第25話 漆黒の相棒

「お前年齢は?」

 道中そう訊ねられる。年齢という概念は、オブリにとって酷く希薄なものになっていた。なにせ、もう百二十六回人生を繰り返し、今が百二十七回目だ。

 何年もの長い年月を生きた。通算すれば、六〇〇年はくだらないのではないだろうか。

 一度の人生は、二三年で終わることもあれば、十五年生きたこともあった。

「七歳です」

 オブリは今、確かその年齢であった。

「そうか、若いな」

 ドノヴァが驚きの目で見る。

「いえ、若いといっても、スライムは寿命が短いですし。長くて二十五年、三十年ほど。七歳と言えば既に成人です」

「そうなのか……確かに、ドラゴン種なんて余裕で、百年二百年生きるからな……、種族によっては二百年三百年というものもいる」

 ドノヴァの言葉を聞きながら、オブリは心の底で笑っていた。六百年生きるドラゴンなどはいないだろう、と。

「なら魔王軍には詳しくないだろう。今の世界状況を説明してやる。魔王軍と人間との戦いについては今まで勉強したことあるか」

「はい、今魔王は第八代目ですよね。数年前勇者が前魔王イテミラカスを倒し、その後即位したのが現魔王アイリス様……歴史はおおよそ知っています」

「なら話が早い。我々の任務はこれからある小さな村を襲う。だがそこには強い剣士がいるそうだ。小さな村だから、派遣はオレ一人だ。逆に言えば、その剣士を殺せば、村はおしまいだ」

「わかりました、手伝います」

「早速見えてきた。今しがた話した村だ。この任務が終われば、本軍に戻り、お前を魔王軍として推薦しよう」

「はい」

 確かに小さな村だった。村というより集落といった感じか。これはオブリ一人でも簡単に潰せそうだ、そう思った。

「あれだ、剣士はオレがやる。お前は、その間に村を破壊しろ。いいか、別に人間を皆殺しにする必要はない。歯向かう奴は殺せ。重要なのは村を再起不能なまでに破壊することだ」

「はい」

「さて! オレは暗黒騎士ドノヴァだ! 人間ども、皆殺しにしてやる!!!!!」

 ドノヴァが声を張り上げる。その声に呼応するかのように、一人の男が出てくる。

 精悍せいかんな男で、確かに強そうだった。

「……魔物か。この俺がいる限り、この村に手出しはさせん」

「ふん人間が、死ね」

 ドノヴァは剣を構える。男も剣を引き抜いた。二人は跳躍し、交差する。

「さて、ボクはこの村を滅ぼせばいいのか」

 仕事は簡単だった。炎の魔法を連発して、家屋は全壊だった。抵抗もあったが、オブリの前では全てが無意味だった。ものの二十分で、あたりは火の海となった。牧場も小屋も家屋も全て燃えてしまった。オブリは奇妙な感情に襲われる。今まで虫けらのように扱われたスライム――そのスライムが今や逆だった。虫けらのように踏みつぶしていく。

 その感情が何かは、オブリには分からない。嬉しさではないのは確かだった。

「暗黒騎士様、終わりました」

 オブリが報告する。人間の男も既に息絶えていた。

「こっちも終わった。人間にしては強かったが、オレの敵ではないようだった」

 ドノヴァは笑った。



 転移魔法でその日の内に魔王城に連れていかれる。さすがにオブリは緊張した。

 魔王――魔王は女だった。直視はできなかった。横目で少し見ただけだった。

 そして魔王の左右に並ぶ近衛兵このえへいや、魔王の間近にいる兵士達が威圧感を放っている。

 魔王の城という場所でさえ、オブリにとっては緊張の原因となるのに、魔王と面会するのだ。緊張しないはずがなかった。

「さすが、暗黒騎士ドノヴァ。そなたは、我軍の中でも抜きん出て強い。あの村には手を焼いていたのだ」

 魔王の声が降りかかった。

「有難き幸せ!」

 ドノヴァが答える。

「して、そちらのスライムはなんだ?」

 魔王の目線がオブリに注がれた。オブリは顔を上げずともそれが分かった。そして、恐怖が起こる。圧迫感を体が感じていた。魔王から放たれているのは、ともすれば殺気ではないのか。そんな錯覚すらも覚える。

「は、実は道中でたまたま出会ったスライムであります。このスライムはスライムながら、魔法に長け、魔王様の力になると思い、魔王軍に推薦いたす所存です」

 辺りがざわめく。スライムを魔王軍に? 何で? まさか? スライムが何故ここに?

