第四章 霜天の孤影(七)
「なぜそのような目で見る! 憐れまれるべきはわたしではない……あやつだ。あの、いやしい捨て子!」
吐き捨てられた言葉は、わたくしではなくその場にいない別の誰か、いえ、その誰かを通して殿下ご自身を傷つけていたように思えました。まるで鏡に拳をたたきつけるように。
「……あれは影だ」
うなるように、殿下はつぶやかれました。
「ただの影だ。なのに、なぜ、皆はあれのほうを……っ!」
にわかに身体が自由になりました。殿下が急に身をよじられ、はげしく咳き込まれたのです。咳に混ざって、ぱきりと、かすかな音が聞こえました。殿下の拳の中で
咳はずいぶん長くつづきました。わたくしはのろのろと起きあがり、苦しそうに体を折っておられる殿下の背中に手をそえました。
「殿下、大丈夫で……」
問いかけて、ぎくりといたしました。ようやく咳がおさまって殿下が口もとから離された手、その指の間から、ふたつに折れた簪とともに鮮血がしたたり落ちたのです。
折れた簪が殿下の掌を傷つけたのだと、とっさにそう思った私の目の前で、殿下の喉がもういちど震えました。その唇から一筋の血が伝った瞬間、わたくしの頭の中は真っ白になってしまったのです。
わたくしは殿下の手をとり、袖で血の汚れをおふきしました。何度も、何度も。馬鹿なことをしたものです。手をぬぐうより先にやることがあったでしょうに。ですが、あのときは動転して、自分でも何をしているのかまるでわからなかったのです。ただ目の前の不吉な赤をぬぐいさってしまいたい、その一心でございました。
殿下は、ただぼんやりとご自分の手のひらを眺めておられました。その人形のようながらんどうの瞳を見て、わたくしはようやく我に返ったのです。
とにかくひとを呼ばなければと腰を浮かしかけたわたくしの手首を、殿下がつかまれました。たったいま血を吐いたひとのものとは思えぬ強い力でしたが、その手は小刻みに震えておりました。
「……そばにいてくれ」
溺れる者が必死にのばしたがごときその手を、どうしてふりはらうことができたでしょう。わたくしはそっと殿下の背中に腕をまわし、冷たい体を抱きしめました。
凍えた殿下の体をあたためてさしあげられるならば、己の身の熱をすべてさしだしても惜しくない。そうわたくしは思ったのです。
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