第四章 隠匿されし魔王の章

第22話 魔王と修道女の戦い

「道理で魂がいびつなわけだ」

 ドレスはぽつりと呟いた。

 男はじっとドレスの横顔を眺める。ドレスは男の方を向こうともしなかった。

 ドレスの呟きの意味は分かる。彼女は魂が見えるのだ。それを男は知っていた。

 だからこそ、自分は今彼女とここに居るのだ。

 ドレスは動かなかった。いや、その瞳から涙が再び零れ落ちていた。何を思い、泣いているのか。

「そうなのね、アブジ、タオ、カピンプス皆、そこに居るのね。それに、お前もそこに居るのね……いや、ずっと私と居たのね……」

 ドレスは涙を浮かべ、言った。誰の事かは訊かなかった。

 状況は、今まさにマリアという女がくだんの禁術で魔王を討ち滅ぼそうとしているところだった。

 男はじっと、魔王の姿を見つめる。いまだその姿が明らかになっていない、魔王。

 紫の魔法剣を右手に提げ、状況を静観している。そして、ドレスにも聞こえない小さな声で、呟くのだ。

「幾年ぶりか、いや、数週間ぶりか? お前にとっては何百年か? おれにはもう分からない。魔王よ、お前は俺が殺す」



 マリアの体が光る。強烈な光線。それがベールごと取り込む。光が魔王を包み込み、その体の中に入り込む。そして、魂の拡張と上書き――

 するはずだった。だが。

 何かに弾かれる。何に? それは解らなかった。今、何に弾かれた?

 マリアは狼狽ろうばいする。魂の上書と拡張――失敗? まさか。この魔法は禁術。存在しえぬ魔法。

 この本の著者とタオ、タオの師、そしてマリアしか知らないはずだ。

 魔王は、禁術をも防いだというのか? あるいは、拡張と上書きをされ得ぬ強靭きょうじんな肉体を? いや、強靭きょうじんな魂を、魔王は有していたというのか? 馬鹿な……

(どうやらそれが正解のようです)

「……タオ?」

(ええ、マリア、あなたの心に語り掛けています。大丈夫、【魂の拡張と上書き】が使えなくとも、あなたは勇者の呪いと、戦士の呪いを引き継ぎ、盗賊の素早さとその秘法を手に入れ、武闘家としての心得と大魔導士の知識と魔力、そして占い師としての感性を得た、ヒーラーです。地上最強の、人間。おくすることはない、マリア――ねじ伏せなさい、力で)

 心の中の会話は一瞬だった。タオが語り掛けて来る。驚きは感じたが、戸惑いはない。今はそんな事を気にかけている場合ではない。目の前の魔王を倒す。

(そうだ。私は今、最強の魔法使い、最強の戦士、最強の盗賊、最強の武闘家――それらを引き継いだ最強の僧侶にして最悪の<呪術師>に成れ果ててしまった。魔王など問題ではない)

 右手に少し力を込める。大気が震える。魔力がたわむ。おののく。空気が、大気が、酸素が――マリアに魔力を与える、いや、こう言ったほうがいいだろう。マリアは今、空間から魔力を引き出していた。それを放つ。詠唱なしの魔法行使だ。

 簡易詠唱もない、なんの形も与えられていない、ただの魔力の塊。

 魔力、それは本来、空間に常に漂っているエネルギー要素だが、それをエネルギーとして顕現させるのは難しい。形を与えてやらねば直ぐに霧散する。その儀式が詠唱であり、形とはすなわち魔法行使。だが、今マリアはそれをしない。ただエネルギーをそのまま放つ。それはひどく不安定で、あえてそれを魔法と定義するなら最弱の爆発攻撃系の魔法ということになろう。

 だが。フィリはそれを見て震えていた。フィリもサキュバス種で、魔法に長けた魔物だ。故に分かる。目の前にいる人間のデタラメさ。詠唱もないし、形を与えていないのに? 強大な魔法を……

