第五章 絳雪の擾乱(二)

「おかしなことを言うと思った」


 鏡をのぞけば、そこに同じ顔、同じ色が映っているだろうと殿下がおっしゃっても、その少年はかたくなに、こんなに綺麗なものは見たことがないと、そう言って笑ったのだそうです。


 そのときの少年の気持ちが、わたくしには手にとるようにわかりました。冴えた星がまたたく群青の空のような双眸に心を奪われたのは、わたくしも同じにございましたから。


「悧才が何を考えてあれを連れてきたのかは、すぐにわかった。わかっていて、わたしはあれを受け入れた。名もなき孤児であったあれに名をあたえ、わたしのもとに縛りつけた」


 人質である殿下が故国におもどりになれる機会はただ一度、父王が崩御し、ご自身が王位を継がれるときだけにございます。生きてお戻りになるならば、ですが。


 ……ええ、そのとおり、ご遺体であればよいのです。不慮の死を遂げた主君の亡骸とともに帰国の途につく一行を、さまたげる者などおりますまい。棺の中身が偽者ではないかと疑う者がいたとしても、物言わぬ貴公子の稀有な碧眼を見れば、その疑念もたちどころに晴れるはず。


 悧才さまが手をひいて連れてこられた青い瞳の幼子は、いずれ殿下のご帰還に捧げられるにえにございました。


「あれ自身もとうに気づいていただろうに、馬鹿なやつだ。逃げてしまえばよかったのに」


 殿下は苦いつぶやきをもらされましたが、わたくしには、その少年が自分の意志で殿下のお側を離れなかったのだと思えてなりませんでした。そう申しあげると、殿下は「昔は」と、遠い目をされました。


「そうだったのかもしれない。昔は互いの考えていることがよくわかった。いまはだめだ。離れすぎた……いまは、あの愚かな王太子の気持ちのほうがよくわかる」


 殿下は自嘲めいた笑みを浮かべられました。


「姿形は似かよっていながら、みなに好かれ、ほめそやされるのは己ではない。一方が輝くほどに、己はかすんでいく。さぞや口惜しかろう……憎かろう」

「殿下」

「だから、容易たやすいことだった」


 こともなげに殿下はおっしゃいました。


「あの王太子の懐にもぐりこむのは。気持ちはわかるとささやいて、あの男の望む絵図を目の前に広げてやればいい。甘い夢から醒めたとき、己があおっていたのが美酒ではなく毒杯だったと気づく暇が、あの男にあればよいが」


 宏基殿下の望む絵図。殿下が最後まで絵柄を明かしてくださらなかったそれは、おそらく染料の代わりにおびただしい血で描かれていたことにございましょう。

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