無論こうなることは覚悟していた。あなどられている。スライム種とはあなどられる存在なのだ。

「ほう、そなたが言うのなら間違いないのだろう。いいだろう」

 魔王は言った。意外だった。魔王は懐が広いのかもしれない。オブリはそう思った。そして心の奥底で、いずれそこへ、その座位へ己が就くのだ、とも。

「つきましては私の直属の部下にしたいのですが。今回、彼の働きも、村の殲滅せんめつに一助となりました」

 ドノヴァが進言した。もっともドノヴァ以外の魔物がオブリのようなスライムを欲しがるということはないだろう。

「いいだろう好きにせい、スライムよ。せいぜいはたらくがよい」

 声をかけられた、魔王にだ。今まで虫けらの最下位のような存在だったスライム。百二十七回の人生で、初めての出来事。

「ありがとうございます」

 言い知れぬ感覚が襲う。ドノヴァに対する感謝、魔王に声を掛けられたことへのよろこび。



 面会が終わり、ドノヴァの私室へ向かった。ドノヴァは魔王軍の中でも高い地位に居るらしい。十七部隊の部隊長だが、その部隊長の上には四天王しかいないらしい。後は魔王の側近が一人。つまり軍部においては、四天王の次点となる。そのためドノヴァには私室が与えられている。

「ありがとうございます、ドノヴァ様」

「いいってことよ、まあ、お前はスライムだからな。いくら実力があっても、この魔王城の中では、たぶん煙たがれる」

「それは十分承知しております」

「だからオレの直属の部下ってわけさ、オレもな、魔王のお気に入りであるんだが、それ故、煙たがられている」

「……どういう意味ですか?」

「他の連中さ。だからオレにばっかり嫌な仕事がくるんだ。今回の仕事だってそうだ。わざわざ辺境の地、魔王領と連合軍の国境近くになんて、戦争でもないのに飛ばされるのを好む奴なんていない。まあオレはいいさ。強い奴と戦えて、そしてそれが魔王様の利益になるならな」

 意外だった。高い地位に居ると思っていたし、エリート種だから苦労などないと思っていた。どうもそうではないらしい。

「そうですか」

「そういうこと。オレはな、貧しい出身だ。だから本来部隊長なんて務めるような魔物ではない。皆そう思ってるさ」

「そう、ですか……」

「そもそも第十七部隊と言うのは、魔王様がオレだけのために作った名誉部隊。その実権限も権力もなく、オレの配下はひとりも居ない……いや、オブリお前が唯一のオレの配下ということになった」

「ひとり? たった一人の部隊……」

「笑えるだろう? 全てはオレの貧しさいやしさゆえ」

 ドノヴァは自嘲じちょう気味に笑みを浮かべた。

 しかし。いくら貧しい生まれだとも、このスライム種より悲惨ではあるまい。心の内で、オブリは静かに嗤ったのだった。

「ドノヴァはおるか?」

 その時扉の外から声が響く。

「だ、誰だ!?」

 ドノヴァが慌てて答えた。

「私だ」

 声の主は――

「魔王様?」

 扉の先には魔王が立っていた。今度はオブリも魔王を直視する。凛然りんぜんとした佇まい。黄金色の可愛らしい角に豊満な胸。体つきは小さく顔立も細い。サキュバス種だった。事前知識と知ってはいるから驚きはない。ただ小さい体の中に秘められた、魔王の魔王然としたオーラに気圧された。鋭い目つきに、魔王の周囲から放たれる莫大ばくだいな魔力。

 魔王の魔王たる所以をもたらしているのは強さだ。オブリは確信した。

 しかし、しかし、しかし。オブリは別の確信を抱き、喜びに打ち震えていた。魔王は強い。しかし、絶対的ではない。己と魔王との距離は絶望的にまで開いているわけではない。

 百二十七回という人生の重みは如何にスライムといえども、魔王に肉薄し得ていたのだ。

「すまぬ突然」

「いえいえ、魔王様ならいつでも」

「実は、内密に処理してもらいたいことがあるのだ」

「っは、といいますと?」

「うむ、この石を」

 魔王が翡翠色ひすいいろに輝く石を差し出す。

「きれいな石ですね? これが何か?」

 首を傾げながらドノアが受け取る。

「内密な任務だ。直接は言えん。その石に尋ねるが良い」

 刹那、ドノヴァの顔つきが変わった。

「ふむ、引き受けました」

 何となく予測がつく。あの石に何らかのメッセージや記憶が内包され、魔力によって引き出す仕組みなのだろう。

「そして、そちらのスライムよ」

 魔王の声がオブリにかかる。

「はい」

「お主にも任務がある」

 任務? オブリは驚きを隠せなかった。スライム種である己に任務だと?

 あるいは己の力をこの魔王は見抜いたというのか?

「オレと一緒にではなくですか?」

 驚きはドノヴァも同様だったらしい。

「お前の任務は極秘内密の任務だといったはずだ。ひとりで完遂せよ。さて、スライムよ、余につてこい」

「わかりました」

 不安を抱えながら、魔王とともにドノヴァの私室を出る。オブリは魔王の歩む先へと付いていった。



「ここが余の部屋だ」

 通されたのは魔王の私室だった。思わぬ幸運に、オブリはたじろぐ。入っていいものかと思案するが、立止まり魔王の不興を買うのもまずい。躊躇ためらわず一歩踏み出す。魔王の部屋――一面桃色で彩られていた。白を基調としたピンクのレース。そして数々の縫いぐるみ。調度品も、白やピンク、赤――そういった色でちりばめられていて、きらびやか、というよりは乙女チックという表現がしっくりくる。

