第3話 墓場の守り人1
林羅門は悩んでいた。家に幽霊がいる。
気配は感じるが、姿は見えない。いや、声も聞こえる。幽霊の名前も知っている。
何ということだろう、幽霊である彼は今、まさに捧げモノを所望している。
「あの、爺ちゃん、それ、俺の…」
ダイニングテーブルに乗せられているブランデーの染みこんだバターケーキは祖母の手作りで、何泊かの温泉旅行に行くと言うので、羅門の為だけに(!)まとめて作っておいてくれていた羅門のおやつである。
「爺ちゃんやない。ひいひい爺様や」
耳に心地いい声だけが、そう言葉をつむぐ。目の前で、パッと消えたブランデーの香り高いバターケーキの所在を探すのは無駄な事と思いつつ、空中を睨んでケーキの行方を追う。
「
パンパン、と二拍手一礼して、羅門はカバンを背負う。
「ほな、俺学校行くんで」
どこへともなく声をかけて、羅門は玄関を出て鍵を閉めた。
今日は飲み会だから
堅田駅に着くと、間もなく電車がホームに入ってきた。特急の通過待ちで駅で待ち合わせする電車だ。席は空いている。彼は四人掛けの窓際席に進行方向を向いて座る。午後からの授業だからゆっくりめの登校のお陰で満員電車の乗らなくてすむ。
羅門はワイヤレスのイヤホンで音楽を聴きながら、スマホでラノベの続きを読む。こうなると、もう自分だけの世界に没頭する。
電車が発車したのにも気が付かないまま、羅門はトンネルに入った暗さでスマホから目を上げた。ふと、斜め前に座る人物が目に入る。さっきまではいなかった。
艶のあるボルドーの革のひも靴が最初に目についた。それから折り上げられたグレンチェックのスラックスに白い麻のシャツにベージュのジレ、そして、パナマ帽。シャツから出ている腕は筋肉質だが優雅なラインを描いて繊細な長い手先に繋がっている。長い足を優雅に組んで寝入っているようだ。
気障な格好やな、と羅門は思った。
再びスマホに目を落として、羅門は斜め向かいの乗客の事を意識から外した。
羅門はこの時、もっと注意深く相手を見るべきだったのだ。見れば、それがこの世のものならざるものだと、すぐに気が付いたはずなのだ。気付けば、風丈さまさまに何とかしてもらえたのかもしれなかった。
トンネルを電車が抜けると、明るい日差しが目を刺激する。
羅門は顔を上げ、窓の外を見る。ガラスに映った電車内の景色には羅門以外誰も映っていない。斜め向かいの乗客もいなくなっていた。
特に気にすることもなく、羅門はまた読書に戻る。
京都駅に着くと、地下出口から地下鉄に乗り換える。大学のある今出川駅に着いた時、視線を感じてその方角を見た。
「まったく…」
小声でごちて、羅門は溜息をついた。
墨色、とでもいうのだろうか。黒ではない、深いグレイの浴衣を着た風丈が扇子で風を起こしながら壁にもたれてこちらを見ている。浴衣だからだろうか。色香の漂う姿は同性の羅門から見ても羨ましいほど神々しい。その甘いマスクとしなやかな肉体だけでも視線が集まる男だが、尋常ではない存在感のせいで目立ちすぎている。
彼に近づいて行くと、あごを上げてこちらを見る風丈の視線にぶつかる。
「何か御用でしたか、俺のおやつ泥棒のひいひいお爺様」
棒読みに近い言い方で風丈の前で頭を垂れて言うと、こつん、と彼の扇子が頭に当てられる。
「お前、墓守り人に呪われたな」
落語家か、と突っ込みたくなる流暢な関西弁が風丈の口からこぼれる。一瞬、何を言われたのか分からないところが彼の美貌の欠点だと羅門は思う。言葉も態度もはっきりしている風丈だが、彼の紡ぎだす言葉が荒っぽく、こてこての関西弁だと誰が思うだろうか。容赦のない言葉の嵐が外見と一致しないせいで、一瞬言われた言葉の意味の理解が遅れるのだ。
「呪われる?」
「ああ。面倒なことになった」
風丈は先を歩き出した。
「ちょっと、それってどういう意味なん?墓守り人って何する人?」
羅門は不安な顔で風丈の後を追う。
