第6話 四天王イリス

「イリス様まさかこんなことが……」

 水晶玉を覗き込む部下が狼狽ろうばいの声を上げる。

 イリスも驚愕をもって水晶玉を覗き込んでいた。

「……ここに、来るな……」

 イリスは今、腹心のインキュバスと共に、水晶玉で、勇者の襲撃をのぞき込んでいた。だが、出来事は想像しがたい結末を、イリス達に伝えた。

「イリス様はあの相手に勝てるのですか?」

 インキュバスが狼狽ろうばいしながら訪ねる。不遜ふそんな物言いに多少腹が立つが、イリスに勝機はない。勝てない。

 四天王アゾテック。四天王の中でも最弱ではあるが、しかし四天王の一人だ。数回のやり取りで、アゾテックは死んでしまった。アゾテックはあの女にとって、雑魚でしかなかった。そして次のアル・バジャラ。こちらはもっと酷い。アル・バジャラが得意とする魔法合戦でいとも簡単に敗北した。

 これは由々しき事態だ。腹心のインキュバスはそう考えているのだろう。

 イリスも当然同様の感想を抱いてはいるが、それ以上に、深刻な問題があった。

 先ず、女の棺桶かんおけ棺桶かんおけが三つ。これが何を意味するのか。

 そして女のたましい。女のたましいはいびつだ。水晶玉を通してなので正確には分からないが、歪すぎる。歪んでいる。あれは正常な魂ではない。であるならば……。

 ふとイリスに、フィリの不安げな視線が入った。当然だ。フィリは不安だろう。

 腹心のインキュバスはそんなフィリに侮蔑ぶべつの視線を送る。彼はフィリに対し憎悪に近しい感情を抱いている。それを隠そうともしていなかった。気持ちは理解できる。おそらく自分こそがイリスの一番の部下と思っているのだろう。だが、今、イリスはぽっと出てきたフィリをイリスの手許に置いているのだから面白いはずがなかった。

