第五章 絳雪の擾乱(三)
東嘉宮を去るようにと、わたくしが殿下に命じられたのは、曇天にその年最初の雪がちらついた夕べのことでした。宏基殿下にお会いになるとかで、衣冠をあらためる介添えをしていたわたくしに、殿下は淡々と告げられたのです。
「西の通用門の近くの塀がすこし崩れている。
とうとうこのときが来たのだと、わたくしの胸の鼓動がにわかに速くなりました。数日前から東嘉宮をつつんでいた、雷をはらんだ雲のような不穏な気配を、わたくしは誰に教えられるでもなく肌で感じとっておりました。
「嫌でございます」
殿下からそう申しわたされたときのために、わたくしはあらかじめ答えを用意していたのですが、いざそのときになってみれば、
わたくしが東嘉宮で殿下にお仕えするようになってから、すでに三度、殿下は血を吐いておられました。日に日にやせ細っていかれる殿下に、わたくしは何度も医師に診せてくれとお頼みしたのですが、あの方は頑として首を縦にふってくださいませんでした。
ご自分のお体をかえりみない殿下に、わたくしはずいぶんと気をもみ、悲しみ、多少なりとも腹をたて、最後に心に決めたのです。これから何が起ころうと、わたくしは決して殿下のお側を離れまいと。
「それは困る」
わたくしが聞きわけないことくらい、殿下はとうに予想されていたのでしょう。笑みをふくんだ殿下の眼差しは、泣きたくなるほど優しいものでした。
「そなたには大事な用を頼みたいのだ」
わたくしの肩を抱きよせて頼み事をささやいたあの方の、袖にすがって泣いてしまえばよかったのかもしれません。本当に、いまでもときおり自問するのです。あのとき、わたくしが殿下のお袖をとらえて離さなければ、その先にはまた別の道がひらけていたのではないかと……いえ、思いあがりもはなはだしいことにございますね。どうぞお忘れくださいませ。
「頼んだぞ」
瞳に映える青絹の正装に身をつつみ、あたりをはらう威厳にあふれたあの方を、わたくしはただひざまずいてお送りするしかありませんでした。昂然と胸をはり、前だけを見すえて、あの方は行ってしまわれました。わたくしの手が届かないところへと。
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