 だが、考える暇を女は与えなかった。魔法詠唱を始めた。

 ただのエネルギー魔力をぞんざいに放っただけでアレなのに、魔法として行使したらどうなるというのか……フィリは戦く。

 いや、おののく暇すら与えられない。女がどんな魔法を唱えたか全く理解できなかった。凍える吹雪の刃が、竜巻を作り上げ部屋全体を揺らしながら魔王へと突き進んでいったのだ。

 床には無残にえぐられた跡。こんな魔法見たことがなかった。あれはもはや。あれはもはや人間ではない。まるで、これではまるで……あの女こそ魔王じゃない! フィリは思う。

 そしてふと、イリスを見た。四天王イリスは、動じず、ただ魔王の下知を守っているだけだ。つまり扉の、唯一の出入り口を塞いでいる。この余裕は何なのだろうか? あの化け物じみた人間をも、魔王は凌駕するというのか?

 女の攻撃は止まない。今度は灼熱しゃくねつの火炎だった。

 女の掲げた両手から炎がほとばしる――炎? そんな生易しいものではない。火球。いや、マグマの塊……

 そうとしか表現できない。むろん、それではその凄まじさを伝えきれない。伝えきれないが、それ以上の表現がなかった。そして、燃えた。魔王の部屋が燃えた。灼熱しゃくねつの地獄に変わった。

 魔王様は無事なのか――フィリは半ば絶望的な気持ちで、魔王がいるであろう方向を、あるいは消し炭になっているである方向を、見た。

「死んだぁ? ねえ? 死んだ?」

 女が笑った。哄笑こうしょうした。だが、女の哄笑こうしょうも、フィリの恐怖もかき消す冷たい声が響く。

「死んでないよ」

 湯気。女の放った氷の魔法、そしてその後に放った炎の魔法。急激な温度差が、周囲の物質――それは液体も個体も――を凍らせそして溶かした。その湯気が漂っている。それが晴れる。

 そして、ついに魔王の姿が現れる。魔王が、そこに、泰然たいぜんと立っていた。

 泰然たいぜんと? 立っていた? 魔王が?

「何それ」

 女が言った。

 フィリは押し黙る。信じられなかった。目の前の光景が信じられなかった。

 イリスを見る。彼女は不動だった――つまり、つまり、それは、あれが、あれが魔王ということなのか?

 そこには小さな、小動物のような、魔物、いや、あれはスライム種――スライムが立っていた。この世で最も最弱種たる存在が。

「お久しぶりでございます、魔王様」

 最初に口を開いたのはイリスだった。そしてそれは魔王が、いや、あの小さなスライムが魔王であることの証明であった。

「イリス、久しぶりって、何言ってるの? さっきからずっと一緒だったじゃん。それに、先週も会議したでしょう」

「しかしお姿を拝見したのはずいぶん前のことです」

「そうだったっけ?」

 これはどういうことだ。フィリは混乱した。それは、あの女、マリアも同じようだった。

「はー、ナニコレ? 魔王様が、スライム?」

 マリアがその小さく丸っこい魔物を上から見下ろした。

「いかにも、余こそが魔王、余の名前は……何でもいいさ。スライムでいいさ。まあ一応、オブリュッドと名乗ってるけどね」

「オブリュッドだぁー? そんな形かよ?」

 女は叫ぶ。その疑問はもっともだ。スライムは魔物の中でも最弱種と言われている。スライム種自体比較的弱い種族だが、その中でもノーマル・オーソドックス・タイプのスライム種は最弱の代名詞と言われていた。成人したスライムの大きさや体重は、人間でいえば出生仕立ての赤子に等しい。力も人間一般のそれに遥かに劣り、魔物の中でも最弱を誇る。魔法の素質は絶望的とは言わないまでも、ほぼないといっていい。力もなく魔法も使えない。素早さにおいても格段に優れているわけではない。敢えていえば、愛玩的な目的で魔物の中では持てはやされている。大きくくりっとした目、常に笑っているような赤い口、そしてなにより、小さくピョンピョン跳ねる姿はキュートだと言うのだ。