そんな二人を遠巻きに見ていた学生たちの中をかき分けて、一価が走ってきた。
「風丈さん、羅門、何か事件?」
ワクワクと尋ねる一価に、悲壮な顔の羅門が頷く。
「一価、なんや俺、呪われてるらしいねん」
「は?」
一価はきょとんとして羅門を見、先に行く風丈の背中を見た。
「なんで?」
「いや、わからんねんけど」
超絶の存在の風丈の言葉が真実だと羅門は信じている。これで冗談だと言われたら風丈の存在自体がまやかしだと思う。
「とにかく、風丈さんに任せとけばいいんちゃうの?」
「いや、それが面倒なことになったって言ってた」
「え…」
二人で話している間に風丈は遥か先に行ってしまっている。遠くに見える背中が周囲の視線を集めている。それでも何も気にしていないところが彼だ。着こなしも所作も、やはり人と違う魅力がある。あんなのと血が繋がっていると思うと、ちょっと怖い気もする羅門だった。
「んで、呪いって具体的にはどうなんの?」
一価の問いに、羅門は「ん?」と立ち止まる。
「そっか、要は気にせえへんかったらいいわけや」
羅門の顔が見る見る明るくなってくる。
「なんかわからんけど、解決したっぽい?」
一価も笑顔になって、二人で喜んでいると、はるか遠くの背中が振り返って鋭い目で羅門を見る。なんか違うらしい、と自覚した羅門だが、気持ちは明るい。呪いなど受け手の問題で、気持ちが勝てばいいのだと彼は信じている。
「よう、お前ら。相変わらず能天気やな」
二人の向こうから見知った青年がやって来た。
日に焼けた肌が爽やかな笑顔を際立たせる。圧迫感を与えそうな三白眼も、彼の凛々しい出で立ちに華を添えている。
「前川。授業終わったん?」
一価の問いに彼は「ああ」と頷いた。
「お前らいつも仲良しやな。一緒にいいひん日はないんとちゃう?」
微笑ましい、とでも言うように
「あれ、お前今日の飲み会来るんやろ?」
羅門が帰ろうとしている千嘉に尋ねると、ふふ、と彼は笑った。
「ちゃんと行くで。その前にバイトやねん。京都駅の方やから、これから電車乗るとこや」
「ああ、そっか。良かった。お前が来ないと女子の出席率下がるし」
羅門は言って、ぷっと吹き出した千嘉の顔をまじまじと見る。
「なに?」
「いや、お前がそんなこと気にするなんて思わへんかったから」
「そんなことって、女子のこと?あ、いや、ちゃうねんって。先輩に言われてんねん。女子集めろって」
慌てて羅門が説明すると、千嘉はポン、と彼の肩に手を置いた。
「分かった。お前がそんなこと気にするわけないわな。お前の気になるのはたった一人やしな」
「ちょ、待って。なに、それ」
羅門は赤くなって慌てる。
「ほな、俺行くわ。また後でな」
千嘉は可笑しそうに笑ったまま、改札に向かって行った。
羅門が一価にバツが悪そうに目を向けると、一価も半笑いで羅門を見ている。
「あ、それはそうと、風丈さんは?」
一価が地下道の先に目を向けると、もういない。
「置いてかれたな」
一価が言って羅門を見る。
「ま、あっちは幽霊みたいなもんやし、また出てくるんちゃうかな」
「そっか」
二人納得し合ってまた歩き出す。
「君ら、もっと人生深く考えた方がええんちゃうか。頭もっと使え。心でもっと感じろ。そんな脳と体の無駄遣いしてたら、お先真っ暗やで」
耳元に風丈の声がして、二人同時にビクッと体を震わす。
当の風丈の姿はない。
「そら、みみ?」
羅門は無理矢理笑顔で一価に言い、彼もこくこく頷いた。
「アホは死んでも治らんって言うわな」
言葉と共にコン、と羅門の頭に扇子が落ちてきた。
「私は野暮用ができた。お前はこれを肌身放さず持ってるんやで」
声だけの指示に、はい、と頷いて羅門は落ちた扇子を拾ってズボンの後ろポケットにしまう。通常の扇子よりも小さくて、すっぽりとポケットに収まった扇子は思ったよりも違和感なく持っていられる。
「悪霊退散のおまじないみたいなんがかかってんのかな?」
