第2話 屋上の幽霊

 一価いっかは羅門の惚けた顔を見て、大丈夫?とおでこに手を当てて熱を見る。彼は最近はやりの大学のロゴ入りTシャツと緑のチェック柄の短パンで涼しそうだ。

「熱中症?」

 カバンから水のペットボトルを出して、一価いっか羅門らもんに渡した。

「サンキュ」

 羅門は受け取るとすぐに栓を開けて一口飲んだ。

「さっき、お前の通って来た場所におった人が、急に消えてさ。あれって何なのかなあ、って考えてたらぼうっとしてしもたわ」

 羅門が言うと、一価がギョッとして辺りを見回す。

「今俺ら以外誰もいいひんよな?」

 一価の不安そうな言葉に羅門は「うん」と頷いた。

陽炎かげろう

「え?」

「陽炎みたいやった。やから、俺の見間違いかも」

 羅門は判断を一価に任せる、という風に彼を仰ぎ見て、それから扉を見た。

「お前は冗談言わへん奴やし信用してるけど、怖い事言わんといてくれるかな」

 一価の腕に鳥肌が立っている。

「怖い感じがしなかったんやわ」

 羅門が呟いて、もう一度水を飲む。

「せやかて、人間が消える言うたら、それは幽霊しかおらんやん」

 一価は恐怖に引きつった顔で言い、もう一度回りを見回した。

「おるんかな、ここ」

 小声で呟いて、一価は羅門の服を握っている。まるで小さな子供だ。

「陽炎や、陽炎」

 羅門は彼を安心させるように言い、微笑んだ。

「それより、ほんまもんの幽霊に用があるんやろ?そんな怖がっててどうすんねんな」

 羅門は一価の様子に苦笑しながら言い、空を見上げる。陽はさんさんと降り注ぐ。

「幽霊にほんまもんも嘘もんもあるか。ってか、俺、血みどろ系あかんねん」

 一価は真っ青な顔で言い、カバンの中からまん丸の飴が入った袋を取り出した。赤や黄色のカラフルな飴に砂糖がかかっていて、昔ながらの製法で作られていると袋に書いてある。

「飴ちゃんいる?」

 一価は袋ごと羅門に差し出すが、彼は断った。

「俺、甘いもん食べてると和むねんなあ」

 先ほどの青い顔はどこへやら、とろんとした至福の顔で一価が飴を頬張っている。羅門は微笑んで立ち上がった。ここは暑すぎる。彼の綿シャツは汗でほぼ濃い藍色に変わってしまっている。

 彼は壁の一か所だけ拳一個分開いているのを見つけて覗いてみる。そこから見えたのは下の階の屋根で、非常階段がこちらの壁に向かって上がっている。その出口は、こちらの壁側では扉になっていて、鍵がなければ出ることはできなさそうだ。

 問題は、そこではない。

 男が一人、立っている。一歩進めば真っ逆さまに地面に落ちる絶妙な場所にいる。

「なあ、一価の言っている幽霊って、あれじゃないの?」

 羅門は一価を振り返る。

「ん?」

 一価は立ち上がって、羅門の側に来て、穴を覗いた。

「…」

 無言で彼は羅門を見る。

「どう?」

「俺の叔父さん、そのまんま」

 一価はスマホで写真画像を呼び出して羅門に見せる。古い写真をスマホで撮ったものだが、目の前にいる幽霊と面影がほぼ一致している。ただし、額にあるぱっくり割れた傷跡と生々しい血は写真にはないが。

「どうする?」

 羅門は一価に問うてみた。問われた一価の顔色は蒼白で、可哀想なほど震えている。どうしたものかと羅門は一価の叔父さんと言う幽霊を見た。すると、どうだろう。もうそこには何もいない。

「お前、なのか」

 背後から声が聞こえたのと、一価が羅門の体にしがみつくのが同時だった。

 羅門はそれを見た。

 近くで見ると一価によく似ている。見るも無残な傷跡さえなければ、叔父さんとの感動の再会の場面なのに、一方は悲嘆ひたんに暮れた顔で、もう一方は恐怖に震えた顔で、お互いが目を合わせるのも困難な邂逅かいこうになってしまっている。

