第3話 魔王の傍ら

 そして、魔女が氷の中に閉じ込められ、三百年が経つ。

 魔女が殺すべき魔王は、その時初めて魔王に即位したのだ。百年という長い期間、魔王領を支配したドラゴン種ハーケル・ナディシャスを殺し、かの魔王は魔王となった。魔王は四天王を従えていた。四天王が全ての政務を執り行い、魔王は表に姿を現さない。魔王のその実態を領民の魔物達さえも知らなかったのだ。よしんば人間たちが魔王を知る由などなかった。

 ……そして、魔女が凍り六百年が経つ。

新たな魔王と、四天王が支配する新魔王領が誕生し三百年という永き時が経過したのだ。

 新魔王は相変わらず健在で、その上その存在は相変わらず隠匿いんとくされていた。

 魔物と人間の戦いは三百年、長きにわたり続く。何人もの勇者が誕生し、魔王に敗れた。そしてまた新たな勇者が、魔王を倒すために立ち上がるのだ。

 


 イリスは恭しく頭を垂れる。

『そうか、新たな勇者が旅立ったか』

 声が大気を震わす。魔法で変声された魔王の声は、心臓に響くように、不安にさせるものだ。

「はい、魔王様。旅立ったというより、すでに、我ら魔王領の懐に入り込んでいます」

『懐? 中立のエルフ国か?』

「いかにもその通りでございます」

 魔王はイリスの一枚へだてた布の向こうに居る。

『それで、イリス。そのサキュバスはなんだ?』

 イリスの背後には、イリスより一回り小さなサキュバスが震えるように頭を垂れている。

「私の新たな部下でございます」

『ほう、そうか。しかし余が見たところ、そのサキュバスは然程強くないぞ』

「いけませんか?」

『いや、よい。弱い魔物を部下にしようが、強い魔物を部下にしようがそれは、別にお前の自由だ』

 くだんのサキュバスは恐れで口を開かず、ただじっと床を見ていた。何故自分がこんなところにいるか全く彼女には見当がつかなかった。サキュバス・イリスは四天王の一人であった。どういうわけか彼女はイリスに見初められたのだ。彼女は貧しい生まれであった。サキュバス種の中でも、さしたる大きな魔力を有さず、運動能力も並以下、智能も平凡、そして生まれは貧しい。魔王領において魔王に次ぐ地位を持つ四天王に見初められる道理がない。

 イリスが男であれば、彼のサキュバスに惹かれた、というのもそれとなく理解できるが、イリスは同種のサキュバスである。イリスもサキュバスで女なのだ。 

『名前は?』

 魔王が訊ねる。

「フィリでございます」

 震え声でサキュバス、フィリは答える。

『ほう、フィリか。四天王イリスの寵愛ちょうあいを受ける幸運なサキュバスよ、一応余の記憶にとどめておこう』

「あ、ありがたき幸せ」

 フィリは頭をあげることが出来なかった。なにせ、布の向こうに魔王が存在するのだ。魔王、隠匿いんとくの魔王、しかし、三百年の治政を執り行った魔王なのだ。ちまたでは、魔王と言うのは概念に過ぎず、実態は四天王による合議制だ、と噂されていた。だが、魔王は存在した。今、フィリの目の前に確かに存在しているのだ。

『それで、イリス。このフィリというやつを余のところに連れてきたのはいかなる了見だ? 部下を紹介するなど……いや愛人か? 愛人を魔王に紹介するなど、どのような意図だ?』

 魔王は、件の震えるような、いや心臓を鷲掴わしずかみするような声で、言った。フィリは全身が汗ばむのを感じていた。四天王イリスを目の前にした時でさえ、フィリは緊張と恐怖で震え、汗ばみ、卒倒そっとうしそうになるのだ。いわんや魔王の眼前で恐れを抱かないことができるであろうか。

