第四章 霜天の孤影(三)

 身分の高い方々は、ときに己の身代わりをたててまわりの目をあざむくことがあるのだと、話には聞いておりました。


 有名なところでは三代前の乾王陛下でございますね。ときの乾王陛下は、朝議の場で弟君のはなった刺客に襲われたのですが、そこで命を落としたのは、襲撃あることを予測して側近が用意していた影武者であったと。その功により夏陽の地をたまわったくだんの側近が夏陽公子の祖父君であらせられることは、わたくしが語るまでもないことにございましょう。


 菊花節の晩、青華宮で空色の瞳の殿方を見たとき、わたくしの頭にまっさきに浮かんだのは、その乾王陛下の故事でございました。


 激したお声で名を呼ばれ、おそらく投げつけられたすずりかなにかの破片で傷を負われたあの方は、巴の王太子、こう天祥てんしょう殿下の身代わりの者ではなかろうかと。長い患いのなかでつらつらと考えたすえ、わたくしはそう結論づけざるを得ませんでした。


 なんとなれば、それですべての説明がつくからです。なぜ、お体が丈夫ではないはずの殿下が、夏陽公子のお誘いに応じつづけることがおできになったのか。なぜ、ときおり庭園でお会いしたあの方は、悧才さまの名を呼び捨てにされるとき、ほんのわずかに口ごもられたのか。


 ……どうして身代わりをたてる必要が、と? ええ、わたくしもそれが知りたかったのです。かつての乾王陛下のごとく、殿下は遠く異国の地にあっても誰ぞにお命を狙われていたのか、それともほかに理由がおありになったのか……いえ、正直に申しましょう。ただの愚かな小娘にすぎなかったわたくしが、本当に知りたかったことは、ただひとつにございました。


 わたくしが恋した方は、でいらっしゃったのか。


 お笑いいただいても、いえ、いっそなじってくださった方が気が楽でございます。わたくしが夏陽公子のお申し出を一も二もなくお引き受けしたのは、なによりも自分の気持ちを確かめたかったからなのでございますよ。


 そんなわたくしの心の奥底まで夏陽公子が見抜いていらっしゃったとは、さすがに思えぬことですが、わたくしが断るはずもないことは承知の上で頼みにいらしたことは確かでございましょう。その後の段取りは流れるようになめらかで、諾と返した翌日から、わたくしは東嘉宮付きの女官として働くことになったのです。

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