 魔王は女である。しかし、女は女でもまるで少女のような魔王だった。

「魔王様、それでボク……じゃない、わたくしの任務というものはどういった内容でございますか?」

 言葉を慎重に選び、恐る恐るオブリは訊ねた。

「よいよい、そう畏まるな。まずは紅茶でもどうだ」

「……? はい……」

 二杯の紅茶が侍女によって運ばれてくる。

「紅茶は好きか? これはアールグレイだ」

「紅茶は……好きです。あ、懐かしい」

 アールグレイの匂いをかぐ。――何度前かの人生では妻が良く作ってくれたな、と感慨深く思い出す。紅茶などを飲むのはいつ以来だろうか。

「懐かしい? 貴様何歳だ?」

 魔王がオブリをにらむ。確かに若干のスライムには似つかわしくない台詞だった。

「あ、七歳です、あの子供の頃飲みまして」

「ふむ……スライムの七歳と言えば、すでに成人はしておるか。まあよい。さてスライムよ」

「はい?」

「貴様は……貴様は余を見てどう思った?」

 どう? オブリは汗をかく。見えざる圧力が圧し掛かる。まずいかもしれない。これは返答次第によっては殺されるかもしれない。

 魔王を褒め称える常套句じょうとうくが頭に浮かぶ。魔王をおとしめるなど言語道断だ。

 しかし――この質問の仕方は、忌憚きたんない意見を求めているようにも思えた。その場合、無駄な美辞麗句びじれいくは機嫌を損ねる可能性がある。もっと質の悪い場合もある。どのように返答しようが難癖なんくせをつけてオブリを殺すという場合だった。その場合はやんぬるかな。いかんとしがたい。

 いずれにせよ、魔王がいかなる意図によって質問を発しているか、スライムに知る由はない。どう答えたいいものか、全く分からなかった。

「豪勢です……」

 あまり時間を空けても機嫌を損ねると思い、咄嗟とっさに答えた。

 しかし、それは余りにも的外れな答えな気がした。忌憚きたんない意見にすれば、実に場当たり的なごく当たり前の感想で、餓鬼がきの発想だった。めるにしては貧弱な語彙で、魔王自体をめてはいない。むしろけなされたと感じる場合すらある。

「豪勢か。面白いことを言うな。まあ、分かっておる」

 死を覚悟したオブリだったが、魔王の返答は奇妙なものだった。

「何がですか?」

 思わず訊ね返す。

軽蔑けいべつ侮蔑ぶべつの感情」

 まずいと思った。これは、機嫌を損ねた。確実に、だ。殺される。

「余は見ての通りサキュバスの一族。サキュバス種は魔族の中では上位種に含まれるが、女であるし、誰もが余を軽んずる。加えてこの服装にこの部屋の内装だ。スライムよ、お前もさぞや失望したであろう。これが魔王か、と」

 服装はこの部屋の内装と同じく乙女チックだった。ドレスを着ているが正装というよりは、少女がお出かけする時に着る、そんな雰囲気があった。ピンクと白のレース・ドレスだ。

 この魔王の口調から感情は読み取れない。しかし間違いなく地雷を踏んだ。

「いえ、そんな事はございません」

 オブリは辛うじてそう答えた。

「ならば、既に聞いておいたか? 余がどういう存在か。魔王がどうか、噂か何かで知っていた、故に何の驚きもないということか?」

「いえ、そういうわけではありません」

「ならば、どんな感情を抱く? スライムよ」

「……羨望せんぼうです」

羨望せんぼう?」

「魔王に羨望せんぼうを抱かぬ魔物は居ないでしょう」

 それは事実であった。真意、何の飾り気もない言葉。

 オブリの真実の言葉であった。

 目の前の魔王は、オブリの先人だ。わずかながら光が見えた。サキュバスでも魔王になれる。サキュバスとスライムの差は、月とスッポンと言える。が……それでも、魔王にふさわしくない種族でも魔王になれるのだ。眼前の魔王がその証明であった。

「そうか羨望か」

 魔王はぽつりと呟く。その間、オブリは臨戦態勢に入る。魔王がいつ攻撃してくるかわからない。攻撃してきたならやり返そう。ここで魔王を倒し、魔王より強いことを証明し、成り代わる。無謀だとは分かっていても易々死にはしない。そういった覚悟だった。

「すまぬ、変なことを訊いた。さて……お前には別に訊きたいことがある。お前は、ドノヴァのペットなのか?」

 だが、魔王の攻撃は来ない。罵倒も来ない。来たのは質問だった。

 ドノヴァのペット?