「ねえ」

 イリスはやや不快気に、インキュバスに話しかけた。

「はい」

「足止めできる?」

「足止めですか……え、あ」

 死刑宣告に等しかった。四天王二人を難なく倒した敵だ。

「無理なら、いい。では、今すぐこの部屋から離れなさい。死にたくはないだろう。ほら、早く行かなければ、やつが来る」

「は、はい――」

 脱兎のごとく、インキュバスは逃げ出した。腹心ねえ……と、イリスは苦笑を零す。

「あ、あなたはだめよフィリ。ここに居て」

 イリスは震えるフィリに声をかける。

 フィリは、絶望的な面持ちでイリスを見返しながら、はい、と返事をする以上何もできなかった。

 さて、どうしたものか。イリスは考える。自分が死ぬのは構わないが、しかし、このフィリは殺してはならない。

 静かな部屋、静寂、闇、その中にフィリの汗が滴り落ちる音が、響いた。

 だが、その静寂が破られる。

 断末魔だ。

「ひっ、イリス様。タキアータ様が」

「分かっているわ、騒がないで」

 フィリは怯えた声を漏らした。その声が、イリスは可笑しかった。

 フィリ。イリスはフィリをじっと見つめる。

 体の中心部に浮かぶたましい。イリスの見えるたましい。

 フィリ、あなたは、魔王と結婚する運命にある。それはあたましいを見れば分かる。それを魔王に理解させるまでは、私は死ねない。

 たましい。フィリのたましい。気高く美しく、愛すべき、魔王の番たる魂。

 イリスはうっとりとフィリを見つめた。

 フィリは狼狽ろうばいしていた。それもそうだ。そろそろ安心させてあげる言葉でもかけてやろうか。

 だが、闖入者ちんにゅうしゃがそれを許さなかった。薄暗い部屋に、醜い人間の臭気がひた走った。

 目を向けると入り口に女が立っていた。左手はひもを持ち、右手で杖を構えている。女の後ろには鬱屈とした青色の棺桶かんおけが三つあった。

 フィリは絶望の表情を浮かべた。勇者に違いなかった。

「こんにちは、勇者一行です。では死へ誘え! 冥界の扉よ開け! 【絶死】!」

 死の呪文だった。だがイリスは平然としていた。

 フィリは恐怖で顔が青ざめる。そんなフィリをおもんぱかって、イリスは立ち上がり人間の女との間に立ちふさがった。

「よく来たな、勇者とその仲間たちよ……私はこの魔王城の四天王イリスだ。私にはその手の魔法は効かない」

 イリスは眼前の敵を険しい視線でにらみ付けた。

「へえ、女の四天王ねえ? アル・バジャラよりも強いかしら、アゾテックよりも強いかしら」

 女は挑発的な口調で、言う。なまめかしい唇に、長い黒髪の女だった。服装は修道女のそれだが、裾の端は切り裂かれ、肩の部分が大きく裂けていた。裂けたその下から、白い肩が垣間見える。人間の醜美はいまいちわからないが、おそらく美人の部類ではないだろうか、とイリスは思う。だがその美しさは頽廃的はいたいてきな、危うげなものだ。一言で言えば、その女は酷く恐ろしい。

 そしてイリスは、自分が強い衝撃を受けるのを感じた。女の中心には、たましいが、歪なたましいが。ぐにゃぐにゃとぐにゃぐにゃとして。一人ではない。この女、人間にあらざる存在だ。女と言う器にいくつものたましいが入っている。融合しているといってもいい。だが重要な、最も重要な事項は、そこではない。この女を、イリスは知っていた。

「さて、勇者さん」

 イリスが問いかける。

「私は、私は一介の僧侶にすぎない」

 女は事も無げに言った。

「僧侶? そう……僧侶さん……あなた一人で何ができるの? 勇者抜きで、果たして魔王様を倒せると思うの?」

 イリスの問いに、僧侶と名乗った女は答えなかった。

「アゾテックやアル・バジャラはあなたにやられたようだけど、魔王様は――」

「――随分とべらべら喋るサキュバスだこと。かかってこないの? それとも人間ごときにやられるはずがない、と高をくくってるわけ?」

「そうではないわ、あなたが強いのは解る。おそらく私以上でしょうね」

 それは事実だった。この女はイリス以上の強さを持っている。悔しいがイリスはそれを認めざるを得なかった。

 視界の端ではフィリのぎょっとした表情が見える。

 女は嘲笑あざわらった。

「そう、素直ね。ならどうする? 死ぬのが怖いから命を乞うて、魔王様のところにでも案内してくれるの?」

「死は怖くないわ……しかしそういう選択もあるかもね」

 驚愕の表情で、女はイリスを見返す。フィリもそれは同じだった。

「意味がわからないわ、ただの強がり?」

「定めよ。我々四天王は全滅するわけにはいかない」

 女は溜息を吐いた。

「定めねぇ、なんだかよくわからないわ。結局命乞いをしているの?」

 イリスは大きな首を振り、否定の意を表明した。

「魔王様はこの城の中で……いや、この世界で間違いなく最強よ。だから、魔王様があなたに負けることはないわ。でも、それじゃだめなの。もしあなたが四天王を全て倒すようなことがあれば、我々は終わってしまうわ」

「もうさー御託はいいのよ、あんた達の事情なんてどうでもいいの。死んでくれればそれでね」

「まあ……当然そうなるわね……」

 女は苛立ちの様子を見せる。

 女は戦闘態勢に入る。そして跳びかかる前に、問うた。それは戯言のような無意味な質問。そういったつもりで女は口にした。あるいは挑発のつもりで、口にしたのかもしれなかった。

「ならさぁ、私が魔王のところへ連れて行け、って言ったら連れて行くのぉ? さっきそういう選択もあるって言っていたわよねえ!」

 女は挑発的な、どこか妖艶ようえんな、しかし妖艶ようえん頽廃たいはい相混あいまぜになった表情ような、いうなれば投げやりのつややかさで、ぐいと近づきイリスをのぞいた。女は、己の淫靡いんびな香りで魔物を籠絡ろうらくできるとは露ほども思ってはいなかった。ようするに投げやりで、それがたまたまなめやかさをかもし出しているに過ぎなかった。

