第五章 絳雪の擾乱(八)

「ひとつ、そなたに訊きたいことがある」


 巴公子が東嘉宮から出てこられたとき、夏陽公子の陣営には騒ぎを聞いて駆けつけた巴の臣も控えておられたといいます。


「あの丞相家のせがれだ。名はたしか……」


 ――悧才。


 あの方が無造作に名を呼ばれると、悧才さまはその場に膝をおつきになり、こうべを垂れられたとか。


 ――ご無事で、殿


「あのときのふたりの様子が、おれにはどうもひっかかるのだ。何がどうおかしかったのか、うまくは言えん。だが、すくなくとも、ただ再会を喜んでいるだけには見えなかったな」


 まちがったものを飲み込んでしまったときのように、夏陽公子は顔をしかめられました。


「……敵同士が腹のさぐりあいをしているようにも見えた。そなたなら心当たりがあるのではないか」


 わたくしは、たまらず両手で顔をおおいました。


 東嘉宮での最後の日、殿下がわたくしに託されたお言葉は、ただ一言にございました。


 わたしの勝ちだ、と。


 お聞きしたときは、意味がわかりませんでした。お尋ねしても、殿下はただお笑いになるばかりで教えてくださらなかったのです。あれにはわかるはずだとおっしゃって。


 あのお言葉の意味を、わたくしはそのとき悟ったのです。まこと、殿下の勝利にございました。倒れたのがどちらであったにせよ、悧才さまが膝をついてお迎えし、故国にお帰りになられたのは、巴公子、こう天祥てんしょう殿下であらせられたのですから。


 臣の名を呼び、殿下と応じたおふたりの、はた目にはごく当たり前の主従のやりとりは、おそらく当人たちだけに通じる符牒ふちょうだったのでしょう。生涯ひとつの秘密を分かち合うことを確認するための。


 うつむいて肩を震わせるだけのわたくしに、夏陽公子はそれ以上何もお訊きにならず、ただ放っておいてくださいました。その優しさに甘えて、わたくしは涙が涸れるまで泣きました。雪の夜に葬られたひとりと、ひとつの名をいたんで。


「……あいつと馬を駆るのは楽しかった」


 去り際に、夏陽公子はそうつぶやかれました。


「思うさま馬を走らせているときだけ、公子としての立場も、しがらみも忘れることができた。あいつも馬上では、それはいい顔をしていたものさ。あの顔を見ることは、おそらくもうないのだろうな」


 同じことを、わたくしもばくと感じておりました。桃の枝の礼を口にされたときの、そしてかんざしを差し出されたときの、あの飾らない表情が、あの方のお顔にのぼることはもう二度とないのだろうと。 

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