「オリュブッドていーうかースラぼうって感じがするわぁ」

「スラぼうか、別にお前がその名が気に入ったなら、その名前で呼んでも構わん。ボクにとって名前など意味がないから」

「そう……なんだか、たちの悪い冗談にしか思えないわぁ、だから」

 死んで。

 女は言った。そして、激しい衝撃が部屋を揺らす。フィリにはいったい何が起こったかわからなかった。ただ結果だけ見えた。

 女が杖を振り下ろしていた。そのスライム目がけて。

 つまるところスライムは粉々に飛び散り砕け散るはずだった。しかし……それは生きていた。

「不本意だけど、信じざる得ないようね、あなたが魔王って」

 女が言う。

「そりゃどうも」

 スライム――いや、魔王は言った。そして。突如の爆発。

 女は両腕を前に突き出しそれを防いだ。フィリには何が起きているかわからない。おそらく魔王が爆発の魔法を唱え、女が瞬時に応じ防御の魔法を行使した、ということだろう。

「イリス様……私にはまだ、にわかに信じられません」

 フィリは震える声で言う。眼前では、強力な魔法合戦が繰り広げられている。到底理解しえぬ魔法合戦だ。

「そうでしょうね、でも、真実よ……これで分かったでしょう」

「え?」

「何故私が死ぬ訳に行かなかったか分かったでしょう。四天王は滅びるわけにはいかない、魔王がスライム――その支配を受け入れる魔物がいると思う? でも、魔王様は間違いなく地上最強。故に……四天王を作ったの。もはや魔王様が直接政治に関わることはなかった。四天王を介して、魔王様の意思が伝えられ、それによって魔王領は統治された」

「……だから……」

「そう、だから、何があっても、魔王様の正体は知られてはならない」

 信じられなかった。一度にそんな説明されても、信じられない。

 自分の王が、実は最弱種のスライムだったって? いったいそれをどう信じろと?

 しかし現実は、まさにそうだった。最弱種のスライムであるはずのそれは、フィリが化け物と認知した女と互角に戦っている。互角? いや、押している……

「そういうわけだ、フィリ。驚いたか? それで次期四天王になるつもりになったか?」

 魔王は余裕があるのか、フィリに声をかける。フィリは何も答えられない。

「よそ見するんじゃないわよぅ! むかつくスライムねぇ」

 女の両手から無数の刃が生まれる。それが魔王を襲う。だが、魔王は竜巻を呼び起こし、それを全て巻き上げた。

 二人の戦いは熾烈しれつを極めている。そして徐々に魔王が押していた。いや、押しているというよりも、女の体力や魔力が減っている。そんな印象だった。

 魔王は魔法だけでなく、肉弾戦においても女より秀でていた。機敏な動作で動き回り体当たりをくらわす。小柄な女よりなお小さく、軽そうなスライムからは想像だにしない膂力りょりょくを備えているのだろう。女はいとも簡単に吹き飛んでしまった。

「やるわねぇ」

 しかし、女も化け物だった。動きに精彩さを欠き始めたといっても、平気な顔をしてまた魔法の詠唱に入る。もはや、己の立ち入る隙間はない。この戦いは、人知を超えた、我々の常識を遥かに凌駕りょうがする戦いだ。女は、勇者、戦士、盗賊という三人の呪いと装備を受け取っている。さらに、魔法と武闘を極めた男と融合しているのだ。そうして、あの化け物染みた魔力・力・体力・俊敏さを手に入れたのだ。

 なら――なら、その化け物と渡り合っているあのスライム、あの魔王は……? いったい何者なのだ? 一介のスライムが、何故あれほどの力を?

 その疑問は、マリアも同じく抱いていた。なんだこのスライムは? なぜこれほどの魔力を? これほどの力を? そして……何故スライムが魔王なのだ?

