エデンへの道しるべ

七海 露万

第1話 陽炎のような男

 京都の夏は暑い。

 林羅門はやしらもんは汗を拭き拭き、キラキラとそびえ立つ京都駅に向かって、そこから電車に乗った。京都のお隣県、滋賀にある下宿に帰る為だ。

 今日は用事で出かけて、市バスに乗って京都駅へ戻ってきたところだ。

 元々、羅門らもんは最近まで岡山に住んでいた。母親は滋賀県の出身で、小さい頃は滋賀の母の実家によくお世話になっていた。夏休みに限らず、短期留学か、というくらい長居していたし、羅門の母の姉の娘、つまり従妹いとこたちとよく遊んだので、言葉は関西弁が口をついて出てくる。

 ちなみに、母の姉、羅門らもん叔母おばは京都に住んでいる。こちらからも住んで良いと打診だしんがあったのだが、従妹たちも年頃だし、という事で母は羅門を祖母に預けた。

 高校から大学へ進学する際に、京都の大学を羅門が視野に入れたのは滋賀のおばあちゃんから通う算段が既にあったからだ。彼の読みからして、滋賀と京都は近いはずだった。しかし現実はそうでもなかったと言える。まあ、電車一本で京都に出て、そこから地下鉄に乗って行ける大学だから、許容範囲内というところか。独り暮らしにかかる費用を考えれば、定期券の価格など半額より低い。飲み会があれば友達の所へ泊るし、おばあちゃんもうるさく言わない。男の子だから大丈夫、という認識だからありがたいという他ない。今のところ、何もかも楽しい大学生活である。

 京都から滋賀へ帰る為の電車は湖西線こせいせんと言って、名の通り琵琶湖びわこの西側を行く路線だ。反対に琵琶湖の東を行くのは琵琶湖線。なんだか湖西線よ、名前負けしていないか?と羅門は思うが追及はしまい。

 いや、そんなことはどうでもいい話で、湖西線と言うのは面白い路線で、強風が吹くと電車が止まる。高架こうかを走っているせいなのかもしれないが、嵐でもないのに電車が止まることが羅門には不思議だった。それに、地域的なことだが、雨がよく降る。琵琶湖の反対側は晴れているのに、だ。滋賀県を抜けて京都方面へ走ると、山科やましなという駅で琵琶湖線も湖西線も路線が一緒になるのだが、たまに湖西線の乗客は傘を持っていて、琵琶湖線の乗客は持っていないという状況に出くわす。電車の本数だって負けている気がするが、羅門は湖西線ののどかな感じが気に入っているから、あまり変わって欲しくはない。

 京都で大学生活満喫、というつもりが、滋賀県ラブ、と変な方向に走ってしまい、羅門は京都には住まず、今のところ滋賀から出るつもりはない。

「お、羅門やんか」

 電車の中でスマホに入れたラノベを読んでいると、大学で学部が一緒の岸辺一価きしべいっかが大津京駅で乗り込んできた。名前がお互い変わっているという話で友達になり、それから飲み会のたびに彼のアパートにはよくお世話になるのだが、そのアパートは京都にある。

「あれ、お前湖西線やっけ?」

 羅門らもんが驚いて言うと、彼はうん、と頷いた。

「俺、もともと滋賀県民やで。一応大学近くのアパート借りてるけど、実家は高島やねん」

 一価いっかは羅門の隣にどかっと座って、カバンから一口チョコレートを出して羅門におすそ分けした。

「ありがと。でもなんでこっから乗ってくんの?」

 羅門は大津京と言う駅が京阪電車との乗り換え駅だと知っているが、実際に乗り換えたことがない。他にこの駅について知っている事といえば、プールがある場所に近いとか、トンネルから抜けて琵琶湖が見えてくる駅だ、とか。

「市役所に用があってん。ま、他にも色々あるけど」

「そっか」

「ああ」

 羅門と一価は口に残る甘い感触を味わいながら沈黙した。

「お前さ、霊感とかある?」

 一価が意を決したように口を開いてそんなことを言う。

「はあ?ないけど、何か困ったことがあんの?」

「いや、そういう訳やないけど、なんかさ、大学で変な噂を聞いてん」

 一価は電車のクリーム色の床を見ながらぽつぽつ話し始める。

 大学の北側にある旧館の屋上に幽霊が出るらしい。誰かを探して毎夜うろつき、男子学生を見つけると屋上から飛んできて、血だらけの顔を近づけては「お前か」と迫力の声で聞いてくるらしい。それが恐ろしいのなんのって、という話なのだが、羅門は首を傾げて聞いている。