「そうね、そういう選択もありうるわ。でももう一人がそれを許さないでしょうね」

 問答無用で相手は戦闘に入るだろう。そう女は思っていた。しかし、実際には、実にのらくらと答えをはぐらかし、要領を得ず、突き出す杖も行き場を失踪しっそうする。

「は? 何もう一人って……?」

「魔王様に次ぐ実力者、最後の四天王よ。ついてきなさい……フィリあなたもよ」

 イリスはそう言い、踵を返し、背を見せ奥の扉を開いた。いつでも殺せる。そんな自信が女にはあった。実に無防備に見える。罠? ――いや、こんなやつ簡単に殺せる。たとえ罠だとしても。

 女は溜息を一つ、ふぅ、と吐き出しイリスに付いて行くことにした。

 フィリは震えて動けなかった。そのフィリの手を、イリスは掴み促した。

「ふうん、サキュバスって、女同士でもするの?」

 そんなフィリとイリスを見て、女はやはり投げやりに聞いた。

「しないわね」

 イリスも投げやりに答える。

 フィリは何も喋ることが出来ず、唯々諾々とイリスに従った。

「それで、どこに行くの?」

 廊下には魔物がひしめきあい、イリスと女の趨勢すうせいをあたふたと眺めている。彼らは困惑や疑念の眼差しをイリスに向けていた。当然であろう。

「四天王最強の、ロン・ウェンのところよ」

「へえ、わざわざ案内してくれるんだ。自分じゃ勝てません、って感じで?」

 女は挑発するが、イリスはそれを無視した。

「僧侶さん」

「え、何?」

「魔王様を仮に倒してしまったらどうするの?」

「国に帰るわよ。私たちは王様の命令で魔王の討伐に来ているの、その報告を」

 彼女はどうも勇者一行ということに固執しているような感じがした。

「へえ……それで勇者たちは死んだの? それともまだ息があるの? あるいは神の加護で生き返るの? いや、まあいずれにせよ…………魔王を倒したのは勇者ではなく僧侶ということになるけど。それでいいの?」

「……魔物には関係ない話だわ」

「そうね、確かに。魔王様が負けるわけがないし」

 やがて大きな扉の前にたどり着く。荘厳な重々しい、そして死の蠱惑こわくを感じさせる紋様を刻ませていた。髑髏どくろかま――それに鎌に、針。

「ロン・ウェン!」

 イリスは大声で扉の向こうに叫んだ。

「おお! イリスか! どうした! 勇者の首でも取ったか? 何故入ってこない?」

 扉の、蠱惑的こわくてきなあの扉の奥から、巨大な声が飛んできた。巨砲が爆発したのか、と思えるほど巨大な声だった。なるほど、声ではこの魔物たちにはかなわない。女は思う。

「ええ、今行くわ!」

 イリスも大声で応える。

そして扉を開けた。フィリの手を引っ張り、中へと連れ込んだ。人間の女はそれに付いて行く。

「おお、今日も美しいなイリスは」

「そういうあなたも逞しいわね、ロン・ウェン」

 二人は挨拶を交わした。

 最強の四天王、ロン・ウェン。――その姿、なんと形容すればいいだろう。全身赤色の毛に覆われている。二本の大きな角。顔は青色の毛で覆われている。両手両足には茶色の毛が生えている。実に、実に、醜悪しゅうあくで毒々しい外見で、初見は悪魔という表現がしっくりきたが、巨躯であり、ゴリラと悪魔を足したようだ、と女は思った。悪魔という表現は当たっている。眼前の巨体は邪悪なる悪魔の獣バフォメット種なのだ。

「お?」

 そこでロン・ウェンは初めて女の存在に気づいたようだった。

「人間……の、女?」

 ぎょっとしたように目を見開き、女を見つめた。

「おいおいおい、イリスよ。ま、まさかお前……そっちに目覚めたのか? お前、いや、女のサキュバスでは、満足できなかったのか? 次は人間の、しかも男ではなく、女なのか? まあ、お前に男が出来たら、それはそれで俺は哀しいが」