 疑問は尽きない。

(マリア、そういう考え方はダメだ。向こうからすれば、マリアとて本来、『なんでこんな小娘がこんな力を?』となるだろう)

 心の中。いや魂の内。そこへ、タオが語り掛ける。冷静さをマリアは幾分取り戻す。

 魔王スライムに魔法を唱えながら、マリアはタオと対話をする。

(でもどうすればいい? 実際強いよこいつ)

(大丈夫、マリア、君にはボクから継承した禁術がある)

(え……でも)

(大丈夫、もう一度だ。次は大丈夫)

(うん……分かった)

 マリアは覚悟した。倒すのだ。魔王を今日ここで倒すのだ。その為に、今まで旅をしてきた。

 全てが終わる。今日終わる。そう、終わらせるのだ。

「魔王覚悟!」

「ほう、またあの魔法か?」

 魔王は、そのスライムは笑う。見破られていた。だが構わない。使うのだ。

「果たして、それで勝てるのかな?」

「え?」

「さっきの説明だと、マリア、お前の説明だと、いや、武闘家の説明だと、……肉体は魂のシネクドキーといったな……ならば、無理なのではないか? 人間種の魂が、このスライムに入り込むなど不可能ではないのか? 拡張も上書きも、器が同じだからこそできる技であろう? タオとやらは、お前が人間だったからこそなしえた技であろう?」

 魔王は笑った。確かに。タオの説明だとそうなる。

 シネクドキーとはそういった類のものだ。メタファーとは異なる。メトミニーでもない。集合と要素からなる。

 種という集合、それが要素を規定する。スライム種ならば、スライム種であるからこその規定が、シネクドキーなのだ。

 魂が肉体を規定する。種が個体を規定する。人間という魂だからこそ規定された人間という肉体が存在しうる。だが、逆はあり得ない。人間という魂に規定された肉体は、あくまで、あくまでニンゲンなのだ。それはスライムでもないし、ゴーレムでもない。

(それは違うよ)

 タオは言う。

(何が?)

(あいつは何も知らない。【魂の拡張と上書き】はあくまで結果でしかない)

(つまり?)

 マリアは訊ねた。

(ボクはこの魔法が何故禁術なのか、知っている)

(……?)

(結局、全部魂という連環でつながっているんだ)

(魂?)

(そう、魂。肉体は器、魂が規定するすべての上位概念)

(つまり?)

(魂が魂に入り込む、いやちょっかいを出す。つまり、肉体は関係ない。魔王の今の強さは関係ない。魂が魂を壊す。魂に規定されて肉体が作られるだけだ、器は魂の後にできる! 肉体があって魂ではなく、魂があって肉体が作られるのだ)

(……そういうこと)

 マリアは、魔法の詠唱を始めた。覚悟はとうの昔から決まっているじゃないか。これが旅の終わりなのだ。

「くくく、無駄だね。ボクには通用しないよ」

 魔王は平然と構えている。油断している。何の焦りもない。付け入る隙だ。

 他方イリスは些か焦っていた。あの魔法は得体がしれない。魔王の力は絶対だが、あの魔法――嫌な予感がした。だが、魔王の戦いを邪魔するわけにはいかない。大人しく忠実に魔王の命を首肯する。それが、四天王なのだ。

 マリアの体が光る。その光が魔王を包む。たましいのかくちょうとうわがきがはじまる――



 二つの魂が対峙していた。いや、しかしそれは二つの魂とは言えなかった。

「お前が、マリアの魂か」

 魔王は言った。マリアは答えなかった。

「哀れな……魔王の魂を喰らうなど」

 魔王は言った。マリアは答えなかった。

「マリアよ」

 魔王は問うた。マリアは答えない。

「まだ消えてはいないのだろう。お前の魂はまだそこにあるのだろう」

 魔王は笑った。

「…………お」

 マリアはようやくそれだけを紡ぎだす。

「なんだ?」

「お……ま、えは……なんだ……」

 マリアのその声は、震えている。恐怖だ。彼女を支配しているのは恐怖。

「なにがだ?」

「たましいがすべてに先んずる……たましいのあり方が、肉体をも決定する……」

 がたがたと震えていた。そこは魂と魂が対峙する場所。魔王の中だった。魔王の内側に、スライムの内側にマリアは入り込んでいた。そしてそこで対峙したのは……

「だから?」

 魔王は、再び訊ねる。

「お前は、本当にスライムのたましいなのか?」

 マリアの目の前には/邪悪なる存在が高々とそびえていた/人間にしておよそ十数人ほどの全長/スライムに換算すればいくつだ/百?/二百?/全身が黒で/ただ禍々まがまがしい紫の霧を放っている/形という形はなく/巨大な塊にしか見えない/それが幾重にも絡まっている/これは黒い鎖の塊ではないか?/これが まおうの たましい/断じてスライムなどではない/