「一価はその幽霊に会ったん?」

「え、俺は見てないけど」

「なんや、見てきたように言うからお前が付きまとわれてんのかと思ったわ」

 羅門が安心したように言うと、一価の顔が曇る。

「どうしたん?」

「いや、もしかしてさ、その幽霊って俺に用があるんかな、って思ってて」

 一価の言葉が沈んでいく。

「知り合いってこと?」

「なんて言うか、俺の叔父が若くして亡くなったらしいんやけど、この世に未練がありそうな死に方をしたって聞いたことがあって、その叔父も俺と同じ大学で、もしかしたら俺を探しているんやろうかと勝手に思ってるんやけど」

 正直わからん、と一価は言葉を終わらせた。

「でも『お前か』って迫られるようなことしてへんのやろ?違うんちゃう、それ」

 羅門は一価の杞憂であると言い切って、彼の暗い顔を覗き込む。

「なあ、お前が本当は何が心配なんか俺はようわからんけど、その幽霊の正体がわかればお前は安心するんか?」

「え、まあ、そうかな」

「そしたら、その幽霊、見に行こか」

「え」

 一価が驚いた顔で羅門を見る。彼は一価を元気づけるようににっこりと笑った。

「今日とは言わんけど。都合のいい日が決まったら言うて。そんでお前んちに泊るし。ってか、夜やんな?幽霊出んの」

「昼間でも出るらしい。そしたら、明日!明日昼飯の時間に付き合ってくれへん?」

 一価は羅門の両手を握って叫ぶように言った。丁度、比叡山坂本駅で開いたドアから乗った高校生がギョッとして二人を見る。

「ん?」

 付き合ってくれへん、だけが聞こえたらしい高校生は離れた場所に移動していった。二人気まずい思いをしながら、お互い目を逸らす。

「そういや、千嘉、いや前川も幽霊見たって言ってた」

 一価が共通の友人前川千嘉の名前を出すと羅門は明るい顔になる。

「前川ってめっちゃ頼りになる奴やん。幽霊について何か言ってた?」

 羅門の問いに一価は首を横に振った。

「そっか」

「あいつは怖がったりしてないけど、わけわからんわって。それだけ」

 前川の何事にも動じなさは有名だ。

「しっかし、そんなに目撃者のいる幽霊って、ちょっとないんとちゃう?」

「まあ、そうかも」

 一価も不思議に思うらしく、少し考える風に答えた。

 電車が堅田駅に入り、羅門は立ち上がった。

「それじゃ、俺、堅田やし。明日な。なんかあったら電話して」

「わかった。じゃあな」

 羅門は一価と分かれて電車を降りた。途端に暑さが蒸し返す。

 堅田駅は琵琶湖を渡る琵琶湖大橋の近くにある駅である。その為、対岸の守山へ行くバスも出ている。年々新しい家が建ち、新しい道路が整備されている。とはいえ、田舎は田舎だ。

 羅門が住んでいるのは駅前のマンションで、元々は駅から離れたところの一軒家が祖母の家だったが、祖父が亡くなって今の家に引っ越した。独り暮らしの祖母が不便にならないようにの配慮である。

 駅の近くには病院もスーパーもあるから、たいてい徒歩でなんとかなるので羅門も取りてて生活に困る事はないが、時々祖父のいた頃の一軒家を思い出す。小さな池があって、畑があって、犬がいて。虫を追いかけたり、夏の暑い日には庭でプールやバーベキューを楽しんだ。懐かしい思い出と、自然を感じる生活。車がないと買い物もできないし、母は不便で嫌っていたが、羅門には天国に思えたのだ。

「ただいま」

 羅門がマンションの最上階の部屋へ帰ると、祖母はパソコンでネットショッピングをしていた。昨日はスマホ用のアプリゲームを作っていた。ハイテクな年寄りである。その他にも習い事でウクレレやフラダンスをたしなみ、人生を謳歌している。見習うべき人生の先輩だ。