 ……確かに傍から見ればそう見えるだろう。実際のところはどうかわからない。出会って日が浅い。ただ一日ばかり一緒にいただけの関係に過ぎない。

「さあ、ボクにはわかりません。そうかも知れません。ドノヴァ様はそのつもりでボクをつれてきたのかもしれません。しかし、出会ってまだ一日です。ボクには分かりません」

 正直にそう答える。

「そうか。では、実際お前はどのくらい強いのだ? ドノヴァはあんなことを言っていたが、所詮スライムであろう」

 言葉が重くのしかかった。所詮スライム。そう、スライム種はどこまで行ってもスライムにしか過ぎないのだ。魔力の残滓体、残り滓、そんな存在。偶発的にできたような生き物で、必要不要を問うまでもない、言わば雑草のような魔物なのだ。

「炎の魔法が使えます、補助系魔法も使えます、人間相手でもレベルの低い戦士程度ならば肉弾戦で勝てます」

 オブリの言葉に魔王は眉を顰める。「あんたとやり合っても、互角にやれる自信はある」。心の底で、奥底で、秘められた内では、そう思った。しかし一瞬だ。なにせ相手は魔王だ。心を透かされるかもしれない。

「ふむ、強いな。それが事実なら、一般的なオーガ・クラスには勝てるだろうな……それでドノヴァは何故お前を連れている?」

 先ほどの質問と、この質問がどう違うのか分からなかった。もう答えたはずだ。ペットかもしれないし、そうではないかもしれない。オブリは質問の真意を計りかねた。

「あいつは、孤高の存在だ。誰も仲間にせず誰の手を借りずあそこまで上り詰めた」

 なるほど、そういうことか。ドノヴァとはどうも孤高の存在らしい。おそらくは身分のせいだろう。しかし、何故ドノヴァの事をこんなにしつこく聞いてくるのか。

「まあ、昨日会ったばっかりというなら、何も知らんだろうな」

「ええ……そうなりますね」

 まさか――

 ドノヴァに何か問題でもあるのだろうか。オブリとドノヴァは出会って一日しか経っていない。だからオブリはドノヴァがどのような魔物か知らなかった。

 魔王にたてつくような魔物の可能性もある。彼と交わした短い会話では、魔王に対する忠誠心を感じはしたが、それが真実かどうか分からない。それに彼は他の魔物に疎まれている。

 既に反乱分子として、ドノヴァを処分しようという心積もりで魔王は腹を探りに来ている。そんな最悪な可能性が頭に浮かぶ。そうなると、その連れであるオブリの身も危なかった。

「ドノヴァ様がどうかしたのでしょうか?」

「まあいろいろあるのだよ、余がドノヴァについて貴様に訊ねたことは内密にしておけ」

 ドノヴァの言葉が蘇る。疎まれている存在、だと彼は言っていた。

 内密にしておけ、という魔王の言葉が不穏に思えた。

「了解です」

 オブリがそう答えた、その時だった。

「魔王様! お開けください!」

 逼迫ひっぱくした声が扉の外より聞こえた。もう一度魔王様、と大声が迸った。緊急事態か? オブリは身構える。まるで自分の最悪の想像が現実になったのではと、そんな疑いを持つ。

「その声はイディウムか?」

「そうです、早く……! た、大変なことが!」

 声から判断する限りイディウムは、息が切れ切れだった。走ってきたのだろう。あるいは緊張や焦りが彼を追い詰めているのかもしれない。

「鍵はかかってない、入ってくるがいい」

 魔王は悠然ゆうぜんと言った。刹那扉が開く。

 イディウムはガーゴイル種であるようだった。青色の皮膚に、両翼を持ち、鋭いくちばしうならせている。その皮膚はじっとりと湿っていた。汗をかいている。

「大変です! ドノヴァの奴が!」

 イディウムは叫ぶ。そして、オブリを睨んだ。

 イディウムをよくよく観察すると傷だらけだった。血も僅かながら出ている。そしてドノヴァの名前。――何か良くないことが起こっている。オブリはもはや確信に至っていた。

 すんなりと魔王軍に入隊し、魔王に面会でき、全てが順調に思え、ドノヴァに感謝していた。しかし、それは恨みへと変わる。糞――ドノヴァが何かやらかしたのなら、このボクも殺されるか? オブリは身構えた。現に、イディウムは殺気立っていた。

「ドノヴァがどうかしたのか?」

 イディウムの態度とひるがえって魔王は冷静だった。静かな口調でそう訊ねた。

 オブリも身構えているが、魔王は全く頓着とんちゃくしていなかった。

「動くな!」

 その時駆け込んできたのは、漆黒の剣――いや、今はどす黒い血に塗れた剣を持つドノヴァだった。

「魔王様! 助けて……謀反です、ドノヴァのやつが!」

 イディウムは慌てて魔王の部屋へ逃げ込む。魔王の近くまで来て、ドノヴァへ振り返る。

 オブリは考えあぐねていた。もはや、ドノヴァの謀反むほんは決定的だった。ではドノヴァにつけばいいのか、あるいは魔王に付けばいいのか。糞。舌打ちをする。

「イディウムよ。ドノヴァが何をした?」

 魔王が言った。あくまで冷静な口調だった。しかし僅かながら、怒りの感情が込められているようにオブリは感じた。

「ドノヴァが! 我が兄である第七部隊隊長を殺して、さらに、魔法研究所の副長官を殺して!」

「そうか……第六部隊部隊長のお前と、第七部隊部隊長と魔法研究所副長官が一緒の場所で、このドノヴァに襲われたと?」

 魔王が今度こそ怒気の籠った声で訊ねた。ドノヴァは剣を構える。

「そ、そうでございます、お助けを!」

 その時、オブリは違和感を覚えた。怒声を放ったはずの魔王は、今や笑顔だった。その笑顔は、背を向けているイディウムには見えないだろう。だがドノヴァには見えているはずだ。

 何故笑顔なのか?