「はい、魔王様。フィリは私の愛人ではありませんが、まあそう捉えてもらっても構いません。それで、私が死んだ時、魔王様に彼女のことをお願いしようと思いまして」

『解せんな……今から死ぬ予定でもあるのか?』

「ございませぬが、私は慎重なので、保険が欲しいのです」

『ふうむ。フィリよ、お前はそこのイリスとどのくらいの付き合いなのだ?』

 フィリは魔王から名前を呼ばれ、話を振られそれだけで心臓が縮み上がった。

「は、はい、まだ一週間でございます」

 しどろもどろに答えた。

 その瞬間、明らかに不穏な空気が漂う。分からないが、おそらく魔王は怪訝けげんに思っているのだろう。フィリ自身も、意味が分からなかった。何故自分は四天王イリスに見初められ、あまつさえ魔王に紹介までされたのだろうか。

『一週間? おい、イリスよ。一目惚れというやつか……。それにしても……わずか一週間で、余のもとに連れて来るほどぞっこんなのか? それとも、何か特別な才能でも有しているのか?』

「魔王様、その両方でございます」

 恭しくイリスが答えた。

 フィリは寝耳に水と言った感じである。本当に自覚がない。イリスは何故自分をこれほど気にかけてくれるのだろうか。

『両方? そうか、ならばどれほどの才能があるというのだ?』

「……それは、いずれお話しします。フィリはまだその才能……いえ、才能と言うより、たましいに気付いていません」

『魂? また、訳の分からぬ魂の話か。イリスよ、余はお前の言う話がいまいち信じられない。魂な、魂がどうだというのだ? 魂が見えて、それがなんだというのだ?』

 たましい? フィリも首を傾げた。四天王イリスの言う話がよく分からなかった。自分の魂が何だというのだ。魂に気付くとはどういう意味なのだ。

「お忘れですか? 私は魔王様のたましいも見ております。今も見えておりますよ」

 イリスは微笑んだ。魔王相手にやや不遜な言い方ではないだろうか、と不安を抱いた。

『そうであったな。おまえは、余の魂を見、余の真の姿を知っている、四天王の誰よりも。それが魂の損存在の証拠か……ふむ……まあよい、幸い余はサキュバスが嫌いではない。イリス、お前の図々しい態度も不思議と許せてしまう。仮に、もし仮にお前が死ぬようなことがあれば、フィリは、余が面倒を見よう』

「承知していただき、嬉しく存じます」

 イリスは答えた。



 二人は魔王の間を出、四天王イリスの部屋へ戻った。

 フィリは大きなため息を吐く。

「申し訳ありません、魔王様を前にして、凄く、その怖くて……」

 フィリは正直に自分の心情を吐露とろした。

「そう。大丈夫、魔王様は優しいお人だから」

 にっこりと笑い、イリスは答えた。その笑顔に、フィリはドキリとする。イリスは四天王唯一の女性であった。目もえるような青い肌に、長い二重、長い睫毛、美しきより色の濃い青い唇、すらりと長い脚、羽は大きくつややかな漆黒色……およ美貌びぼうと言う美貌びぼうをその体に収めている。フィリなど比べ物にならない。同じサキュバス種で、どうしてこうまで違うのか。あるいは四天王となるべく魔物は、その実力や知性だけではなく、容姿まで美しくなくては務まらないのか。

「それにあなたは魔王様といずれ結婚する運命にあるわ」

「え? は……」

 イリスの唐突に発せられた言葉に、フィリは絶句した。唖然あぜんとするフィリの手を、イリスが強く握りしめ、笑顔を向けた。

「ま、待ってください。魔王と結婚なんて、いや、魔王様と結婚なんて絶対無理です……。大体私みたいな、田舎くさくて、強くもなく、魔力もなく、頭が悪いものが……」

「大丈夫、あなたは魔王とたましいが繋がっているから」

「魂?」

「そう、たましいよ」

 フィリは、まっすぐ見つめ返す美しいイリスの瞳に射抜かれて、顔を赤くし、思わず目を逸らした。魂とは何のことであろうか。よく分からない。突拍子がなさすぎる。

「まあいいわ、いずれ魔王様と引き合わせるから」

「え? 今日お会いしたではありませんか」

「でも姿は見てないでしょう?」

「ま、魔王様の姿を、見てもいいのですか?」

「いずれね」

 イリスは答える。フィリはこの四天王イリスの思惑が分からず、狼狽ろうばいするしかできなかった。



 フィリはイリスに与えられた部屋に戻った。魔王城内にある自室だった。本当にこの一週間驚きの連続だった。四天王イリスに見いだされ、魔王城に部屋を与えられ、魔王にも面会した。