 羅門は背後に一価をかばって、前へ足をみ出した。

「ちょっと聞きたいことがあるんですけど、なんでそんな恰好かっこうでここにいてはるんですか」

 羅門は注意深く幽霊を監視かんししながら問う。

「なんで?」

 幽霊は初めて羅門が目に入ったというように、驚いて彼を見た。

「頭から血、出てますけど」

「血?」

 幽霊は手をひたいに当てた。

怪我けがを、したらしい」

 呆然ぼうぜんと幽霊が答えて、まるでここにいる意味がわからないという風に、羅門と自分の手を見比べている。

「ちょっと、初めから整理しましょうか。まず、名前、教えて下さい」

「俺は寺沢秀徳てらさわしゅうとく。待ち合わせで屋上に呼び出されたんだ」

 答えた彼の額から傷が消えていく。表情もはっきりしたものになってきた。

「そうだ。誰かは分からないけど、手紙が来た。俺の兄弟とか書いてあって…」

 秀徳しゅうとく羅門らもんを見て、一価いっかを見た。

「お前が俺を呼び出したのか」

「違う。俺はそんなことしてへん」

 一価は即答して目をらした。

「兄弟に呼び出されたのに、相手がわからへんってこと、あります?」

 羅門が疑うように言うと、秀徳はまゆを八の字に寄せてうつむく。

「俺の母は未婚で俺を産んだんだ。腹違いの兄弟がいるらしいってことは聞いてたから、そいつが俺を呼び出したんだと思った」

 どうやら複雑な事情があったらしい。羅門は一価に目を向けて、どうしたいのか確認する。一価は恐々おそるおそる秀徳の前に出た。

「俺は岸辺一価。岸辺秀也の息子で、あんたのおいっ子にあたる」

 ぶっきらぼうに言った一価は、しかし優しい目で秀徳を見ている。

「甥っ子?秀也と言うのが俺の腹違いの兄弟ってこと?」

「うん。呼び出したのは、たぶん俺の親父やと思う。あんたと同じ大学に入って、あんたを見て驚いたって言ってた。でも、あんたはここには来なかったって親父は言ってた」

「え?」

 秀徳は泣きそうな顔で一価を見た。

「俺はここにいた。ずっと」

 だんだん秀徳の顔が変わってくる。恐怖きょうふに引きつった顔だ。

「俺は逃げた。悪魔あくまから。そしてここにとらわれている」

 ガタガタと震えて、秀徳は辺りを警戒けいかいして見回す。

「何がどうなってんねん?」

 羅門らもんわけが分からず一価いっかに尋ねるが、一価もよくわからないようだ。ただ、秀徳が何かに怯えていて、今にも逃げ出しそうだ。

「秀徳さん、悪魔って何やの?」

 羅門は言って、彼を落ち着かせようと秀徳の腕を掴む。幽霊だということは忘れていたが、ちゃんと彼の腕はつかめた。

「わからない。神話や童話に出て来そうな見た目の怖いやつだとしか言えない。そいつが来ると、辺りは真っ暗になって、俺は底なし沼に引きづり込まれそうになる。逃げても逃げても追ってくるし、誰も助けてはくれなかった」

 答えながら、秀徳は自分の腕を掴む羅門の手に触れてみた。ちゃんと温かく感じる手だった。秀徳は不思議そうに羅門を見た。

「今まで、俺は俺を呼び出した奴を探していた。そいつなら、ここから俺を連れ出してくれると思って。怖い悪魔から俺を守ってくれると思ってた。でも、君が、そうなのか?俺を助けてくれるのか」

 そう言われて困ったのは羅門だ。一価を見て、秀徳を見、途方に暮れたように自分の手に触れる秀徳の手を見た。

「期待させてしもたのかわからんのやけど、俺にはそんな力はなくて、ほんとごめん。何とかしてあげたいんやけど、正直どうしていいのかわからへんわ」

 秀徳の手に自分の手を合わせて、羅門は言った。

「わからない、のか。そうだよな。あはは」

 乾いた笑い声をあげて、秀徳は一価を見た。

「秀也ってやつは、俺に何の用だったんだ?」

「…兄弟がいるって知って、どうしても会いたかったって。親父はあんたの写真を手に入れてたんや。あんた女子にモテてたらしいから、女友達に頼んで。そしたら自分にそっくりで驚いたって。会って話をして、あんたが許してくれたら、一緒に住んでみたかったんやって。親父には他に兄弟いいひんし、あこがれてたんやないかな」

 一価は言って、羅門に向き直ると頭を下げた。

「羅門、お願いや。何とかしたって。成仏じょうぶつさせたるなり、なんなりできひんか?」

「そんなん言われてもな」

 羅門は困ったように一価と秀徳を見比べる。

「幽霊に触れるなんて、やっぱりお前は凄いよ。何とかできるんとちゃうの?」

 一価の熱い眼差しに、ほとほと困ったように羅門は空をあおいだ。

「ん?」

 何かが、彼めがけて振ってくる。

「んん!」

 羅門の頭の上に落ちてきたのは先ほど見た陽炎かげろうだった。今度は幻ではなく、しっかりとした実体をともなっている。

 一度見たら忘れられない甘いマスクに、スラリとした肢体からだせているわけではなく、バランスの取れた肉体はきたえられた細い筋肉で出来上がっているようだ。イギリスの紳士のような古めかしい背広に黒いマントを羽織っている。この暑いのに。異様いようなのは手袋をした片方の手にの長い大鎌おおがまを持っている事だ。