一価が扇子の事を指して言った。
「やったらいいけどなあ」
羅門は何となく違うと思った。風丈のことだから、お守りという名の自己暗示をくれたのだと思う。そう思っている時点で効果がないと思うが、それでも、何もないよりはマシな気がする。
羅門は気を取り直して学校の敷地に入る。
「一価、今日の飲み会の幹事って貝原さんやんな?」
広い校舎の廊下に溢れた学生をかき分けつつ、羅門は一価に質問すると、彼は頷いて、「なんで?」と逆に尋ね返された。問うほどのこともない事実なのだ。
今日の飲み会は彼らの所属するサークルの月一の恒例行事で、副部長の貝原がいつも幹事をしている。気前のいい先輩で、羅門たちの面倒もよく見てくれる頼もしい人だ。
「貝原さんが来るってことは、今夜は三人川の字で寝るってことで、俺のひいひい爺さんが現れたら、かなりびっくりしはるんちゃうかな、なーんて」
羅門の言葉を聞いて、やっと一価が彼の心配事を理解した。
貝原は飲み会の後は一価のアパートに必ず泊まっていく。寂しがりなのか、後輩の面倒が見たいだけなのか、よくわからないが、気の良い先輩は一価と羅門の真ん中で大いびきをかいて眠るのが常である。
「ま、ええんとちゃう?」
一価の考えは羅門にもわかった。彼は驚く貝原の顔が見たいのだ。なんという浅はかな友達やろう、と羅門は困った顔で彼を見た。
授業が終わって、二人はどちらともなく旧館の屋上へ行った。
「やっぱり誰もいないか」
一価は寂しそうに言って、羅門にガムを渡す。それを受け取って、羅門は口を開いた。
「風丈さまさまが結界を敷いたって言ってたから、きっともう幽霊も悪魔も出てこおへんよ」
「そっか。ってか、羅門、風丈さまさまって何?」
「ん?ひいひい爺さんやから、さまさまって付ければいいかと思って」
羅門の答えに一価が噴出した。
「だからアホは治らんって言われんねんで」
「そやけど、ひいひい爺さんじゃ長いし、風丈さまって柄でもなさそうやし、何て呼んだらいいのかわからんわ」
羅門はまだ熱い空気が漂う石の壁を触りながら言って、暗くなってきた空を見上げる。
「風丈さんでええやんか」
一価は簡単に言って、時計を見た。
「集合時間にはまだ早いし、どっかでお茶する?」
屋上は暑いし、涼むところへ行きたいらしい。一価はただ、この屋上に誰もいないことを確認したかっただけのようだ。
「そやな」
羅門は財布の中身を思い浮かべながら答えた。
二人はぶらぶら歩いて、駅の近くのファーストフード店に移動した。客は少なく、ゆっくり過ごしても嫌な顔されないな、と一価が小声で言った。二人はコーヒー味のシェイクを頼んで席に着いた。外の通りが見える席だ。
何を話すでもなく、ずずっとシェイクをすすって、二人は店の外を見ている。道行く人は急ぎ足からデートの浮かれた足取りまで様々だ。
「なんか、こうして見てるとさ、人間って可愛い生き物やなあって思わへん?」
一価が少し微笑みながら外を見て言った。
「お前って、ロマンチストやなあ」
羅門は一価のことをそう評したが、彼ほど人間に対して甘い考えを持っていない。人間はどうしようもない生き物だと思う。それを口に出すことはしないけれど。
「こうやって中から外の人見てて、その人の人生ってどんなかなあ、なんて考えてるとさ、俺幸せな気分になるねん。その人を家で待っている人がいて、今急いで帰ってるとこなんやろな、とか、今日は誕生日でお祝いしてもらうからお洒落してんのやな、とか。そんなん考えるん楽しいやん」
「そうか」
羅門は相槌を打ちながら、一価の純粋な心に感心している。羅門はどちらかと言うと他人に壁を作る方だし、人の幸せを考えるようなタイプではない。
「一価みたいな友達がいて、俺は幸せなんかもな」
「は?」
羅門の独り言のような言葉に一価が目を見張って彼を見る。そういうことを言わないタイプの羅門が何を突然言い出すのか、という目だ。羅門は自分がそんな不思議発言をしたと気付いていないらしく、どこ吹く風だ。