「容れ物など何の意味もない、ということなのだろう」

 マリアは答えられない、恐怖で口が動かない。

「そういうお前こそ、なんだ? お前の入れ物には、たくさんの魂が入ってるぞ」

 魔王。黒い塊。鎖のように、絡まっている何か。それがマリアをにらんだ。

「……」

 マリアは答えない。マリアの背後には、別の人影があった。タオだった。タオはマリアの肩に手を置き、マリアを支えていた。

「武闘家タオの魂か……ふん、これはお前がさっき話した話で合点がいく……」

「……」

「その実、拡張でも上書きでも融合でもなさそうだな。ただのみ分け、違うか? 一つの入れ物に、幾つもの魂を定着させる」

「……」

「しかし、ではお前の後ろにいる残りの魂はなんだ?」

 マリアはタオの魂を強く感じてはいた。しかし、今の言葉に振り返ると、そこには意外な人々が魂として立っていた。

「ガロ! アブジ、カピンプス……皆? ずっと一緒に戦ってくれてたのね」

 タオ以外は無表情で押し黙っていた。タオはただ一人穏やかな表情でマリアを見ている。 

「でも、どうやって私の中に入り込んだの? 私が灰を食べたから? でもガロは?」

「俺が……連れてきた」

 カピンプスが言った。その声はどこか儚げ。いや、申し訳なさそうな声だった。

「カピンプス、どうしたの?」

「マリア……もう、俺達の事は見ないでくれ」

「……? カピンプス?」

「俺は呪いによってこの世界に釘付けされている……」

「呪い?」

「そうだ。俺の呪いが、この世界に留まらせている。でも魂には拠り所が必要だ、俺はそのり所として、仲間のお前に入り込んだ」

「でも、だからこそ私はここまでこられたんでしょう? 皆の力があったから」

 カピンプスは今にも泣きそうな表情を作った。

「…………俺は勇者だ。勇者の血を引いている」

「?」

「お前が少しでも気を許したら、俺の血がお前を食い殺す、勇者という存在は精霊から加護を受けている存在なんだ、だから……」

「どういう意味?」

「肉体は滅びたけど魂は生きている。精霊の加護は魂にも及ぶ……俺の意思とは関係なしに……俺の魂が俺の血が、マリアを乗っ取る、そういう可能もあるんだ」

「……」

「だから、前だけを向いてくれ……俺の魂とお前が向き合いさえしなければ、そんな事にはならない。俺の魂には気づくな。もう二度と」

 カピンプスは言った。魂の中、悲しそうな表情で、カピンプスは言った。

「……それでも……いい、魔王を倒すには勇者の力が必要でしょ。それは、私ではない。勇者じゃなければ倒せないんでしょう。精霊に加護された勇者でなければ」

 先ほどの戦いを思い返す。確かに己は地上最強の人間へと成り果てた。だが、それでもなお魔王にはかなわない。その理由が分かった。おそらく。勇者でないからだ。精霊の加護を受けた勇者が必要なのだ。

