第五章 絳雪の擾乱(五)

 助けてくださいと、わたくしはあの方にすがりつきました。ええ、まさにそのために、わたくしは東嘉宮を抜け出してきたのですから。


 ――あれを、呼んできてはくれまいか。


 殿下は、わたくしにそうお頼みになったのです。もしそれが叶わぬときは、こう伝えてくれと、お言葉を添えて。


 言伝ことづてなど絶対に嫌でした。まるで遺言の伝者がごときお役目など願い下げにございます。


「わかっている」


 あの方は、わたくしの両肩をしっかりと支えてくださいました。


「天祥さまは必ずお助けする。そのために来たのだから」


 いったい何が起こっているのかと問うたわたくしに、あの方は信じられないしらせを告げられました。


 王太子はんす、と。


「乾王付きの女官が自白したのだ。王太子から毒をわたされ、夏陽公子から乾王に献上された酒に混ぜるよう命じられたと」


 つまり、宏基殿下はこともあろうにご自分のお父上、乾王陛下をしいしたてまつらんとし、さらにはその罪を夏陽公子に着せようとはかられたのです。


「すでに、夏陽公子に王太子討伐の命が下っている。じき夏陽公子の兵が東嘉宮になだれこもう」


 顔から血が引いていく音が聞こえるようでした。手足はしびれたように感覚をなくし、空っぽの頭にはいつかの殿下のお言葉だけがこだましておりました。


 宏基殿下の望む絵図。それは、父殺し、甥殺しの絵図だったのでしょうか。


「そうなる前にわたしが天祥さまをお救いする。だから、あとはわたしに任せて、そなたは逃げよ」


 わたくしも、という言葉は、喉もとで飲みこみました。わたくしが戻っても足手まといにしかならぬことは重々承知しておりましたので。ならばせめてと、わたくしは西塀の抜け道のことをお伝えしました。力強くうなずいたあとで、あの方は「小杏」と、わたくしにささやいたのです。


「名を呼んでくれないか」


 巴公子ではなく、おのが名を、と。


「天祥さまがくださった名だ。次に会うときは、その名で呼んでくれ」


 あざやかな笑みをひらめかせ、あの方は走り去っていきました。わたくしの肩にかすかな温もりだけを残して。


 ……以前、わたくしはこう申しましたよね。わたくしが恋した方は、どちらであったかと。その答えを、わたくしは未だに見つけられておりません。


 同じお顔、同じお声で、同じ願いを口にされたおふたりの、ただひとつ異なるはその瞳にございました。昼の透きとおった空と、夜の深い空。どちらの空も、仰ぎ見る者を魅了してやまない、それは美しい青にございましたよ。


 夜の闇にあの方の背中が消えて、いったいどれほど経った頃でしょう。不意に、空が明るくなりました。はっと顔をあげたわたくしは、たまらず雪の上に膝をつきました。空を照らしていたのは、日月じつげつの光ではありませんでした。天を焦がす紅焔が、東嘉宮の方角から立ちのぼっていたのです。


 絳雪こうせつの乱と、その変事がたいそう風雅な名で呼ばれている理由わけを、わたくしはよく存じております。


 舞い散る雪が炎に照り映えて踊るさまは、さながらあかき花弁が乱舞するがごとき眺めにございました。

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