「おかえり。早かったね。遊んでくると思ってたけど」

 祖母は立ち上がって、お茶を用意しにキッチンへ入った。

「今日のおやつは何やと思う?」

 祖母が冷たい緑茶とスフレチーズケーキをお盆に乗せてダイニングに運んできた。羅門は部屋にカバンを置いて、手を洗うと祖母の向かいの椅子に座った。

「おばあちゃんが作ったんやな」

「わかる?」

 祖母は嬉しそうに言い、おいしそうにケーキを頬張る孫の姿を見ている。

「羅門はほんまにおいしそうに食べてくれるなあ」

「だって、おばあちゃんのおやつ最高においしいねんもん」

 羅門の言葉に照れも何もない。大事な祖母が彼の為に真心こめて作ってくれるものを素直においしいと言って何が悪い。

 とはいえ、これが母親だったら暴言の嵐をお見舞いするところである。別に母が嫌いなのではない。ただの照れ隠しである。友達が母親と買い物に行ったりするのがちょっと信じられない羅門だが、祖母とならどこへでも出かけられる。そういうちょっとした待遇の違いはきっと誰でもあると思いたい。

「羅門の喜ぶ顔が見られるんやったら、おばあちゃん、せっせとおやつ作ってしまうで」

 祖母はそう言って、カットの美しいポルトガル製のガラスのコップに入れたレモネードを一口飲んだ。

「今夜は羅門はどこか出かける予定ある?ご飯いつも通りに用意しててもいいの?」

「うん。今日のご飯なに?」

「おばあちゃん特製のローストビーフ丼。おばあちゃんは今野さんと六時からカラオケ行くから、羅門は好きに過ごしてや」

 祖母はうふふ、と最後に付け加えて朗らかに言った。今野さんと言うのはイケメン老紳士で、息子さん夫婦と同居しているご隠居だ。もともと設計士でお宅もモダンデザインのしゃれた洋館だ。どうして羅門が彼を知っているのかと言うと、一軒家だった祖母の家の近くに住んでいるからだ。そもそも、その家をデザインしたのが若き日の彼だったらしい。つい最近知った追加情報は、なんと彼は小学校からの祖母の同級生で、長年の友情が延々続いているということだった。

「遅くなっても心配せえへんから、楽しんできて」

 羅門の言い方に祖母が少女の様に可憐に微笑む。

 祖母が羅門の空いた食器を片付けてくれるので、彼は自分の部屋のパソコンで課題をすませ、リビングに戻るとテレビをつけた。録画した洋画を見ていると、鼻歌が聞こえてくる。

 祖母はもうお出かけ用の服に着替えていて、ダイニングキッチンのテーブルにはラップしたどんぶりとすまし汁、色鮮やかなサラダとワイングラスが用意されている。

「好きな時間に食べて。冷蔵庫に偽アスティ冷やしてあるから」

 祖母はそう言って出かけて行った。マンションの外で外車で迎えに来ている今野さんの姿が思い浮かぶ。

 羅門は冷蔵庫から、ワインのボトルを取るとグラスに注ぐ。これは祖母の作ったぶどうと酢と氷砂糖のジュースだ。ワインを勧めるわけにはいかない羅門の為に祖母が工夫を凝らして色々用意してくれる飲み物の一つ。祖母は食事には必ずワインを飲むし、料理上手で羅門を含む一家の舌を支えるシェフである。そういう祖母の娘なのに、羅門の母は料理がへたくそである。これはどういう化学反応なのだろうか。

 羅門が祖母の作った夕食を堪能し、食器を片付けてゆっくりしていると、カタンと廊下で音が鳴る。

 祖母が帰って来たのかと思って時計をみたが、まだ夜八時だ。

「おばあちゃん?」

 一応確認しに廊下へ出てみたが、誰もいない。

 気のせいかと、彼はリビングに戻り、洋画の続きを見ていた。ところが今度はテレビが突然消える。

 羅門はイラっときて電源を確認しにいくが、どこも何も悪くはないようだ。

 マンションで何か電気系のトラブルだろうか、と彼は溜息をついて、風呂に入ることにする。シャワーを手早く済ませると、エアコンの効いたリビングに戻って彼が扇風機もつけて涼んでいると、今度はエアコンと扇風機が止まった。