「だから……」

 マリアは息をのむ。これでいいのだ。私の旅はここで、終わりなのだ、と。

「いいわよ、私は。魔王を倒す存在が勇者なら、その勇者が復活できるというなら、この体あなたにあげる」

「ふむ、お前が勇者か」

 話に割り込んできたのは魔王だった。

「……こいつが魔王……親父のかたき!」

 カピンプスの瞳が一際強く燃え上がる。直接のかたきを目の前にして冷静でいられるわけがない。

「ふむ、先代勇者は強かった。ボクには敵わなかったけどね」

 魔王は――その黒い鎖の連なりは笑った。

「マリア……」

 カピンプスの声、それが怒りに打ち震えていた。

「カピンプス……」

「お前の体を、俺のくれるのか? 多分返すことはできない、そしてお前の魂がどうなるかもわからない」

 カピンプスは悲しそうにマリアを見て、そしてタオを見た。

「いいよ。でも絶対魔王倒してね」

 マリアは笑った。即答だった。これでいいんだ。最強になった私の肉体に、勇者の血と精霊の加護が加われば……魔王を倒せる。だから。これでいい。

「いいんすか、それで。勇者さんもマリアさんも、それでいいんっすか?」

 その決意をくじこうとするのはガロだった。

「マリア、あなたは魂ごと消え去ってしまうんですよ。よく考えてください」

 そしてタオ。皆優しい。でも、いい。私の魂と引き換えに、あの魔王を倒せるならそれでいい。マリアは頑なだった。その決意はがちがちに固められている。

「いいわ、もう決めたの」

 そして言う。カピンプスに向かって。

「俺の、……すまない……俺のエゴに、俺のエゴに巻き込ませて、俺は絶対倒す、この魔王を」

「おかしいっすよ、勇者さん……この体はマリアさんのものっすよ、勇者のものではない。そんな体には入って、魔王と戦えるんですか?」

 ガロがカピンプスをにらむ。

「いいの、タオがやったように、たましいの拡張と上書きを使って、私がカピンプスを導く、それでカピンプスは私の体を百パーセント使いこなせるようになるわ」

「覚悟があるんだな、もうボクは止めない」

 タオが言った。タオもその表情は苦渋くじゅうに満ちている。

「あのよ」

 そこで初めてアブジが口を開いた。

「アブジ?」

 マリアがアブジを見る。久々に見るアブジの姿。変わっていない。巨漢で筋肉質で頼りがいがあるアブジだった。

「俺はその難しいことはわからんないんだけど。今、皆であの魔王を倒す、それじゃだめなのか? 今目の前に憎き魔王がいるじゃないか。この勇者一行五人で、魔王を倒す、それじゃだめなのか?」

 その言葉にマリアははっとなった。そんな発想がなかった。そうか、それでいいじゃないか。

「! そうっすね! 名案っす!」

 ガロも賛同する。

「……そっか、ははそうだよ、何でそんなこと気づかなかったんだ。よっしゃ、最終決戦! 俺たち五人で、倒そう!」

 カピンプスもその考えに賛同する。

「ありがとうみんな」

 嬉しかった。皆の気持ちがマリアには心地よかった。何より、一人でない、というのがすごく嬉しい。

「わかりました。でも、ここはマリアさんの魂の中、そして魔王の魂の中、皆そのことを承知でお願いします」

 タオが言った。準備は整う。あとは、あれを倒すだけだ。あの黒い塊の連なりを。

「ふーん、魂の中での戦いか。言っておくが、それは現実世界の戦いよりもより絶望的なものだと思うがな」

 魔王は言う。

「そんなもの、やってみなければわからない! 行くぞ! 【ライメイヨ、トドロケ、イカズチヨ、クダケェェェ】!!!!!!!!!」

 勇者の両腕から、うなる稲妻が放出された。それは瞬く間に、魔王の存在を焼き尽くす。黒い塊は、稲妻を受け呆気なく砕け散った。

「……! なんだこれ? あっけない」

 それにしても、あまりにもあっけなかった。カピンプスが唱えたその魔法は、強力な雷の魔法ではあるが、この一撃で魔王は死んだのか?

「カピンプス! 気をつけろ! それはまだ!」

 タオが叫ぶ。だが遅かった。

「!?」

 砕け散った黒い塊がカピンプスを覆った。黒い塊? 鎖? 違う。これは、スライムだ。黒い塊と思っていたそれは、無数のスライムだった。ただし黒い。それが鎖のように絡まり、大きな塊となっていたのだ。