 次の刹那、魔王は無言で右腕を上げた。雷がその手より放たれる。

 イディウムは一瞬にして消し炭となった。

 オブリは混乱した。何がどうなっているかわからなかった。

「ドノヴァよ、ご苦労であった」

「魔王様の御心のままに」

「どういうことですか?」

 オブリは思わず声を荒げた。全く事態が呑み込めなかった。

「いや、すまんな。驚かせたか。これは内密の任務だったからな。ドノヴァの任務は謀反を企むガーゴイル一族の一掃をお願いしていたのだよ」

「魔王様のおっしゃるとおり、あいつら三人は謀反の具体的な計画を立てておりました。他のメンバーも明らかになっております」

「うむ、ソヨンここに!」

 魔王が言うと、何もない空間が歪む。そしてそこから女が出てきた。魔王と同じくサキュバス種であるようだ。

「魔王様? さっきの騒ぎは?」

 オブリはソヨンと呼ばれたサキュバスの登場に驚きながらも、いまだ警戒を怠ってはいなかった。先ほどドノヴァについてあれこれ質問されたのは事実だった。

「ん、スライムが何でこんなところに? ぬいぐるみでは満足できなくなったんですか?」

 ソヨンと呼ばれたサキュバスは、足元にいるオブリを不審げに見た。

「スライムはドノヴァの部下だ。それより、ガーゴイル達の件頼む」

「はい、手はずは整えてあります。すぐさま、抹殺まっさつの命令をだすことができます」

「うむ、直ぐに頼む」

 ソヨンと名乗った女は、再び空間のゆがみの中へ消えた。何らかの魔法だろう。おそらくは移動系の。あのような魔法は知らなかった。経験の量でいえば、おそらく今のソヨンやドノヴァ、魔王でさえオブリの足下には及ばないはずだった。しかし、その経験の質は非常に低く、薄く、浅い。スライム種であることをオブリは恨む。

「え? あの、オレがあいつらを殺した意味ってあるんですか?」

 ドノヴァが狼狽ろうばいしながら疑問を口にした。オブリもそこは疑問だった。ガーゴイル一味の謀反むほん、魔王側は既に確信を持って動いていた。首謀者であろう三人を粛清した後の対応――つまり残党狩りも準備万端であるようだ。今まさに進めているのだろう。つまりドノヴァが首謀者達を倒したのは、実際形式的なものに過ぎない。今しがたのソヨンとかにでも出来たことだった。

「ある。余には敵が多い。お前は余の腹心としてこの一件を持って、第十七部隊隊長から出世してもらう」

「腹心ですか……」

 ドノヴァは困惑気味に魔王を見た。

 オブリはそれで納得する。どういうわけか分からないが、魔王はドノヴァに信頼を寄せているようだ。そこで重用したいが、ドノヴァ自体の立ち位置は微妙なところである。彼は他の魔物に疎まれていると言っていた。そのため何らかの手柄を与え、出世する機会を作らなければならない。それが一連の騒動というわけか。そうすると必然的に、ドノヴァにくっついている己の地位も向上する

 とんとん拍子だった。ドノヴァには再び深い感謝の念が沸き起こる。一日だ。僅か一日で、魔王の中枢部へと入り込めたのだ。魔王への道も遠くはない。そう確信した。

 スライムでありながら魔王となる。それはもはや時間の問題に思えた。

「何故、オレをそこまで信用なさるのですか?」

 ドノヴァが魔王に訊ねる。ドノヴァ自体は懐疑的な様子だった。

「魔王様、それは私も疑問です。実力はあれど、いやしい出身。それを、一体これ以上何の地位に就かせると。四天王の枠は空いていませんよ」

 突如空間が揺らぎ、ソヨンと名乗ったサキュバスが再び現れ、そしてそう言った。

 ドノヴァはどうも手放しには喜べないらしい。ドノヴァ自体も疑問視しているし、ソヨン、おそらく魔王の右腕も諫言かんげんを申し立てた。

「……側近その二」

 魔王は唐突にそう呟いた。それだけではとんと意味の分からぬ言葉である。

「は?」

 ソヨンが呆けた顔をする。

「四天王の枠がないなら……それならドノヴァを、ソヨン、お前と同じく、側近にする。側近その二だ」

 え? オブリはぎょっとした。なんだこのやり取りは。だいたい、側近その二だなんて、投げやりというか場当たり的というか。ドノヴァも何が何だかわからないという表情をしていた。

「はあ? ……魔王様、それは無意味でございます、あのですねーいいかげん言わせてもらいますけど」

 ソヨンが何か反論を述べようとするが、

「黙れ」

 すぐさま魔王に封殺される。

「…………はーい」

 恨めしそうに魔王を睨みながらも、ソヨンはそう返事をした。

「ドノヴァは、なにか問題あるか?」

「いいえありません。そんな出世断る魔物がいるでしょうか? あ、でも、オレが連れてきたスライムはどうなりますか?」

「うむ、なら問題無いだろう、スライム、あーそうだなーお前は、……お前も側近その三ということにしよう」

「え……?」

 行幸。幸運。なんだこれ?