 落ちてきたものの、下敷きにならなくて済んだ羅門は、ハッとして突然湧いて出た男を見た。

「なんなんや、もう」

 驚いているのは羅門だけではない。一価も秀徳も目を見張って、現れた彼から目を離せずにいる。

「やれやれ」

 彼は大仰おおぎょう溜息ためいきをつき、その甘いマスクで微笑んだ。其の声も甘く、聞いていると惚れ惚れしてしまいそうだ。

「だらしないやっちゃな、羅門。鳳家の人間が、何というザマや」

 鳳、というのは母方の名だ。祖母も鳳である。

 良い声で、あんまりな言葉を言われた羅門は一瞬何を言われたのか理解できなかった。

「だらしない?どういうこと?」

 羅門の視線を受けて、彼は大鎌を彼に向ける。

「私の名は鳳風丈おおとりふじょう悪霊あくりょうを退治することを使命とする神の遣いや」

 堂々と名乗った風丈に、羅門はあっけに取られて現実を忘れそうになる。

「ちょっと、聞いてもええ?風丈さんって言ったかな?神さんの何やって?」

 羅門の不審ふしんそうな顔に、風丈は見下げるような目になる。ちょっとした迫力に、羅門は思わず身を引いた。しかし、風丈はすぐに微笑んで見せ、ギラリと光る大鎌を羅門の首にかける。ゴクリと息をのんで、羅門は風丈の澄んだ目を見た。

「神の遣いや。一時いっときは引退していたんや。天上より呼び出しを喰らったからには働かねばならんからな。跡取りが突然いなくなってしもて、鳳家の使命を遂行できるのが私くらいやったからな。お前が育つまで、仕方なしや」

 美貌の主から関西弁が出てくるのが違和感あるなあ、などと考えながら聞いていた羅門はふと、とある事実に気が付いた。

「風丈ってひいひい爺ちゃん?ってことは、あんたもう死んでる?」

 羅門の言葉に、ごん、と大鎌がひるがえって彼の頭を叩いた。首はちゃんと繋がっている。

「あの世で極楽生活してたんや。ほんまに、ええ加減にして欲しいわ」

 黙っていたらいい男なのに、と羅門が考えていると、その考えを読まれたらしい。また大鎌でごん、と殴られる。

「で、そっちの、あんたはん」

 風丈が身を翻して秀徳に大鎌を向ける。慌てて一価が彼を背にかばった。

「一価」

 羅門が焦って声をかける。

「死神、なんやろ?」

 一価は風丈に問いかける。

「良い目をしてる。でもな、頭足りひんのちゃうか。そこの人間は、もう死んでるねんで。死神っちゅうのは生きてる人間を連れてくもんや」

 風丈に言われて、ハッと気が付いた一価だったが、それでも強い目で風丈を見返す。背に庇われた秀徳はどうしていいのかわからない様子だ。

「とは言え、良い読みしてるな。私は確かに死神や。生きている人間を狩ることもする。しかし、本業は悪霊退治やからな。そこんとこ、間違わんとってや」

 風丈は大鎌を振り上げて、素早く振り下ろした。

 突風が生まれ、あちこちで暴れだす。

「おいおい」

 羅門はしゃがんで頭を抱える。木の枝や葉っぱ、石垣の石、その他身近にあったあらゆるものが飛んできてはゴウゴウうなりを上げて渦を巻いて天へ飛んでいく。

「これは挨拶や」

 りんとした声で風丈ふじょうが言った。

 風丈がそれを言った相手は、秀徳ではなかった。

 秀徳の影に隠れていたものがのそりと出てくる。闇をまとったそれを何と呼べばいいのか羅門はわからない。ただ恐ろしいものが出て来たのだと背筋が凍る。秀徳が震えて一価の背後で固まっている。一価も言葉を失くして、それを見ているが、その顔色は白を通り越してしまっている。

「やっとお出ましやな」

 風丈がニヤリと笑う。

「リストラにあったのではなかったのか、死神よ」

 闇がしゃべった。ゾワリと心臓を冷たいものが撫でるような感覚が襲う。

「は、お前、耳が悪くなったんやないか。それともモウロクしてんのやな。この私がリストラなんぞにあうかいな。土下座されて仕方なく戻って来たんや。感謝しいや」

 大鎌を構えて、風丈は不敵に微笑んだ。

「この私に天へ送られることなど、身に余る光栄やろ?」

 不思議な光が風丈から発せられる。あまりの眩しさに、羅門は手を目の前にかざす。

 闇が咆哮ほうこうを上げて風丈に襲い掛かる。

 風丈はゆっくりと鎌を払う。

 闇が霧散むさんする。

「ちっ、逃したか」

 溢れんばかりの光に包まれた世界の中で、羅門は風丈の舌打ちを聞いた。

 世界が元に戻ると、そこには倒れている一価と羅門しかいなかった。

「なんなんや?」

 羅門は一価が息をしているのを確認して、辺りを見回して風丈の姿を探す。

「んんっ」

 一価がうめいて起き上がる。

「あれ、俺たちどうなったんや?」

 一価も辺りを見回して呟いた。

「なあ、秀徳さんは?」

 羅門の問いに、一価はふわりと微笑んだ。

「成仏した。あの光に包まれて。幸せそうに笑ってくれてた」

 一価にはそれが見えたらしい。

「良かった、よな?」

「うん」

 二人で頷き合って、どちらともなく空を見上げた。澄み渡る空には雲一つなかった。







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