「おいおい」

 家電の寿命は重なりやすい。この時期にあれこれ新品にするのはお金かかるよなあ、と羅門が考えながら扇風機の電源を切り入れしていると、パシン、と大きな音が耳元に響く。

「暑いのに勘弁してくれよ」

 羅門が涼を得るのに他に良いものがあるかな、と考えていると、エアコンも扇風機も元の通りに動き出す。

 良かった。

 羅門は安堵の溜息をついた。

 それから深夜になるまで家電に異常はなく、祖母も無事に帰って来て「お休み」を言い、快適に過ごしてベッドに入ると、彼は健やかな寝息と共に朝まで熟睡することができた。その彼の回りをうろつく黒い影がいたことや、鋭い目が彼を見つめていたことなど、彼は知る由もない。

 朝は一限から授業があるので、早めに家を出る。

 湖西線に乗って京都駅に着いたら、地下鉄で今出川駅まで行く。大学は降りたらすぐの距離だが、何しろ広い。

 同智大学と書かれた門を抜けて、羅門は二号館の中に入った。理工学部機械工学科の彼は文学部の集結する二号館にはあまり用はないのだが、英語の授業はここで受けることになる。

 一限の英語が終わって、図書館に急ぐ。旧館の一歩手前に図書館はあり、その入り口におしゃれな学食があるのだが、限定30食の格安ランチをゲットするのが目的だ。このランチはテイクアウトもできるので、これを持って校内の落ち着く場所でまったりするのが羅門の楽しみなのだ。

 生憎、ランチは昼前なのに売り切れだった。仕方なく、外のコンビニで菓子パンを買って戻ると、その足で旧館に入った。

 ここはレンガでできた洋館の風情で、中に入ると少し暗い感じがする。もちろん、照明も付いているのだが、暖色系のライトになっていて気分は落ち着くだろうが、学業に向かない。それにいつも静かで、授業で使われることはない。キリスト教の大学なので牧師がここに常在していて、たまに宗教的目的で使われることはあるらしいが、教会というわけでもないらしい。

 羅門は絨毯の敷かれた階段を上へ上がって行き、屋上に出る扉に手をかけた。少し重い扉を開けて外に出ると、気持ちの良い風が吹き抜ける。

「あちー」

 日差しが遠慮なく羅門に突き刺さる。

 風はあるが、暑いものは暑い。

 腕で顔に影を作りながら、何もない屋上の片隅に腰を下ろす。石の積み上げられた壁で下は見えないが、一価が来てもすぐにわかる。

 羅門はコンビニの袋からメロンパンとコーヒーを取り出して腹に収めると、パタパタと手で顔に風を送る。着ている紺の綿シャツが汗で濃い色になってしまう。

 これは格好悪いぞ。

 汗をかくことを想定していなかった。

 ぼんやり屋内への出入り口をみやると、男が立っていた。

 見たことのない顔だ。しかし、一度見たら忘れないタイプの美貌で、昔の洋画に出て来そうな甘いマスクのお坊ちゃん、という風情である。背は高いし、スラリとしているのに肩幅があって男らしい。愛嬌のある大きな目が羅門を見ている。

 男の姿を目に入れて、羅門は違和感を感じる。そして、彼の体の輪郭がゆらりと揺れるのを見た。

 まるで陽炎やな。

 羅門の感想が聞こえたのか、彼は少し笑った。

 暑さで目がおかしくなったのだろうか。

 羅門は目をこすってもう一度男を見た。

 幻覚の様にその姿が揺れている。

 陽炎のような男は大仰に肩をすくめて消えた。

「ん?」

 パチパチと目をしばたかせ、羅門は今見た光景が夢なのか現実なのかと考える。

 バタン、と音がして出入り口の扉が開いた。

 出て来たのは一価だ。

「お、いたいた」

 一価はちょっと笑って、陽炎の男がいた場所を通り抜けてきた。

「待たせてしもたか」

 羅門はどちらが現実なのか、ちょっとわからなくなって、もう一度目をしばたかせたのだった。


 




 


 


 







 



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