 オブリは今度こそ度肝を抜かれる。昨日まで、野良スライム、表面上はそこらへんにいる何の変哲もないスライムだった。しかし、ドノヴァに見いだされ、そして今や魔王の側近になろうとしている。側近その三にだ。しかもその魔王の言いぐさは、夕飯の内容を決めるかのように軽やか。重さが微塵みじんもない。こんなにあっさりと決まるのか?

 ソヨンは呆れ顔だった。

「余がいいというのだ」

 魔王は些かの揺るぎもなさそうだった。

「有難き幸せ」

 オブリは真実幸せを感じていた。順調だ。百二十七回目の人生は順調だ。

 オブリは魔王の側近その三となった。

 しかし具体的な仕事は特段何もなかった。

 豪奢ごうしゃな部屋を与えられいつでも魔王の部屋に馳せ参じられるようになっていた。まあ所詮、スライムということなのだろう。ドノヴァもそれは同じようだった。



 魔王の側近になって、二週間ほどたったある日ソヨンがオブリを訪ねてきた。

 この二週間外出もなく、特段命令が下されるわけでもなく暇を持て余していた。部屋からあまり出ていないので、城内での噂話なども全然耳には入らない。まあいい噂はないだろうな、という予想はできる。たかだかスライムごときが魔王の側近になったのだから。

 ともかく、外に出ず暇だったのでソヨンの来訪はありがたかった。しかしソヨンもオブリの事はよく思っていないだろう。何となくそう思っていた。

「……あの」

「なによ、側近その三」

 口調はどこかとげとげしい。改めてソヨンの外見を眺める。スライムの美的感覚では、ソヨンの美醜びしゅうを判断はできないが、おそらくサキュバス種の中でも美しい部類に入るのだろう。背は魔王よりも低い。年齢的に幼いのだろうか。目つきは鋭く、性格も厳しそうだった。服装は魔王と正反対で、落ち着いたベージュ色ものを着用している。

「何か、ご用命が?」

 一応訊いてみる。もしも何か命令が下されているのなら、入ってきて開口一番それを伝えるだろうが。しかしソヨンはただ部屋を見渡し、部屋にあったソファーに座っただけだ。

「暇だからよ。何、来ちゃいけなかった?」

「そういうわけではありません。ボクも暇だったので、歓迎です」

 やはりいいようには思われていない――まあ、当然か。

「ボクが側近になったのが不満って感じですよね」

 思い切ってストレートに訊ねる。

「それにドノヴァも側近になったのも気に入ってないみたいですね」

「そうね、正直腹が立ってるわ」

「……そうですか」

 まあそう上手くいくものではない。今までがとんとん拍子だったのだ。周りからよく思われない、この程度の不都合は受け入れよう。これは練習だとオブリは思った。

 己が魔王の座に就いた時の仮想練習だ。己が魔王になった時、反発はこの比ではないだろう。

「あ、誤解させたわね。気に入らないのは事実だけど、主に魔王に対して腹が立ってるの」

 ソヨンは突然そんな事を言った。

「魔王様?」

「権力をいいように使って、こんなことするなんて信じられない」

 なるほど、と納得する。確かにドノヴァの出世はいいにしても、スライムまで側近にするのはやりすぎか。

「でも魔王ってそういうもんでしょう?」

「そう、魔王っていうのはそういうものだし、魔王様ももともと結構好き勝手やる人だった。だから気に入らないのよ!」

 オブリは首を傾げた。いまいち話が呑み込めない。

「どういう意味ですか?」

「つまり、なんでをドノヴァを側近なんかにするかねって意味よ」

「……ドノヴァは、やはり卑しき生まれだからってことですか? ボクは実を言うとドノヴァとは付き合い短くて、よく知らないし、魔王の内政についても詳しくないし」

「それもあるんだけど。違うの、根本は別のところ」

「根本は別?」

「魔王様はね、ドノヴァのことが好きなの」

「は……? どういう意味ですか」

 オブリは固まる。意味がよくわからなかった。ドノヴァの事を好き?

「そのままの意味よ。ぞっこんラブ! って感じ。だから側近とかまどろっこしいことしなくて、さっさと結婚しちゃえばよかったのに。そういうこと」

「そ、そういうこと……」

 何てことだ。そんな事になっていたとは。ということは、己が側近その三に任命されたのも、ドノヴァへのご機嫌取り?

