王の言葉だが、オブリは少しも動じなかった。

「あら、私は別に構わないわよ」

 だが意外な事に、ソヨンはそう返事をする。

「え、なんで?」

 魔王の言葉には動じないが、ソヨンにそう言われると、動揺してしまう。

「スライムごときというけど、あなたの強さはもはや、我々と同等と言っていいんじゃないかしら? こと、魔法においては、魔王様にも匹敵する実力と、私は思ってるけど」

「うーん、そうはいっても、実際これほど種族としてかけ離れていたら、アレでしょう、ほら子供とか」

 オブリは表面上では平然と言った。しかし内心穏やかではなかった。心は震えていた。嬉しさだった。感情は高ぶっている。

「まーそれもそうなんだけどね」

 ソヨンは言う。

「なんだ、結婚の話というのにふたりともやけにドライじゃな」

「魔王様がウブすぎるんですよ」

「ぬー」

「そんなことより仕事仕事」

 オブリは言った。いや、誤魔化す。

 ドライ? まさか。動揺したのだ。

 恋愛感情などというものは持ち合わせていなかった。先ほどオブリが言ったように、種族がかけ離れている。子供もできないし、恋愛感情としてソヨンの事を美しいと思ったことはない。

 ソヨンも同様だろう。スライムがごときに恋愛感情などは抱いていまい。

 しかし結婚してもいい。それは、政略的な意味合いを持つだろう。

 魔王という中枢に、オブリは食い込むのだ。ソヨンとの子を為すことは出来ぬが、自分はどこか他のスライムと子供を作ればいい。その子供は生まれながらにして、魔王側近の子供という立ち位置になる。築ける。スライム種としても、魔王中枢に食い込み、魔王の座を狙える。魔王を倒して力でねじ伏せるよりも現実的な話に思えた。

 思えた。思えた。だが、だからこそ、だめだ。だめだ。迷ってはだめだ。己は魔王を倒し、魔王になるのだ。それが己の初心だった。温い心ではだめだ。己は不遇の種族。心を凍らせ、スライム種が幸福を掴む、それを示すのだ。魔王となって。



 数日仕事に東奔西走とうほんせいそうしていたが、それもある程度さばけ、オブリは研究室に向かった。

「時を駆け巡る金属か……」

 最近興味があるのは、時空や空間に関する魔法だった。己の魂と記憶と一生の連鎖のヒントが知りたかったからだ。無論記憶に関する魔法にも興味があったが。

 特に、今オブリが気にかけている金属がある。今オブリが見ているのは整った正四面体の青い色の金属だ。グオチージンという名前だが、時を駆け巡る金属や時の金属、青の時間金属等という別名がある。この金属に魔力を注入することにより、時間を遡れるのだ。

「グオチージンねえ、分からないことが多いわね」

 研究室にはソヨンも居た。彼女も魔法に詳しく、時々研究室を訪れる。

「これを解析できれば、魔法は大きな進歩を遂げるだろう」

「私もそう思うわ。でも最近私さっぱりだわ。あんたのやってることよくわからないんだもの」

「ソヨンは、仕事が忙しいからね。ボクより全然時間無いでしょう」

「まあそうなんだけどースライムに負けてるのって悔しいわ」

「はは、そうですか」

 所詮はスライムか。それがまっとうな認識だ。スライムに劣るという事は悔しくて当たり前。

 だが、だが。裏を返せば己は認められているという事だ。

 魔法においてはその知識においては、オブリに劣っている、と。ソヨンはそう言っているのだ。その事実は嬉しくはあった。しかし、だからわからなくなる。己がどうすればいいのか。

 力でねじ伏せるべきか? そこまでして魔王になるべきか?

 十分ではないか? 部隊長に気に入られ、魔王軍に入り、その部隊長と共に側近となり、自由に魔法研究所に出入りできる身分になり、その実力も魔王側近であるソヨンに認められ――これ以上の幸福を望むのか? 

 たとえスライムでなくとも、この地位に居ることは極めて僥倖ぎょうこう、幸福に値する事なのだ。

「それはなに? そのペンダントみたいなのは?」

 ソヨンが訊ねる。

「グオチージンだよ。圧縮させたものを、オリハルコン金属に混ぜ込んでみたんだ。一度試してみたけど、一時間近く時間が逆行した」

 グオチージンは、本来、十分程度の時間しか遡行そこうしない。

 今まで魔族・人間・国を問わず研究されている金属だが、分かっていることは少ない。さかのぼれる時間は精々十分。金属量が多ければ多いほど、さかのぼれる時間は長くなる。しかし、金属量を増やせば増やすほど非効率的になる。例えば、今オブリが机の上においている正四面体、ソヨンの手の平に収まるくらいの小さなもので、凡そ十分遡さかのぼれる。が、この例えば体積を二倍三倍増やしたところで、精々十一分か十二分程度遡さかのぼれるだけだ。つまり、今、加工されている大きさこそ、このグオチージンの使用における最も効率的な大きさなのだ。

 それが今まで累積るいせきされた研究成果。しかしそれだけしかない。たったそれだけだった。

「一時間! すごいわね」

 ソヨンが驚く。オブリが成し遂げたことは、驚愕きょうがくすべき事実なのだ。おそらく過去の先人も金属同士の合成を行った者はいるだろう。そういった資料も、オブリは見てきた。ただ辿り着かなかったのだろう。その二物質の比率に。オブリが発見したのもたまたま、偶然だった。

「でもこれを作るのに多くのグオチージンがいる。オリハルコンも使ってるし、高くつくオモチャだよ」

 それも事実だ。グオチージンは、貴重な金属というほどのものでもないが、大量に取れる金属でもない。特産地というものがなく、グオチージンの金山というものがあるわけでもない。極端な話、道端に落ちている事さえもある。雑草と同じ。だからこそ、大量に確保しようとすると難しい。そしてオリハルコンは神の金属という呼び名があり、かなり貴重な存在だった。そう、問題はこのオリハルコンだ。こっちの方がグオチージンより遥かに貴重だ。

「そっか、でもその調子だと、時の金属の解明はもうすぐなんじゃない? ドノヴァが帰ってくる頃には終わっていたりして」

「そんな簡単なことではないさ……そういえば、ドノヴァが旅に出て一週間くらい経つよね」

「一週間か、早いもんだねーそりゃ魔王様も気落ちして機嫌悪くなるわよ」

「そうだね、いつ帰ってくるかな」

「さあね、勇者殺して帰ってくるだけだったら二週間かからないんじゃない? ドノヴァのことだから、ぶらっと観光して一ヶ月近く帰らないかもしれないけど」

 ソヨンは笑う。

「その可能性はあるね」

 オブリも笑った。乾いた笑いなのか、それともそれは真実の笑いなのか。オブリには分からなかった。殺意をどうすればいいのか。殺意が本物なのか。それとも殺意なんか己の中では全く育っていないのか。己はソヨンを好きなのか。ドノヴァに感謝しているのか。魔王に憧れているのか。それとも嫉妬憎しみ劣等感、そんな感情が渦巻いているのか。

 己は魔王になりたいのか? オブリは混乱していた。よくわからなくなっていた。

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