 先ほどの雷は、その鎖をほどいただけに過ぎなかったのだ。

 ほどけちらたっばた黒い塊、黒いスライムがカピンプスを襲い、ガロを、マリアを、タオを、アブジを襲う。



「カピンプス?」

 声がした。カピンプスは、あたりを見渡す。懐かしい声だ。男の声だ。その声を知っていた。

「お父さん?」

 周りを見渡せば、そこは自分の生まれた町だ。

「え?」

 そんな馬鹿な。お父さんはだって魔王に殺されたって……

「そうだよ」

 それは言った。ずるり。首から上が、傾く。そしてごとり。首が地面に落ちる。

「お父さんね、魔王に負けちゃった。ごめんね」

 その首はそう言った。

「うわああああああああああああああああああああああ」



 そして、再び魔王の前にいる。カピンプスは魔王の前にいた。今のは何だったのか。

「どういうことだ、魔王!」

 勇者カピンプスは状況を理解できないでした。

 だが魔王は答えなかった。

「よもやな、スライムが魔王だったとは」

 声がした。魔王ではない。カピンプスの声でもない。それは……

「父さん?」

 己の父親だった。剣を構えている。そして魔王と対峙していた。何故?

『記憶だよ』

 魔王が言った。だが、目の前の魔王ではない。頭に直接響く感じだ。

『これはボクの記憶の断片だ』

 カピンプスは父に駆け寄る。しかし気づかないようだった。呼びかけても気づかない。

 そして――二人は戦い始めた。自分も加勢しようと魔法を行使したり剣を振るったが無駄だった。全てが何かに吸い込まれていくような、いや、そもそも手ごたえが皆無だ。

『言っただろう、記憶だ』

 記憶……では。これから起こることに想像がいたり、カピンプスは身震いをする。

 戦う父と魔王。

 父が剣を振るい、炎の魔法を、雷の魔法を、氷の魔法を放つ。魔王はそれに応酬した。熾烈しれつを極めていたが、父の不利は明らかだった。

「勇者よ、たった一人で魔王に挑もうなど空しいものだな」

「黙れ!」

 父は怒声を発し、剣を振るった。だが魔王はいともたやすくそれを躱す。

「何故一人なのだ? 国の支援はないのか? 仲間はいなかったのか?」

「黙れ!」

「ボクは心底お前を哀れに感じているのだ、家族はいないのか?」

「いるさ、息子に妻が」

「そうか、じゃあ、もう二度と会えないね」

「いや、会えるさ。お前を倒して」

 父が魔王に向かい駆けた。剣を振るう。だが通じない。魔王が魔法の詠唱に入る。その姿をカピンプスは絶望的な感情で見つめていた。魔王が魔法を放つ。暗黒の霧が父にまとわりつく。父がうめく。絶望の響きだった。父はそのまま、倒れこむ。それでもまだ立ち上がる。カピンプスは泣いた。そして懇願こんがんした。逃げてくれと。でもその声は届かない。これは記憶なのだから。

「頼む、逃げてくれ!」

 父は立ち上がる。そして剣を構える。魔王は、そのスライムは、口から灼熱しゃくねつの炎を吐く。

 父は避けなかった。その代り魔法を行使した。雷の魔法だ。炎と雷が交差する。雷が魔王を襲う。だが――魔王は平然としていた。

 そして父は、父は……カピンプスの父は……。

 カピンプスは目の前で、この、魔王の記憶の中で、父の死を見た。そして泣いた。憎悪が膨れ上がる。憎悪が。憎悪が。許さない。魔王を許さない。否――父はまだ死んでいなかった。倒れこんでいるが、まだ息がある。だが死は確定だろう。カピンプスは縋る思いで父の側へ行く。泣きながら父を見ていた。死にゆく父の姿を。カピンプスの心をむしばむ。悲しみの感情が、いや――、悪魔だ、悲しみという名前の悪魔が蝕み離さない。その中に捉えられたカピンプスにはもうどうすることもできなかった。お父さん、お父さん。叫ぶ。その声は届かない。絶望。絶望だけが、カピンプスをそっと包み込んでいた。