 途端ドノヴァが羨ましい存在に思えた。魔王と結婚する。それは実質的に、ドノヴァも魔王と同等の地位を手に入れる、ということではないか。

「魔王様ってそっち方面は弱くてね。今もドノヴァと部屋で二人っきりだけど、多分なにもできないわ。見ていて苛々するわ、魔王」

 ソヨンが苛立ち気に言う。

「まあ、見てみなさい」

「え?」

「安全上の理由で、魔王の部屋に私はアクセスできるの。そして音声や映像だけを受信することも可能よ」

「それってつまり、盗聴? 盗撮?」

「まー固いこと言うなって」

 ソヨンは笑いながらオブリに触れる。

「私が触ってる間は、私が受信した映像も音声もあなたに送れるから動かないでね」



 そして、映像と音声が流れてくる。

「それで、ドノヴァよ」

 魔王の部屋――相変わらず桃色白色レースの乙女チックな内装だった。まあ短期間で内装を変えることはないか、そんなどうでもいい考えが浮かんだ。

「魔王様何でございましょう?」

 ドノヴァが魔王の声に応えた。

「その……す……」

「す……?」


「……! おお意外にも告白!?」

 ソヨンが声を荒げた。


「す……す……スライムを何故連れてる?」


「臆病者め……!」  

 ソヨンが声を荒げた。


 今の魔王の質問はオブリも気になるところだった。いまだドノヴァとの付き合いは短い。

「……正直分かりません」

「分からない? お前がしたことなのにか? お前は天涯孤独だっただろう? ずっと一人で武勲を立てて」

「……ええ、そうです。オレはずっと独りで生きてきた。オレは両親も知らない。奴隷としていきた年月もあった。多くの魔物にも裏切られたし。しかし、それでもオレにはまだ、心の友人と言える者が居た。そいつは……ひどく遠くに住んでいて、簡単に会えるやつではなかった。いや、というより会えなかった。それでも生まれた時より一緒にいた、幼馴染みたいなやつだ。そいつは幸せを掴みつつあった。オレは親友と思っていたそいつを、呪った……」

 そんな過去があったのか、とオブリは些かドノヴァに憐憫に似た感情を抱く。あるいは少し己と似ているかもしれないと思った。

「オレずっと人間を憎んでいた。人間だけじゃないですけれど。……オレは殺戮者さつりくしゃになった。人間を沢山殺し、あらゆる殺しを引き受けた。時には魔物を。オレは既にただひとつしか、心の支えがなかった。信じられる物がひとつしかなかった。なんだと思います? 魔王様」

「信じられるもの……か……皆目見当つかぬな……」

「魔王様、あんたさ」

「え……」

 魔王の顔が赤面する。

 ソヨンが再び声を荒げて、キャーキャー騒いでいる。

 これで相思相愛か。魔王と結婚し、ドノヴァも魔王と対等になる。羨ましい出来事だが、それは必然己の地位を押し上げる。

「魔王、あなたはサキュバス……その身分で、魔王になった。もちろん、オレみたいな奴に比べればサキュバスも高位の魔物に位置づけられるが、それでも、魔王という感じゃないだろう、だからそれは偉大なことだ」

「余を褒めても、な、何もないぞ」

「……オレは魔王様に気に入られようと、魔王軍に入り功績を立て、第十七部隊の隊長になった。実質的な権力は持たず、名ばかりの隊長、直属の部下も居ない、いわば名誉職だが、それでも嬉しかった。魔王様に一歩近づいた」

 ドノヴァは一歩魔王に近づく。

「う、うむ」

 魔王の顔はますます赤に染まっていく。

「その後も魔王様のためだけにずっとずっと働き目覚しい功績を上げた。今では側近その二だ」

「お、お前の気持ちは分かった……しかし、余も魔王という立場がな……」

 ソヨンの笑い声がオブリの隣から聞こえる。「立場ですって、笑っちゃうわね。好きなくせに」

「魔王様、さっきも言った通り、オレあんた尊敬してるし、あんたに近づくことが目標だった」

 さらに一歩、ドノヴァは魔王に近づいた。


「あとはさ、オレが魔王になるだけなんだ」


 そして、ドノヴァは言う。鋭い目つきで魔王を見据えていた。

「な、に……?」

「サキュバスにも魔王になれるんだ。魔王になる資格に種族は関係ない……それを証明した魔王様はオレにとって目標であった。オレが魔王になるための」

 まずい展開。そしてオブリは妙に納得した。どこかドノヴァと己は似ている、と心の内深くで思っていた、その答えを得た。ドノヴァもなりたかったのだ。魔王という存在に。

 虐げられた人生からその帰結に至った。己と同じなのだ。

「……あとはオレがお前と取って代わるだけだ。幸い、現体制には反乱分子も多い。オレに人望はないが、しかし魔王様、あんたに不満を持ってる奴も多い」

 魔王の顔が青ざめた。


「貴様! スライム、どういうことだ!」

「し、知らない……! 言っただろう、ボクだってドノヴァのことそんなに知らないんだ!」


「余を殺すのか?」

 魔王は青ざめた顔で問うた。

「…………いや……そんな事はしない」

 長くの沈黙の後、ドノヴァはそう答える。

「何故だ?」

「言っただろう。オレには人望がない。魔王にはなれない。それに……オレは実力に自信はあるが、しかし、今ここで魔王とサシで戦って……勝てるかどうか自信など無い」

「……」



「っち、魔王様のところへ行くわよ。あなたも来なさい」

 ソヨンが叫び、オブリを鷲掴わしずかみにする。そして何やら魔法詠唱を始めた。

 一瞬だった。一瞬、空間が揺らいだかと思えば、次の刹那、乙女色の装飾群が視界に入ってくる。魔王の部屋だった。

「魔王様……!」

 ソヨンは叫びながら、魔王とドノヴァの間に割って入る。

「ソヨン、何故ここに?」

 魔王が当惑の表情を見せた。

「ドノヴァ、覚悟しろ!」

 ソヨンは短剣を引き抜く。

「待て! な、何だ突然!」

 魔王の怒声が響いた。

「なるほど、会話を聴かれていたのか」

 ドノヴァが笑った。ドノヴァは極めて冷静だった。オブリは、不思議でたまらなかった。何故こうも冷静でいられるのか。そもそも――魔王を倒そうと本性をむき出しにしながら、しかし、実際には倒さなかった。この意味不明な行動に、オブリは苛立ちを覚える。この男は何がしたかったのだ?