「お、そろそろ時間やで。行こか」
羅門が言って立ち上がる。
一価も立ち上がって、忘れ物がないか確認して店を出る。
「なんか、俺、呼ばれてる気がする」
羅門が辺りを見回して言い、ぼうっとした表情でフラフラと車道に出ようとするのを慌てて一価が引き戻す。目の前をトラックが駆け抜けていった。
不思議そうに一価を見て、羅門は車道を見やる。
「お前、どうしたん?大丈夫か?」
「ん?」
わかっていない顔で羅門が言う。
「なんか、めっちゃ不安になってきてんけど」
一価は情けない顔で羅門の服を掴んで離さない。
「俺、なんかした?」
「したした。めっちゃ、した」
一価は地下鉄口から丁度千嘉が上がって来るのを見て大声で呼んだ。
「千嘉!ちょっと来て」
「いきなり、なんやねん。それに、千嘉って呼ぶなって言ったやろ」
千嘉は走って彼らの元に来ると、一価の顔を覗き込む。
「お前大丈夫か?顔色悪いやんか。飲み会休む?」
「いやいや、俺やなくて、羅門や!こいつ、なんか変やねん」
「変?」
千嘉は羅門を見る。羅門は肩をすくめてみせる。
「普通に見えるんやけど、墓守って人に呪われてるらしくて、さっきも誰かに呼ばれてるとか言って車道に飛び出そうとするし、本人、まったく自覚してへんから質悪いねん、もう!」
誰に怒っているのか、一人興奮して一価はそうまくしたてた。
「あー、もう一回言って?墓守り人?呪い?」
千嘉は困ったように羅門と一価を見比べている。
「あれ、羅門、そのポケット、なんか光ってんで」
羅門のズボンのポケットを指差して千嘉が言うと、羅門はポケットから風丈からもらった扇子を取り出した。確かに黄金の光を放っている。
羅門の目が金に染まる。
「なんか、頭すっきりしてきたわ」
羅門は呟いて、扇子を剣を構えるように持った。すると扇子は形を変えて細い切っ先の刀に姿を変えた。光は収まったものの、通行人が何事かと目を見張って通っていく。
「なんやねん、それは」
一価が素っ頓狂な声を上げた。千嘉も興味津々で見ている。
「俺の、冒険アイテム的な?」
説明できないことを無理して説明しようとし、羅門が語尾を疑問形にして答えた。
「とりあえず、それを収めた方がええな。銃刀法違反ってやつ、知ってる?」
千嘉が言い、羅門の手に触れる。
「おっと」
千嘉が慌てて手を引っ込める。
「びりってきた、これ」
それだけではない。何かの映像が頭に流れた。しかし、彼は黙っておく。ややこしい事になりそうだからだ。
「しまうって言ったって、どうするんやろ」
羅門が幼子のような顔で千嘉を見る。
「元は扇子やったんやから、イメージして命令する?」
千嘉が首を傾げながら言い、羅門は言われた通りに最初に貰った形を思い出して目を閉じた。戻れ、と小声で呟くと、刀は元の小さな扇子に戻った。
「あーびっくりした」
一価の安心しきった呟きに、千嘉が厳しい顔で羅門を見る。
「お前、今日の飲み会休め。こんな状態で何かあったらフォローできるかわからへん。とは言え、お前を一人にするんも不安やしなあ」
千嘉が腕を組んで考えていると、羅門が微笑んだ。
「もう大丈夫やわ。こいつが見張っててくれるって」
羅門は扇子を掲げて見せる。それは生き物のように形を変え、滑らかに羅門の手首に金のブレスレットとなり収まった。
「…」
説明の付け辛い難解な現象を前にして、千嘉が眉間にシワを寄せ、一価が手品を見たように目を輝かせる。
「わかった。じゃ、羅門は俺から離れるなよ。女子のところにはなるべく行かへんこと。騒がれたら収集つかへんやろし。んで、一価、このことは誰にも黙っとけ。あと、俺もお前んちに泊るから。宜しく」
「ん、わかった」
一価は気軽に答え、羅門はすまなさそうに千嘉に頷いてみせた。
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