第五章 絳雪の擾乱

第五章 絳雪の擾乱(一)

 ――名を呼んでくれないか。


 そう、あの方はおっしゃいました。しとねに横たわってわたくしを見あげるあの方の瞳は、おだやかにいでおりました。


「……天祥さま」


 そっと呼びかけると、あの方は安心したように眼を閉じられました。眠りにおちる寸前、吐息とともに唇からこぼれた名の響きがひどくやさしく、ああきっとおふたりは、こうして互いの名を呼びあって過ごされてきたのだろうと思いました。主従として、ともとして、ときには兄弟のように、互いに陽となり影となって生きてこられたのだろうと。


 わたくしが東嘉宮に伺候して三日が過ぎておりましたが、その間一度たりとも宮の外に出ることは許されませんでした。わたくしは、客人として滞在されている殿下の専従の女官として遇されていたのですが、実際は殿下のお部屋に軟禁されていたも同然だったのです。


「いずれ逃がしてやるゆえ、それまでおとなしくしていろ」


 そうおっしゃる殿下に、わたくしはせめて夏陽公子に殿下のご無事をお知らせしたいと訴えたのですが、にべもなくはねつけられました。


「じき仕上げなのだ。夏陽公子などにひっかきまわされたくはない」


 お言葉の意味をはかりかねていたわたくしに、殿下は「まさか」と唇をゆがめられました。


「まさかそなた、夏陽公子がわたしの身を案じてそなたをよこしたのだと、本気で信じているわけではあるまいな」


 それ以外になにがありましょう。ですが、殿下は喉をならしてお笑いになったのです。


「あの男がそこまで殊勝なものか。王太子と巴公子とで結託して、どんな悪だくみをしているのやらと気になって仕方ないのだろうよ。心配せずとも、あの男にとっても悪いようにはしてやらんというのに」


 薄刃のような笑みを浮かべられたあの方には、あらがえない魅力がございました。


「では悧才さまに」

「なおさらやめておけ」


 そっけなく殿下はおっしゃいました。


「あれは夏陽公子以上の食わせ者だ。そなたも気をつけろ。やさしげに見えて、あれは誰よりも冷酷だ」


 殿下とよく似た面差しと青い瞳をもつ少年を連れてこられたのも、悧才さまだったといいます。あれは乾へ旅立つ前日の晩だったと、寝物語に殿下が話してくださいました。


「そなたと同じことを言った」


 綺麗だと、殿下の瞳を見るなり、その少年は言ったのだそうです。

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