 魔王は笑う。他愛もなかった。カピンプスが陥落かんらくする。勇者は今、絶望と悲しみの感情に蹂躙されていた。

 マリアもそれは同じだった。彼女は今、両親が殺されるところの映像を見ている。それを魔物側の視点――マリアが住んでいた村を襲った魔物、その記憶をマリアに見せている。

 そして残りのやつらも同じだろう。他愛もない。人間とはそんなものだ。

 屈強な戦士も床の上で、のたうち回っている。

 彼はどういう映像を見ているのだろうか。しばし魔王は興味を持つ。

 魔王はアブジに近づく。そして魂を覗いた。



 アブジは貧しい村に生まれた。彼がお金に執着する所以の一つだ。アブジは幼き頃より貧しさの辛さを知っていた。だから、マリアとあれほど口論したのだ。

 たとえば、アブジの友人の一人。彼は病気で死んだ。治せない病気でなかった。栄養失調が原因だった。食べ物をきちんと取れない。しかし友人として何もすることはなかった。出来なかった。何らかの食料を与えるほどの余裕はなかったのだ。

 たとえば、アブジの弟。アブジの弟は幼くして死んでしまった。病気でだ。しかし、それも治療が受けられないだけだったり、栄養が足りないせいだったり、お金さえあれば何とかなる問題だったはずだ。そして、たとえば、アブジの村。その貧しい村は捨てられた。取り立てて特産物があるわけでもなし、観光地でもなし、貧しき村だった。国からの支援も受けられず、ただ漫然まんぜんと魔物の侵略の前に滅び去ってしまった。

 アブジが十歳の時だ。燃える家。泣き叫ぶ音。悲鳴。断末魔。瓦解音がかいおん。村の壊れる音。剣激音。爆発音。燃え盛る音。逃げ惑う人々。赤い血がしたたる。橙色に照らされる父は、もうすでに死んでいた。母の姿は見えなかった。ついに確認できなかった。アブジは逃げた。友人は? 近所のおばさんは? 知り合いは? 村長は? 皆死んだの?

 その村から逃げ延びたのはたった四人だった。

 他の人は死んだ。実際は解らない。生きているかもしれない。もしかしたら自分の母も、生きているのかもしれない。死に目にあったわけではないし死体も確認していない。でも。怖かった。死を確定させるのが怖かった。だから探さなかった。アブジの中で母は行方不明だ。

 そしてその日より、魔物を憎み、体を鍛え始めた。それと同時に、お金への執着も強くなる。お金さえあればあいつは死ななかった。村も滅びなかったかもしれない。お金がないばっかりに死んでいく人間のなんておおいいことか!

 それがアブジの原動力だった。そして茨の道だった。

「何故……」

 アブジはしかしその憎しみの原動力に飲まれてしまう日がよくあった。彼の憎しみは己を攻撃し始める。そして。いつも思い出す。貧しくも平和だった日々を。それが。突如壊されて。

 お父さん、お母さん……アブジは泣いた。それは過去の記憶ではなかった。今だ。現在だ。現在のアブジはガタガタと泣いていた。過去の記憶に触れ、思い出し、そして悲しみの感情に囚われている。震えていた。



 魔王は満足した。この戦士も過去のトラウマと向き合いひしゃげている。

 あとは武闘家とあの白髪の男か。魔王は思案する。武闘家は精神的に鍛えられている節がある。一筋縄ではいかないだろう。そう思っていた。しかし、彼はぶつぶつと何かを言い、そして涙を流し始めた。

「師匠は私に死ねというのですね」

 どうやら彼もまた、絶望の中に、絶望の感情の中に置かれたようだ。彼は運命を受け入れたと言っていた。しかし、虚勢だったのだ。運命を受け入れた振り。いや受け入れることは受け入れた。しかし、納得したわけではないということだろう。当然だ、納得できるわけがない。

 物心ついたころより実父の存在を知らぬタオにとって、ワンは実父に等しい存在だった。それに死ねと言われたのだ。直接言われたわけではないが、言っているも同然だった。

 ならば。もう、このタオはお仕舞いだろう。

 あとは、白髪の男だけだ。この男の記憶でものぞくか。確か、この男は陽動のために自爆したのだったな。魔王は、いや黒い固まりは、ガロのたましいににゅっと入り込んだ。

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