 妙な勘違いをされたらしい。ロン・ウェンは今にも笑い出しそうだった。

「いいえ」

「じゃあ、なんだよ、その女! あのなぁ、勇者が今攻め込んでいるんだろう? 非常事態だろう、そんな時に女なんか連れて遊んでる? 糞真面目なお前が? 何の冗談だ? それともそっちのサキュバスがたぶらかしているのか?」

 ぎょろりとフィリはにらまれる。体がすくみ動かなくなった。四天王ににらまれたのだから、当然の反応だった。

「彼女がその勇者一行よ。勇者一行の僧侶らしいわ」

 イリスは仏頂面で応える。

 刹那。空気が変わった。今まで冗談のつもりで笑みを浮かべていたロン・ウェンの表情が変わった。疑団ぎだんの表情。

「何の冗談だ?」

 先ほどと同じ台詞、だが口調に込められた切っ先は、今にもイリスと女の喉元をっ切らんばかりだった。

「何故すんなりここへ連れてきている? アゾテックやアル・バジャラはどうした?」

「死んだわ、この女に殺された」

「なら何故!」

 叫び声。絶叫といっても良かった。憎しみを全面に押し出し、突き刺すような目線でイリスを射抜いた。今にも、今にもその巨体が飛びかからんばかりだ。

「私も疑問だわ。何故、私をここに連れてきたの?」

 怯まず女はイリスに訊ねる。

「……それは、この女が……お前が、この私より強いからよ」

「ふざけるな!」

 即答だった。ロン・ウェンは爆発的な声量を撒き散らす。

「それでおめおめ連れてきただと、貴様は四天王だろうが! 何故戦わない! 腰抜け!」

「……四天王全員が死ぬ訳にはいかない、それはあなたも知っているわよね」

 努めて冷静に、イリスは言葉を返す。

「ああ、そうさ! だが俺が負ける? お前はそう思っているのか? 本当に? 命が惜しいだけだろう、自分の命が惜しいだけ! ただそれだけだろう! イリス!」

「いいや、命は惜しくない。魔王様のためにいつでも投げ出す覚悟がある――私がこの女と戦ってもいい、本来ならそうしたいところだわ。でも……懸念が有る」

「お前と話しているとイライラするな! お前がそんなヤツとは思っていなかった!」

「話を聞きなさい、ロン・ウェン。だから私が戦っていいと言っている。その代わり、あなたは魔王様のところで待機していて」

「は?」

「懸念はそれよ。言ったでしょう、万が一にも四天王は全滅するわけにはいかない。保険が必要なの。ロン・ウェン、あなたがその保険になってくれるなら、私は喜んでこの女を殺すわ」

「俺に引けというのか?」

「そういうことよ」

「……俺がそんなことすると思うのか?」

「思っていないわ。でも保険は必要なの。あなただって知っているはずだしょう! 分かっているはずよ! 四天王は常に魔王様に忠実であることを! そして四天王は決して滅びてはならない!」

 先程まで努めて冷静に話していたイリスだが、突如として怒声に近しい声をロン・ウェンに浴びせた。

「……それは、分かってるさ……っち、分かってるさ……」

 意外なことにロン・ウェンはそれで引き下がった。

「結局どっちが私と戦うわけぇ? 順番が変わるだけで、死ぬのは変わらないと思うけどねー」

 始終沈黙に徹していた女はようやく口を開く。投げやりで挑発的で、退廃的妖艶さの香りを漂わせていた。

「貴様! 俺だ、俺が戦う! イリス、お前はさっさと魔王様のところへ行ってろ!」

「ええ、分かったわ。健闘を祈ってる」

 イリスはそのまま部屋の奥へと行く。そこには赤色に縁取られた扉があって、その先が魔王の間であった。フィリもイリスに連れられ、魔王の部屋へと足を運ぶのだった。

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