「そういうことです、話は全部聞かせてもらいました」

 ソヨンがドノヴァに応える。

「ドノヴァ様」

 口を開いたのはオブリだった。

「お前も、話を聞いていたのか」

「はい、ボクも聞いていました」

「そうか」

 ドノヴァは目を伏せる。

「ドノヴァ! おとなしくしなさい、今直ぐ私が殺す」

 ソヨンの激昂げっこうが部屋中に響き渡たり、棚の上に飾ってあった何かの縫いぐるみが落ちる。

「待て!」

 静止したのは魔王だった。

「魔王様!」

 ソヨンの抗議の声が上がる。

「いいですよ殺して。ぶっちゃけ、ぶっちゃけ、もうオレ満足なんだよな。ここまできて、もう限界っていうか、よくオレここまで来たな……そんな感情しかなくて」

 ドノヴァの言葉は投げやりだった。

 沈黙が舞い降りる。言葉をそのまま素直に受け取り、ソヨンは今にも飛びかからんばかりの勢いだ。

「あなたは何故、ボクを拾ったんですか?」

 沈黙を破ったのはオブリだった。先ほど既にその答えを聞いてはいるが、しかし改めて問う。

「話聞いていたんだろう? 分からない。分からないんだ。なんかさ、ピンときた。お前はオレと同じだって」

 確かに。オブリとドノヴァは似ているかもしれない。オブリ自身が感じたことだった。

「魔王様、こやつの処分を!」

「……いや」

「魔王様!」

 オブリはソヨンと魔王のやり取りを傍で聞きながら、じっとドノヴァを見上げていた。この男は何を考えているのだろう。何故あっさり諦めたのか。その気がないなら初めからあんなこと口にすべきではなかった。その気があるなら暗殺でも何でもして、ともかく魔王の寝首をさばくべきだった。自殺願望者にしか見えない。その点だけ見れば、己とドノヴァは異なる。異なるのだ。オブリは強く確信を抱く。己であれば、そんな事はしない。時期尚早とみれば、静かに息をひそへつらう。時機到来とみれば、疾風の如く完遂するだろう。

 この男は、中途半端に己の欲望を曝け出し、自滅するのだ。そんな愚行、己はしない。

「ドノヴァよ、お前は魔王になりたいのか?」

 魔王が問う。

「もはや過ぎた夢」

 過ぎた夢? 違う、己から手放した夢だ。オブリは激しい憎悪を覚えている事に気づく。己はドノヴァを憎悪している。

「何故?」

 オブリも寸前口先までその言葉が出かかっていたが、魔王が口を開くのが一歩早かった。

「ここまで来られて、実際幸せでした。そしてここまで来られたことに幸せを感じるような矮小な魔物なのです、オレは……親友のあいつは幸せになった、そしてオレはそれを見て、……いえ何でもないです」

 ドノヴァは答える。親友? 一体親友とは誰の事だろうか。そして、何故――ここで諦める?

 オブリは心の内で問うた。本当は、そう問いただしたかった。だが魔王やソヨンの手前、それは出来ない。

「ここで諦めるのか?」

 代わりに魔王が、オブリの訊きたかったことを口にする。

「魔王様、何を?」

「うむ、余はこの男と結婚しようと思う」

「魔王様、つ、ついに……! って、いあ、いや、いや、相手は魔王様を殺そうとした男ですよ」

「側近の言うとおりだ。魔王ならば、危険因子は取り除くべき、オレを何故生かす? …………は? まて結婚?」

 ドノヴァはさすがに面食らったらしい。呆然と立ち尽くし、再び「結婚」という言葉を反芻した。魔王の顔は紅潮し体は震えていた。

「……余と結婚すれば、お主も魔王になったも同然じゃないか」

「魔王様……魔王様は何故そのようなことを?」

「それ以上余に言わせるのか? 余は、……お前が好きだからだ」

「………………は?」

 ドノヴァは再び固まる。まあ無理もないか、とオブリは思った。突然魔王に求婚やら愛の告白やらされたら、どんな魔物とてそうなるだろう。

「とんだ茶番ですね」

 オブリは溜息をつく。

「まったく、そうね」

 ソヨンも溜息をついた。

「え?」

「余はお前が好きだ! 魔王の命令だ、余と結婚しろ」

「え、ええええええ!? 何それ……」

 オブリは、心底ドノヴァを憎悪した。ドノヴァは魔王と同等の存在になってしまったのだ。

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