 ど田舎の、田舎娘だった自分が魔王の婚約者など信じられるはずがなかった。しかも魔王は未だその事を知らない。ただイリスの中だけで、事態が勝手に進行しているに過ぎないような気がしてならなかった。

 フィリに与えられた部屋は、豪勢な部屋だった。部屋の内装は青い色の壁紙が敷き詰められていた。青は彼女が好きな色だ。だが、フィリが注文して、壁紙を青色にしたわけではない。始めからそうなっていたのだ。

ふと、フィリは窓際に立つ。窓際から、魔王城城下町が見える。フィリの部屋は七階に属し、一望できるのだ。そこから城下町を一望し、フィリはふう、とため息を吐く。僥倖ぎょうこうには違いない。幸せなのは確かだ。しかし言い知れぬ不安だけが胸を巣食っていた。

 窓からの眺望。魔物達が城下町を闊歩かっぽし、街は活気にあふれている。

 もうすぐ今年が終わる。来年は、おそらく波乱万丈の年になるのであろう。フィリはぼんやりとそんな事を思った。勇者一行が魔王城へ攻め入ったのは、そのわずか一週間後、あとわずかで年の瀬と言うある日の出来事であった。



 魔王は、自室で、魔女について思いを巡らしていた。

 ついに六百年と言う年月を過ごしてしまった。

 魔王は六百年前の己の失策を強く恥じていた。いや、六百年前の失策ではない。もっとはるか遠い遠い、もはや取り返すことのできない遠い遠い……

 魔女。憎き魔女。

 しかし魔王は、その魔女を殺し損ねた。いや、殺し損ねたというよりも、自暴自棄によって何もしなかった。

 そのことを魔王は今更ながら悔いている。

 魔女は言った。「六百年後の未来であなたを待っている。そして今度こそ殺すわ」と。

 その六百年が経ったのだ。だからここ数年、いや十数年は、それなりに備えをしてきたつもりだった。

 準備――いや、覚悟と言ってもいいかもしれない。軍事的な準備ももちろんだが、それよりも覚悟だ。またあの魔女とまみえる時、それが最後だ。

 魔女を絶対に殺し、未来への禍根かこんは残さない。過去への禍根かこんも残さない。

 そういう覚悟を。

 魔女は人間種であり、寿命の上では、六百年も生きながらえるはずがなかった。しかし魔女は来る。魔王にはそんな確信があった。魔女は絶対に、六百年と言う時間を経て、ここへ現れる。

 その日、魔王ははるか遠い時間に思いをせながら、憎き魔女との対決を、夢想していた。

 そこに、一報が寄せられる。

 勇者が来た、と。

 魔王は辟易へきえきした。

 またか……。

 いい加減うんざりする。勇者という制度は何なのだ。

 前回は十年前だったか。その前は何年前か……ともかく十年二十年の単位で勇者と言う存在が出現する。倒しても倒してもきりがない。余りにも面倒だから、昔その血族を根絶やしにしたことがある。が、すると別の血族で勇者と名乗る一族が現れた。

 面倒だ。

 前回の時に四天王の一人がやられた。魔王にとっては手痛い打撃だった。

 その勇者は結局魔王が直々に殺した。魔王からすればさほどの相手ではなかった。

 今回はどうするか。最初から魔王自らが相手をするか……。

 いや、相手をするのは四天王に任せよう。魔王は極力表には出ない。自分に課している規則だった。だから、四天王が勇者を殺すのを、待つ。

 懸念があるとすれば、魔女。その勇者一行に魔女は含まれているのか。

 魔女がいるならば――その時は、魔王自ら動かねばなるまい。

 そういえば四天王イリスと愛人らしきフィリのことが脳裏に浮かぶ。先ほどまで会話をしていた相手だ。イリスは保険と言っていた。あの会話は不吉な予兆だったのだろうか。

 まあ、考えても無駄なことだ。魔王は思考を閉じた。

 そして悲嘆ひたんの中に埋没する。六百年。

 魔女は勇者一行に会えたのだろうか。

 己は……結局この六百年、何もなしえなかった。失ったものは何も取り戻せなかった。

 憎き魔女よ、お前はどうなのだ。

 魔王は、そう、闇の中呟くのだった。

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